真琴が吾朗の手伝いを始めて数日。
家でテキストと向かい合うのに飽きた水希は英語のイディオム集を突っ込んだカバンを片手に、岩鳶SCへと足を運ぶことにした。
受付のお姉さんに軽く会釈して、観覧室に向かう。ここまでの過程で吾朗に出会わないあたり、彼が真琴に手伝いを頼むほど忙しいというのはうそではないようだ。(勿論、疑っていたわけでもないのだけれど)
案外楽しそうに指導をしている真琴はすぐに見つかった。
自分の兄が子どもに慕われている様子は素直に嬉しいようで、水希は微かに口許を緩ませ、空いていた席に腰を掛ける。
周りは母親が多いが特には気にしない。
(真琴、かっこいいなぁ……)
ここに遙がいて、かつ今の思いが口に出ていれば、盛大なため息と悪態をつかれただろう。
ぼんやりとガラスの奥を見る水希はカバンに入れた参考書を取り出す気は起きないようだ。いきいきと活動している真琴を、ただ静かに見つめている。
「あれ?」
随分のめり込んで真琴を見つめていたので、それが自分に向けられた疑問だとは、彼が、
「もしかして、水希?」
「? …………げ」
鴫野貴澄が水希の名前を呼ぶまでまったく気づかなかった。
相手が誰なのかわかった途端、水希は顔を歪めて立ち上がる。すぐにニコニコと笑う男から目を逸らしてそのまま何事もなかったかのように観覧室を出て行こうとしたのだが、貴澄が黙っているわけがない。
パシッと水希の腕を掴んで行く手を阻んだ。
「久しぶりだねー! 水希!」
「……」
「ひ、さ、し、ぶ、り!」
「…………久しぶり」
「あはは。相変わらず無愛想だね」
出会って早々、言うことがそれか、と水希は顔を顰めた。
といってもその挑発(もちろん貴澄は水希を挑発しているつもりなどない)にのってしまえば貴澄のペースにのまれるだけだ。
水希は深いため息をついて、「どうしてここにいんの、鴫野」貴澄の手を少々乱暴にほどき、壁にもたれた。
「僕は弟の様子を見にきたんだ。っていうか、やっぱり苗字呼び?」
高校に入ればいつの間にか名前呼びに昇格してるんじゃないかなって期待してたんだけどなあ、と残念そうに眉を下げた貴澄。
なわけあるか、ばあか。水希は心内そう口汚く罵りながらも、ふんっと鼻を鳴らしてそっぽを向いた。
「つれないね。ハルにそっくり」貴澄が笑う。
水希はそれを聞いて片眉を器用に動かすと、ますます不愉快そうに貴澄を睨みつけた。
「あんなやつと一緒にするな」
「え。でも水希はハルが大好きだよね?」
「ばっ……! そんなわけあるか!」
ぎょっと目を丸くしたかと思うと声を荒げてそう抗議する。
貴澄は「ええ?」と首を傾げ、思案顔になった。
「でも中学の頃、僕とハルが2人でいるとそわそわしてたし。というか僕がハルに構うと嫌がってなかったっけ?」
「〜〜〜っ! してない!」
「うわっ、冗談だよ! 脛を狙うのはやめて! 水希に脛を蹴られるとしばらく痛みが続くんだよね」
「鴫野なんかそこで永遠と座り込んどけばいいのに」
「ごめんって」
そんなあからさまに怒らないでよ、と貴澄はカラカラ笑って水希の肩に手を回す。
咄嗟の判断がつかず逃げ遅れた水希は、ズシリと肩にかかった負荷に居心地悪そうに身を縮こませた。
「あ。水希はスキンシップ苦手だったね」
「おまえ、遙の次に性格悪いよ」
「えー。ハルの次なんだ?」
「正確に言えば、遙の次に嫌い」
「それはよかった!」
ぱああ、と明るい表情をした貴澄に水希はぎょっとする。
自分は今、お前が嫌いだ、と言ったのに、なぜ彼は喜んでいるんだろうか。順位が2番目だったので安堵しているのか、はたまた別の何かか。別の何かがなんなのかを考えると少しゾッとした。
マゾか? お前はマゾなのか?
さすがにそんな部類の違う変態は(いや、変態なら全てお断りなのだが)早くお帰り願いたいところだ。
「水希、今僕に対してすっごく失礼なこと考えたよね?」
「うん」
「うわあ、正直……」
苦笑いしながらも、貴澄は「でもいいと思う、そういうの」と言う。
何がだ、そんなことで褒められ(?)たって全然嬉しくない。なんというか、嫌みが空振ってる気分だ。
「はあ……もういい、鴫野。外に出よう」
「え? タイマンでも張るの?」
「今ここで脛を蹴ってもいいんだけど」
「さすがに予告されたものを避けられないほど体がなまってないことを願いたいかも」
「……鴫野って俺のことバカにして楽しんでるだろ」
「え、そんなことないよ?」
「……うっざ……」
その胡散臭い笑みでどうして納得できようか。あの顔は絶対に相手をからかって楽しんでいる人間のそれだ。
ここで騒いでいたら迷惑になるし、貴澄と一緒にいるところを真琴に見られ、「楽しそうに話してたな」なんて嬉しそうに勘違いされると気分が悪いので(いうまでもなく後者の思いが強い)場所を変えようと提案したのだが、そもそも貴澄を誘う必要なんてなかったのだ。
貴澄なんて放っておいて、水希だけこの場を去れば解決だったのに。
「素直じゃないところ、変わってないね」
ぐいっと貴澄に手を引かれ、水希は驚きで息をのむ。
何をするのかと抗議する間も無く、貴澄に引っ張られて観覧室を出ていた。
「素直じゃないっていうか、不器用だよね。水希って」
「うるさいな」
「僕と2人っきりになりたかったんなら、あんな遠回しじゃなくて、」
「ぶっ殺すぞ」
「ごめんって。ジョーダン」
今のは声のトーンが本気だったので貴澄は水希をからかうのをやめた。
水希を本気で怒らせると怖いのは、彼の兄の存在である。
もちろん水希も怒ると人並みには怖いのだけれど、それ以上に、普段大らかな真琴が怒ってしまうともう息すらできない。
水希が真琴に甘えただったり優しかったりするのと同様、真琴は水希に甘いし、彼のことになると少々性格がきつくなる。なんというのか、娘は絶対嫁にやらんぞ、と言い張る父のような雰囲気がでるのだ。
だから、あまり水希をからかいすぎて、真琴のお咎めをもらうことは避けたいわけで。
閑話休題。
観覧室を出てロビーについた2人は、あまり人の邪魔にならないような端の方に寄って壁にもたれかかった。
なんだかんだ、嫌そうにしていたわりに水希はまだ貴澄と話を続けるらしい。
それがおかしくて、貴澄は少しだけ笑った。
「あ、そういえばさっきのさ」
「さっきの?」
「うん。僕が『ハルの次に嫌い』って言われて喜んだのなんだけどさ」
「ああ」
そういえばそんなこともあったなあとぼんやり思い出して、……思い出して、水希は顔を顰めた。マゾ云々、余計なことまで思い出したのだ。
貴澄は居心地悪そうな水希に首を傾げたけれど、水希がなんでもないから続けて、と首を振ったので気にしないことにした。
「水希の嫌いは、好きの裏返しなんだよね」
「……は?」
「水希は無愛想でつっけんどんだけど、それは不器用だからうまく優しくなれないだけで、本当に相手を嫌ってるんなら、水希はその人に関わろうとしないし、“嫌い”とすら言ってくれないからね」
唖然と貴澄を見上げるだけの水希。貴澄が何を言っているのかを、懸命に理解しようとしているようだ。
「だから、僕はハルの次に好かれてるんだなってね!」
にこ、と爽やかに笑って見せた貴澄。「どう? ちょっとは驚いた? 案外水希のこと見てたんだよね、僕」なんて自信満々に、胸を張られたって。
「……やっぱり遙の次に嫌いだよ、貴澄」
呆れるしか、ないだろうに。
名前を呼ばれたと、数拍遅れて気づいた貴澄が嬉しそうに目を輝かせて水希に飛びつき、水希が本当に嫌がってそれを避ける光景がロビーで見られたのは余談である。
#
ロビーでは、貴澄が水希と肩を組もうと動き、水希が貴澄から逃げようと動くので、傍から見れば何かのアクションシーンを撮影しているかのような攻防戦が続いている。
貴澄も水希もどちらかが諦めればいいものの、貴澄はついさっき少しだけデレてみせた水希をからかいたく、水希は単純に貴澄のスキンシップがイヤなのでお互いに譲れないのだ。
ロビーを通る人たちはみな不思議そうに貴澄たちを見ては、彼らが仲の良い友人同士なのだと気づくと(水希が聞けば激しく首を横に振っただろう)くすくすと笑うものもいた。
「しつこい!」
バシッと貴澄の手を払ったのも何回目かわからない。それぐらいしつこく、貴澄は負けじと肩を組もうとしてくるのだ。
耐えきれなくなった水希がとうとう怒鳴り貴澄を睨みつけた。
それで一旦、貴澄の手が止まる。
貴澄は威嚇する仔猫のような水希を見て肩を竦めた。
「本当、水希はつれないね。次に会えるのはいつかわからないのに」
「次? おまえは次があると思ってるのか?」
「へ?」
きょとん。貴澄が目を丸くする。
「貴澄と会うことはもうないに決まってるだろ、ばあか!」
水希は、べえ、と舌を突き出し、右手の親指を勢い良く下に向けた。
貴澄はそれを見てまたまた目を大きく開いたが、すぐに何かに悶えるように片手で顔を覆う。
な ん だ こ の 小 学 生
貴澄は水希という人間をある程度、いや、人よりも理解している。だから今水希にやられたことが挑発というよりも反抗期の弟の攻撃みたいで、転じて日頃ツンツンしている水希の壮大なデレのように感じて、しかも疎遠だった水希と再会したその日のうちに2回もデレたのだから(遙の次に嫌いだよ云々)、もう悶えるほかなかったのだ。
もしも水希が貴澄に対して本気で白けていたのなら、先ほどのセリフとは異なり「は? 次なんてないよ」とものすごく低い声で言われたに違いない。
だが、貴澄が水希からいただいたのは、あのセリフ、あの仕草だ。
(僕、自分で思ってたよりも水希に心を許されてるかも……)
ごめんハル! 貴澄は胸の内でここにはいない遙に頭を下げた。
一方、貴澄が黙り込んだことで自分は彼を打ち負かしたのだと威張っているのか、水希は腕を組んでそっぽを向いていた。
これはある意味好機だ。
水希がこちらを見ていない今、間近で水希を観察できるじゃないか。
貴澄は自分より背の低い水希を見て、真琴と双子なのにいろいろと似ていないところが多いと改めて実感する。
背の高さとか、目つきとか。水希はあまりタレ目じゃない。
外見もそうだが、特に似ていないのは性格だろうか。性格はどちらかというと幼馴染である遙に依っている。もちろん、言えば「ふざけんな、あんな水キチガイとは似てない」と怒られるので言わないが。
貴澄はそっぽを向いている水希の頭に手を伸ばし、ぽん、とのせた。
怪訝な顔をした水希が貴澄を振り返る。
「……なに」
「うーん……意味はないんだけどさ」
「…………あっそ」
あれ、怒らない。しかも手を払われない。
貴澄は戸惑いがちに水希の頭にのせた手をゆっくり動かし、水希の茶髪をかきなでる。
貴澄の手の動きに合わせて水希が揺れ動いた。
その様子は気難しい猫が主人にのみ気を許し、甘えているようにもみえた。
「あれ、貴澄と……水希も来てたんだ?」
「あ。真琴」
手伝いが終わったのか、ロビーにやってきた真琴が貴澄と水希を見て目を丸くした。
正確には、貴澄に大人しく頭を撫でられている水希を見て、だろうか。
真琴が来ているのに気づいているにも関わらず水希は貴澄の手を振り払わない。わしゃわしゃと撫でられて、気持ち良さそうに目を細めている。
「……随分懐かれてるな。貴澄」
「うん。そうみたいなんだよね」
「……ハルがいなくてよかった」
気持ち貴澄にすり寄っているようにみえる水希を見ていた真琴が、ぼそっとつぶやいた。
貴澄の手が一瞬止まる。
「……僕もそう思う」
苦笑いしながら言うと、真琴もまた同じような顔をした。
この場の空気が読めていないのは、いうまでもなく水希だけだ。平和なやつである。
貴澄も歳の離れた弟がいるから水希のような人間の扱いがうまいのだろう。
今なら正面から抱きしめても対抗されないような、むしろ抱きつき返されそうな気がしたが、ふと青色の目をした友人が頭に浮かんで、
(やめておこう)
貴澄はやっぱり苦笑いをこぼすのだった。