プールサイドでふらりと揺らいだ遙を見て、水希は水面に顔だけを出した状態で眉をひそめた。
「何、おまえ」
「何がだ」
「……」
相変わらず上手なコミュニケーションが取れない遙と水希。
水希も水希でなかなかぶっきらぼうな言葉遣いだったが、遙の返事が気に入らなかったらしくチッと舌を鳴らしてプールサイドにあがった。
「真琴」
「どうしたの? 水希」
「このバカ家に置いてくる」
え、と目を丸くしたのは真琴だけでなく、腕を掴まれた遙もだった。
水希はより詳しい説明を求める真琴を無視して遙を引っ張りながら更衣室まで向かうと、タオルを使ってぞんざいに体を拭いた。それからまだ微妙に濡れている体をなおざりにしたままさっさと制服に着替え、遙には自分のジャージを押し付けた。
「……ちょっ、何するんだ」
ここで遙はやっと我に返る。
水希は遙に上着を着せていたのだがその手を阻まれたので大層不機嫌な顔をする。
お互い身長が近いのでサイズはそこまで窮屈じゃないのだが、そういう話じゃない。
「おまえはまだ濡れてないからとりあえず着とけばいいだろ」
「は?」
「水着で帰る気か、変態」
一言多い、と意図せずとも青筋が立つ。
「それ履いて、帰るぞ。ドアホ」
やはり、一言多い。
「……」
さすがに殴ろうと拳を振り上げたところで水希は言った。
「おまえ熱あるだろ」
疑問でもなんでもなかった。
ぴたりと動きを止めた次はきょとんだ。その様子をみてやっぱり自分では気づいてなかったんだなと水希は呆れる。
それに勘のいい真琴ですら気づいていなかったのだから、今に至るまでは症状は全くといいほど出ていなかったのだろう。ちょっとだるいかなぁ? 気のせいか? ぐらいの、軽い感じ。
遙は自分の額に手を当てる。
さっぱりわからん。
それが彼の感想だった。
「まだ微熱程度だろうけど、動けるうちに家まで帰って休んだ方がいい。本当にきつくなってぶっ倒れられたらさすがに困る」
あまり困った様子の感じられない抑揚のなさだったが、じっと遙を見る若葉色は真剣だった。
遙はしばらくは納得のいかない様子で黙っていたが、渋々と水希のジャージを着ると、適当に荷物をまとめた。
いわれてみればなんだか体が異様にだるいような気がしてきたのだ。
潔く帰る支度を始めた遙を見て、水希は満足そうに目を細める。どちらかというと、安堵しているように見えた。
(変なとこで目敏いやつ……)
真琴もなかなかの世話焼きだが、水希はそれを勝るような気がしてならない。
呆れからため息をつこうとした、そのとき。
「っ」
ぐらりと視界が傾いた。驚いた水希の顔が見えた気もするが、定かじゃない。
床にぶつかりそうになったがその手前でぐいっと力強く引っ張られた。十中八九、水希の仕業だろう。案外力があるな、というか、火事場の馬鹿力か? あまりうまく働かない頭で、そんなどうでもいいことを考えた。
さておき、引っ張られたことによって遙の目的地は床から水希に変わった。結構勢いをつけて飛び込んだので(といっても故意ではない)、水希はよろめいて、後ろへたたらを踏む。
そのまま倒れるかと思いきや、背後の壁が助けになったらしい。
ぐっ、だとか、多少のうめき声が聞こえたが床との対面イベントは避けられたのは幸いだ。
「いっ……つ……」
どうやら水希の方は重傷だったらしいが。
「大丈夫か……?」
よほど変な打ち方をしたのか水希は涙目になっていた。
さすがの遙も心配になって声を掛けたのだが、水希は遙をギロリと、しかし涙目で睨む。
「『大丈夫?』は、遙だろうが!」
怒鳴られた。しかも、わりと本気で。
遙が気後れし肩を竦ませても水希はそのまま続けた。
「なんで自分の体調に気ぃつけないわけ?! なんで倒れるまでほっとくんだよ! 午前中からおまえ、ちょくちょくキツそうだったじゃんか!! こうなるまで黙ってた俺も俺だけど、おまえが泳ぎたいだろうからって見過ごしたのは俺だけどおまえは自分に気ぃ遣わなすぎだよバカ! 水が好きなのはわかるけど、体壊したら元も子もないだろうが!」
それはもう、ノンブレスで。
こんなにも水希が感情的になるのは、初めてだと感じるぐらい、久しぶりだった。
ふっとよぎったのは、セピア色の記憶。いつだったか、どうしてだったか、昔もこんなふうに、彼に怒鳴りつけられた気がする。
呆気にとられた遙に対し、水希はギッと強く歯ぎしりした。
「……おまえが病人じゃなければ、本気で殴ってやったのに」
そんな不穏な言葉を残して、水希は遙の背に回していた手を解いた。
訪れた解放感に、そんなに強く抱きとめられていたのかと遙はやや驚いた。しかも、下がった手が何度か開いたり閉じたりを繰り返したのがうっすら見えて、殴る気でいたというのは本気だったのかとも。
「……悪かった」
謝ったところでどうにもならないだろうし、ただの気休めだと遙もわかっていた。でも、言葉にせずにはいられなかった。
やはりというべきか、水希からの返事はない。俯いた彼の表情はとてもじゃないが窺えなかった。
「どうしたの?! 水希ちゃんの怒鳴り声、聞こえたんだけど……っ」
バタン! と強い音を立ててドアを開いたのは渚だった。
しかしその勢いは、俯いている水希と、位置の問題で、そこに覆いかぶさっているようにも見える遙とを見たことで殺がれていった。しかも、そこにあるのが不穏な空気なのだから、なおさら黙るしかなかったのだ。
「渚。真琴呼んできて」
「えっ、あ、うん!」
沈黙を破った水希の声は冷たかった。
それを、間近で聞いていた遙が一番に感じ取っていた。
「……水希」
「黙れ」
本気で怒っているのだと、今更理解する。彼の声は信じられないぐらい凍てついていた。
急いで更衣室を後にした渚が、真琴をつれて戻ってくるのにそう時間はかからなかった。彼らの後ろには、心配そうに顔を覗かせる怜と江の姿もある。
やってきた真琴は2人の様子をみて、まず顔を顰めた。
これはいつもの痴話喧嘩と囃し立てられるようなそれと違うものだ、と、すぐに察した。
「水希」
けれどそれを問い詰めようとはしなかった。今、この場ではそれが正解なのだと、水希を、遙をよく知る真琴はわかっていた。
「こいつ、熱があるから家まで送ってやって。歩くぐらいはまだできるみたいだけど、それでもキツイだろうし、たまにとぶから、おぶってやった方がいい」
顔を上げずに水希は言う。
真琴は水希の口からでた言葉にまさかと驚いたが、それだと水希が怒鳴るまでの経緯がなんとなく浮かび、合点がいった。
後輩3人が心配そうに見守る中、真琴はそれを承知して、更衣室に足を踏み込み、呆然としたままの遙を連れ出す。そのとき一度だけ水希の頭をぽんと撫でてやったが、それもまた気休めにしかならないのだろう。
「ハル、俺が送るけど、おぶる?」
「…………いや、いい。歩ける」
心ここに在らず、といった感じだった。水希のことが気がかりなのだとすぐにわかった。でも、多分、いや、きっと。水希は、少なくとも今は、遙の言葉を聞きたくないだろう。真琴は思う。
それは遙を嫌悪しているとかではなく、もっと複雑な、何かだ。
それでも本当なら遙に今の水希の横にいてほしいし、それが叶わないなら真琴がいてやりたいのだが、遙は熱があるし、真琴はそんな彼を家まで送り届けることを頼まれてしまった手前、どちらもできない。
「……まこちゃん」
渚の申し出に、残った中では一番彼が適任か、と真琴は首肯した。
「でも、怜と江ちゃんは、待っててあげて」
「ですが……」
「泣いてるの、あんまり人に見られたくないだろ?」
困ったように眉を下げ、情けない笑みを見せた真琴に、怜と江、それと遙は驚いた。その頃にはすでに、渚は更衣室の中に入っていた。
確かに水希が俯いていたのを見たが、泣いていたなんて、気づかなかった。真琴が気づいたのは、さすが兄なんだなと頷ける。
なら、彼は、渚は
「ハル、そんな神妙な顔しないで。きっと明日には落ち着くよ。落ち着いたら水希だっていつも通り、普通に戻ってるから、そのときに話し合えばいいだろ?」
気づいたというのだろうか。すぐ目の前にいた遙でさえも気づかなかったのに、あの一瞬で、離れた位置から水希を見た渚は。
「ほら。これ以上ひどくなる前に、帰ろう」
それは、遙の体調か、それとも。
真琴に促されて、ふらふらと歩き出す。更衣室と真琴たちとをただただ不安げに見つめる後輩2人の頭を、真琴は去り際に撫でてやった。
真琴自身はあまり意味はないだろうと思っていたが、それだけで、2人は少し気持ちが軽くなっていた。
「……ハルはもうちょっと、水希のことを考えてあげてもいいかもな」
これ以上、どう考えればいいんだ。わからない。ギリと奥歯を噛む。
彼に対してだけは普段以上に無愛想になってしまうし、甘えたいし、甘やかしたいと思うけれど、いっぱいいっぱいなのだ。
だからこそ自分よりも水希のことをよく理解する人間がいるのかと思うとイライラする。やるせない悔しさが、こみ上げる。けれどそれ以上に、今はただ、水希を怒鳴らせたのが、水希を泣かせたのが自分自身だということが、やりようのない苛立ちに変わっていた。
「もっと自惚れなよ、ハル。ハルが思ってる以上に、水希はハルが大好きなんだよ」
「……」
「だから水希は怒鳴ったし、泣いたんだ。そんなに気がかりなら、早く体調治して、一発殴られなよ。それとも、俺が代わりに殴る?」
それこそ本気で遠慮したいと、遙は力なく首を振った。
「冗談だよ」真琴が笑う。仮にも病人に、ひどい冗談を言うものだ。
それから2人は帰路につき、家につながる階段にたどり着くまで黙っていた。
「……でも、水希に殴られる直前までもっていくなんて、ハルも大物だよなぁ。本当の本当、本気で怒ったときぐらいだよ、水希が人を殴るのって。いつもはどんなに機嫌損ねても、脛蹴り止まりだろ」
いや、それも十分痛いのだけれど。階段を共に登る真琴の言葉に、遙は思わず水希の蹴りの威力を思い出して眉を寄せる。
真琴はいつもより余分に階段を上り、やっと遙の家の前に立った。水希の言葉もあって心配していたが、遙の様子を見るに、これからしっかりとした休養をとれば、明日にでも治りそうだ。
「ついたよ」真琴に遙は軽く礼を言い、家の鍵をあけた。
「ほんと、ハルぐらいだよ」
背後から声がかかる。
「あしたには、仲直りしなよ」
肩越しに見れば、すでに真琴は遙に背を向けていた。それでも遙は真琴の姿が見えなくなるまで見送り、やっと家にあがった。
今日は薬を飲んで、ちゃんと体を休めよう。
そう思えたのは、今すぐにでも水希に会って謝りたいと、名状し難い焦燥感や不安感に苛まれていた自分を落ち着けさせたのは、やはりあの幼馴染だし、それならばと安心できたのも、きっと水希との関係は壊れないと確信できたのもまた、水希をよく知る真琴が言ったからだ。
ハルぐらいだよ、と、簡潔な一言で。
自分は水希にとっての特別なのだと心地よく思えた反面、今のところ水希を一番に知るのは真琴なのだと思い知り、遙は悔しかった。
だからこそ、早く体調を整えて、水希に一発ぐらい殴らせてやって、それで自分もあの生意気なヤツの頬をつねってやろうと、そう思ったのだ。そうすればきっと、水希は「痛いじゃんか」と眉を顰め、それから笑うだろう。遙もきっと、それにつられる。
薬を飲んだ遙は、安心からかどっと疲れが湧いてきて、まだ水着を着用したままなのも、着ているのが水希のジャージなのも構わずにベッドに飛び込んだ。
頭まですっぽり布団をかぶり、目を閉じる。
着替えも食事もしていないことを水希が知れば、「そんな適当なことするな!」とまた怒るだろうか。でも、それも、いいのかもしれない。自分を思って心から感情を揺れ動かす水希も、悪くない、なんて。それこそ、水希が怒るだろうに。
思ったより重症だな、俺。自嘲めいた笑いが浮かんで、消えた。
とりあえず明日、ごめんなって、ちゃんと謝って、でもそれじゃ悔しいから、不意打ちで好きだって言ってやろう。
それで、お前も俺が好きだろって、言ってやれたなら、もっといいと、そう思う。