とある授業後、時刻は生徒が耐え切れずあくびをする午後を回っていた。
 講師が室外へ行くのを見送る中、遙はいよいよ悴んできたつま先をこすり合わせる。春の兆しが見えるとはいえ、まだ肌寒いこの季節に上履きを脱ぎ捨てて、暖房なんて設備されていない講義室で90分間彼にとっては興味のない話を聞くなど拷問であった。
 学年主任が講義のレポートを提出したものから解散、という言葉を言ったが早いか、遙は少しばかりミミズが踊るプリントを即座に机の上に出し、落ちついて、しかし急いで講義室を出た。
 目的はただ一つ。
 寒い、とにかく寒い。つま先の感覚が消えて既に久しい。
 遙より先に講義室を出た何人かが靴箱から上履きを取り出し履いているのに自然と便乗する。袖口から指を出すことさえ躊躇われる寒さだ。早く上履きを履いて足先を温めたかった。
「?」
 が、上履きを床におろして右足を入れた遙は違和感を覚えて首を傾げた。何かがおかしい。もう一度、今度は強めに右足を押し込んでみるも、どうしてかつっかえる。
 こればかりは自分の履き方が問題ではないと気付いた遙は、確認のために視線を下げた。
「あれ、ハル? 左右逆じゃない?」
 ナイスタイミング、なのだろうか。
 遙は聞きなれた幼馴染の声に視線をあげることはなく、どこか苛立ったように「知ってる」短く返事をする。
 遙に声をかけた張本人である真琴はなぜ遙が苛立っているのか分からずに首を傾げた。
 遙がきちんと左右正しく靴箱にいれ、左右正しく取り出し、やはり左右正しく床に置いたはずの上靴はどうしてか左右で入れ替わっていた。
 右足を引いて軽く腰を曲げ、上履きの左右を正す。早く暖をとりたいのに、どうしてこんな手間がかかることをしなければならないのか。
 自分の覚えのないことによるタイムロスに遙は思いのほか苛立っていた。
 とはいっても数十秒もかけずに上履きを正しく履いた遙はやおら顔をあげ、ぱちぱちと青の瞳を瞬かせる。目の前に立っているのは真琴だけかと思ったが違ったらしい。
 きょとんとする緑の瞳の横には、遙を蔑む薄緑色の瞳が並んでいた。
「右と左、わかんねーの」
 真琴は今の言葉が聞こえていなかったが、遙と水希の間に何やら不穏な空気が流れ始めているのにだけは気付き内心ヒヤリとした。
 ボソリとつぶやいた薄緑色の目の持ち主、水希は靴の踵を踏む遙をてっぺんからつま先まで見定めるように追いかける。
 それから遙がポカンとして何も言い返さないのを確認すると、はん、と鼻を鳴らして遙の横を通り過ぎた。
「あ。水希、待って!」
 まあ真琴の不安も杞憂に終わり、ほっと安堵することにケンカは起こらなかったわけだが。
 先に教室に向かう水希を真琴は呼びとめるが、水希はさっさと行ってしまった。わけのわからない遙に付け加え、水希までわけのわからない行動をとるのだから真琴は苦労人である。
 ため息をつこうとしたところ、何やら目の前から悪寒が走るほどの嫌な気を感じ真琴はビクリと肩を跳ねさせた。
 体格に似合わず幽霊だとかいったものが真琴は苦手だ。その身の毛がよだつほどの負のオーラはピンポイントで彼の不意を突いた。
「……ぶっ殺す」
 聞いてはいけない言葉を聞いた気がした。ヒクリと、真琴は口を引きつらせた。
 ふらりと一歩を踏み出した遙は、その負のオーラを隠すことなく先ほど水希が向かった方向へと歩む。真琴が慌てて声をかけるも、彼には届いていないようだった。
 わらわらと講義室から出ていく生徒たちに呑み込まれて遙の姿が消える。
 一人取り残された真琴は呆気にとられた様子でその場にたたずんでいるのだから、傍から見れば浮いていた。
「……えぇ……」
 完全なデ・ジャヴである。Et tu Bruteならぬエト・トゥ・ハルカである。
 遙、お前もか。真琴の心情を表すにはこの短な一言で十分であった。
 さすがクラス公認の、ちょっと過大的にいうのなら学年公認の犬猿の仲である。今日も今日とて彼らは仲がよろしくないらしい。
 どうか面倒なことが起こりませんように、そういう意味合いで真琴が吐き出したため息を当の本人たちは知る由もない。


 遙は激怒した。かの憎たらしい笑みを見せる幼馴染の弟を懲らしめなければならないと決意した。遙は口喧嘩では何かと言い負かされている。しかし悪知恵では伍することができた。
「…………」
 だからこそ目の前で微塵にも動かない水希を見て口角をあげることができた。
 水希は掃除道具箱の取っ手を持ったまま固まっていた。たらんと下がった前髪のおかげで表情は全く読めない。
「どうした水希。箒なら足元に落ちてるぞ」
 それだけいうと遙はゆがんだ口許を隠そうとも、直そうともせずにくるりと水希に背を向けてやおら床を掃き始める。
 水希は無言だった。
 久し振りに掃く床には次々と潜んでいた埃の群れが現れる。怜が唐突に部室の掃除をしようと言いだしたのはいい案だったようだ。
 先ほどまでは大掛かりに掃除をしていたのだが、備品が足りないことが発覚し、現在遙と水希以外の水泳部は買い出し中で、実質ここには二人しかいない。
 この二人を残せば不穏な空気が流れることぐらい誰にだって予想ができたはずなのにこうなったのは、渚のせいだろう。
 なんだかんだで場を盛り上げるのがうまい彼は、あれよこれよと物事を進め、うまい具合にこういう割り振りにしたのだった。
 多分渚も楽しんでやったのだろう。
「……」
 バンッ、ドアを叩きつける強い音が更衣室に響く。
「ドアは優しく閉めろ」
「……」
「壊れる」
 遙は至って冷静な素振りで床を掃く。
 プチン、と嫌な音が聞こえた気がした。
 大掃除の末手をつけていないのは更衣室だけとなり、そこまで広くないし備品も足りない事実から上記のとおり他のメンバーは買い物へ、遙と水希が掃除を担当することになった。
 掃除がうまくできるのか不安な水希と遙のコンビに対し「きれいにしてくださいよ」と怜がくぎを刺した時、遙の頭は驚くほど速く回転した。
 これは仕返しのチャンスだ、と。
 何の仕返しかといえば答えは一つだ。遙は水希が彼の靴を左右逆にしたことを存外根に持っていた。
 遙は水希が真琴と何やら会話をしている隙に更衣室に仕掛けを施した。
 それまた古風且つ幼稚なもので、掃除道具箱にある箒をわざとバランス悪く斜めに収納し、開けた瞬間勢いよく飛び出るといったものである。
 大概がすんでに止められてしまうが、稀に顔面に直撃することだってある。
 遙がスタンバイする更衣室にやってきた水希は後者のパターンだった。思いのほか戸を素早く開けた水希は、同じように素早く倒れてきた箒を「手」で受け止めることができなかった。
 つまり仕返しは完了したのである。
 お互い幼稚過ぎて不毛なやり取りだと、真琴がいたら頭を抱えただろう。
 遙がどこか満足感に浸りその無表情に分かりにくい笑みを浮かべていたところ、不意に脛に激痛が走る。思わず呻いてよろけ、床に集めていた埃が舞う。
 なんだ、今の。瞬時に頭上を見上げる、と。
「悪い。手が滑った」
 こちらをちらとも見ない水希がわざとらしく箒をこまごまと動かしているではないか。
 遙は今脛に当たったのは水希が使っている箒であることに気付く。それと同時、ピキリと青筋を浮かばせた。
 お互いに背を向けている状態で、遙は一度静かに更衣室を出ると手にビート板を持って再び戻ってくる。
 そんなことに気付きもしない水希は割と真面目に床を掃いているようだった。
 遙は綺麗なフォームをとる。ビート板は水泳時に補助として使うものである。決して投げるためのものではない。
 スコン、と変に整った音が響いた。
「あ。悪い」
 宙を走ったビート板は重力に従って落っこち、ぱたりと床にうつぶせる。しかもその上にドシリと水希の片足が乗るのだからたまったものじゃないだろう。全くのとばっちりである。
 どこぞのホラーゲームよろしく、さきほどのように前髪で表情が読めない水希が静かに、じわじわりと振り返る。
 水希の薄緑の目は、確かにあくどい笑みを浮かべる七瀬遙を映した。
「手が滑った」
 こうなることは、きっと誰だって予測できたのだ。
「ぶっ殺す……!」
「右足!」
 第二の被害者は箒である。彼は水希によって投げ捨てられて、むなしく床に転がった。
 遙に向かって構えた水希。狙うは彼の脛である。
 それを予期していた遙は水希の足をすくい上げようとした。が、
「と見せかけて拳!」
「はっ、予測済みだ」
「!?」
 水希のフェイントさえも遙は読んでいたようだ。どうやら今回は遙の方が一枚上手だったらしい。
 遙は飛んできた(割と本気の)水希のパンチを避ける。チリ、と髪の擦れる音が聞こえた遙は、当たっていたらと思うと恐ろしくヒヤリと背筋に冷たいものが走った。
 力の衝突先をなくし、勢いの余りよろめいた水希は「わわわ」だとか後に悔いる間抜けな声を出して遙の方へ倒れ込んだ。
 カツン、と木が跳ねる音はやけにうるさく響いた。最後の被害者は遙の持っていた箒であったようだ。
「…………」
「……」
 なんだかんだしっかり支えてしまった遙。
 二人の間に走るのはただの沈黙である。
 遙は遙で水希の背中にまで手を回ししっかり抱きしめているし、水希は水希で両手を使い遙の胸板前でしっかりとシャツを握っている。気まずすぎる。よって黙るほかなかった。
 黙ってしまえば更衣室は静かすぎて、密着したお互いの心音が耳につく。
 遙のは通常の速度であるのに対し、水希のは妙に速いテンポを刻んでいるようだった。
 遙はキョトンと目を丸め、首をかしげる。
 自分より下にある頭は、お約束のように前髪で表情が隠れているようだ。
「……手、離せ」
 覗いた耳が赤かった。
 こういう雰囲気に水希はめっぽう弱かった。彼が平然と手をつなげるのは弟妹、真琴だけで、彼が平気で抱きしめたり抱きついたりできるのもまた、弟と妹、真琴だけなのだ。そんな水希は今、遙に抱きついているという状況にある。
 弱々しい水希の声に、遙の体が強張った。なんだこいつ、と。こいつは本当に水希か、と。大混乱だ。
 なかなか解放されない熱に水希は頭を痛ませる。遙は水希が最も敵視している相手だ。許容範囲とは言ったが、真琴に抱きしめられるだけでぎくしゃくしてしまうのに、よりによって、遙なのである。
「離せって……」
 露骨に嫌がる水希に、遙の中の思考回路は斜め上の繋がり方をした。
「……抱きしめられるの、苦手なのか」
「…………おまえに関係ない」
「……ふうん……」
「?!」
 ぎゅう、と抱きしめる力は弱まるどころか強められる。驚いた水希はびくりと身体を跳ねあがらせ、バクバクと心音を速める。
 どうにかして抜け出そうともがくほど、突き放そうとあがくほど遙の手の力は強まる。
(……っこいつ!)
 わかっててやってやがる!
 遙の楽しそうに歪んだ目を一瞬だけ見た水希は察した。
 水希は本当にたまったもんじゃないのだ。今なら羞恥で死ねてしまう、と思えるほどにこういった過剰なスキンシップが苦手だった。
「遙……っ」
 そもそも口下手な水希がこんなハードなコミュニケーションに慣れているはずがない。(といっても遙が意地悪く楽しんでいるだけだが)
 水希の悲痛なSOSなど聞こえているはずのない遙は、 こんなことをしたらどうなるだろうか、とか、あんなことをしたらなんて言うだろうか、とか。悪知恵ばかりを働かせるのに忙しいらしい。
 たとえば頬を撫でてみたり、耳に触れてみたり。そのほんのり赤く色付いた細い首に、顔をうずめたらどうなるかな、なんて。
「う、ぁ……っ」
 思っただけなのに、自分は存外考えに素直であるらしい。
 気が付いたら遙は水希の首元に顔をうずめていて、掴んだ水希の手が震えていて。
 聞いたことのない水希の声に遙はドキリとしたが、普段冷めきっている人間の意外な一面を見るともっともっと、とからかってやりたくなるのはいたしかたない。
 加えて遙にとって水希とはなかなか負かせられない相手である。気持ちはなおさら強かった。
「ちょ、ちょっおい、遙……」
「……」
「ひっ、質悪ィってば……!」
 いやだいやだと身をよじり、遙から離れようと水希がもがく。
 その姿さえ滑稽で、遙はついつい普段はへの字に曲がった口をいびつににやけさせた。これはもう完璧に遙が優位である。遙は気分的に最高潮に達していた。
「……かわいい」
 弾かれたように水希が顔をあげ、涙の膜を張った薄緑の目が驚いたように遙を見つめる。
 遙は遙で、自分の口から出た言葉に驚いていた。
 シンとした空気が張る中で遙は混乱する。
 確かに自分の口だ、自分の口が動いた。だけれど、うっかりと口に出した言葉の意味が分からなかった。
 相手は水希だ。口が悪くて、愛想がなくて、しかも男。憎たらしくてしょうがない水希がかわいい、なんて思うわけがないのに。
 遙はジッと水希の目を覗きこむ。
 見つめ返してくるのは薄緑。純粋で濁っちゃいないその目はきれい――――だが、かわいくなんてない。遙は思考の中でブンブンと頭を振った。
 静まり返った中で、おもむろに水希の口許が動く。
 きっとそこから飛び出るのは憎まれ口なのだ。ほらみろ、かわいくなんか――
「っ……んで男にかわいいとか、言われなきゃいけないわけ……」
「……?!」
「おまえ……っ、本当にうざい……!」
 か わ い か っ た
 顔を真っ赤にしてぽろぽろと涙を流しながら遙を睨みつける水希。
 すべてが不一致のその表情は可愛い以外何と形容すればいいか、語彙力と表現力のない遙にはわからなかった。途端に遙の脳内でビッグバンが起こったのである。
 恥ずかしさと悔しさのあまり涙を流す水希があまりにどつぼで、遙の頭の中ではボクシングの際に打ち鳴らされるコングの音が響いた。
 もっと困らせてやれ、七瀬遙! と。
「……水希」
「っ」
 ズイッと距離を詰めれば水希は驚きこそしたものの、目を逸らすのは負けたようで癪に障るのか、無理をしているのが明らかなのに決して逃げずに遙の目を真っすぐに強く睨みつけている。
 抱きしめた、身体に触れた。ちょっと過度なスキンシップとして、あとしてないことといえば、
「好きだ」
 きょと、と目を丸くした水希を置いて、遙は海外の挨拶みたく水希の頬に軽く口づけた。
 ちゅ、 とリップノイズ。遙の顔が離れていってから数十秒たって自分が何をされたのかわかった水希は、みるみるうちに顔を赤くする。
「おま……っほんと最低だな……!」
 冷静に場の状況を見ている遙と、感情に呑まれている水希。
 この状況からみればまさしく遙が勝者であったが、あいにく水希は負けず嫌いだった。
 水希は遙の胸元を掴んで自分の方へ引きずり寄せる。目には目を、歯には歯を。つまるところやられたらやり返すのが水希だ。彼は遙を同じ目に合わせようと思った。
 ……のだが、存外力を込めすぎたのだろう。可愛いリップノイズなどならず、ガッ、と鈍い音がし、遙に至っては右頬にじくりとした鈍い痛みを覚えた。
 遙の頬に唇が当たるのではなく、歯がぶつかってしまったのは明確だった。
「いって……っ」
 涙目になった遙が後ずさる。
 水希も水希で痛みはあったのだが、遙を負かした達成感でいっぱいだったようだ。
 目に涙を浮かべて自分を睨みつける遙に対し、「バァカ!」と一言、べっと舌を突き出す。それを見た遙は目を瞠って黙り込んだ。
 突き出された水希の舌は、元の色とは別に赤く染まっていた。よく見れば唇もである。
「ったく胸くそ悪い……」
 言うまでもなくその赤は遙の切った頬から出た血なのだが、それで赤く染まった唇やらなんやらはしかもちょびっとだけ染まっているのだから、変に妖艶だった。
 なにも言わない遙に対して、水希は元はというと彼が悪いというのに 「まずい」と嫌そうな顔をして唇を拭う。
 それから呆気にとられている遙に気付いてピンとひらめいた。
「ハッ。アホ面だな、“ハルちゃん”」
 自分が勝ったと確信して、怪しく笑うのだから遙は頭が真っ白になった。
 いつもは憎たらしくてバカらしくてしょうがない幼馴染の弟に、こんなに色気があるとは思わなかったのだ。
 それから遙は真琴たちが帰ってくるまで放心状態で、やけに上機嫌に水希が口笛を吹いていたことを真琴に聞くと、あの野郎、と歯ぎしりをすると同時に口の端を赤く染めて目を細める水希を思い出し、頭を振った。
 真琴は不思議そうに遙を見て、なにやら怜と楽しそうに話している水希に目をやる。
 おかしい、水希も遙も様子が変だ。
 水希はあんなに饒舌なはずがないし、さわやかに笑うはずがないし、遙は変にきょどっている。
「あれ? ハルちゃん、その頬どうしたの?」
「…………猫に引っかかれた」
 何かを察した真琴の鋭い視線が遙へ飛ぶ。
 遙が咄嗟に目を逸らしたのは正解だったのだろう。あんな鋭い眼で睨まれたら一瞬で心が折れたに違いない。
 可愛いと思った。色気があると思った。あのツンドラ野郎が? 遙は勢い良く頭を振った。
 水希がかわいいだと? なわけ。
「ハル」
「別に、なにもない」
 遙の水希に対する見方が変わった午後の話である。