朝起きた俺は久々の休日に天にも昇る気持ちになりながら、それを顔に出さず至って冷静な顔でベッドから起き上がる。
 カーテンを開ければ気分爽快だ。
 眩しい日差しに目を細め、やっぱり休みの日はステキ……とニヤけているのだがそれを見る者はいないのでノープロブレム、心配ないさ。
 日光浴もそこそこに部屋から出てリビングに出るが、見慣れた家族の姿がない。
 なんでだろうかと不思議に思っていればダイニングテーブルの上に不自然に置かれたメモ紙を発見。
 その時点で何となく話が読めていながらもそれを手に取る。
 字は母のもののようだった。
「蓮と蘭をつれて水族館にいってきます。ご飯は真琴と協力してね」
 そう言われてみれば今日は朝からやけに静かだった。原因はこれか。
 我が家の可愛いちびっこたちは母と水族館に出かけたらしい。
 数日前から「イルカさん!」だの「オットセイさん!」だのうるさかったのもこれが原因か。
 メモには帰りが何時になるかまでは書かれていなかったが、多分夕方小さなイルカだのオットセイだののぬいぐるみを持って帰ってくるだろう。
 それが安易に想像できて少しだけ頬が緩んだ。
 メモ用紙は机の上に最初のように置いて、とりあえずまずは顔を洗うことにする。
 久々に部活も誰かと会う予定もない今日は何をしようか。家族の誰かが録画しているらしい月曜ドラマでもみようか。興味はないがたまにはいいだろう。ちなみに今は刑事ものだ。
 辿り着いた洗面所で蛇口をひねり、流れ出た水を両手で掬い上げて顔を洗う。
 やっぱりまだ水は冷たいながらに心地がいいと思いながらも水を止め、用意されていたふわふわのタオルで顔を拭く。
 課題は昨日終わらせたしああほんと今日は何をしよう。
 やおら顔をあげた俺は、鏡に映る自分と目が合って、パチパチと瞬きを2回。
「はああああああああああ!?」
 午前8時10分頃、俺、橘水希、絶叫。
 それに続くように「どうしたの水希!?」と真琴の大声と激しい足音が続くのだが俺はその場から身動きができなかった。


 時は流れて8時40分。
 場所は真琴の部屋、真琴は俺の前に向かい合うように座っている。
 洗面所で絶叫した俺が落ちつくのには30分を要した。
「上下ジャージの水希……」
「離れろグズ」
「ハル……水希は朝低血圧だからあんまりちょっかいかけないであげて」
 おお……我が双子兄の真琴よ、この過激なスキンシップがちょっかいだと言えるのですか? いや、言えない。
 真琴があまりにもおおらか過ぎて事の悲惨さは伝わらないらしいので、後ろから俺に抱きついて背中に頭を擦りつける遙の手の皮を抓る。
「いたっ」と声をあげた彼はパッと手を離した。ざまあ。
 どうしてここに七瀬遙がいるのかといえば、どうやら俺が起きる前から真琴の部屋で今度の水泳部の合同練習について話し合っていたらしい。
 確かに真琴は部長だし、遙も肩書だけは副部長だ。
 無能な副部長を呼ぶよりも松岡江を呼んだ方がいいのでは? と瞬時に浮かんだ俺の考えを同じように瞬時に読んだ真琴は(こういうどうでもいいことにだけは察しがいい)「江ちゃんはあとでくるよ」と俺ににこやかな笑みをおまけして告げた。
 が、江ちゃんがあとでくるなら事は深刻だ。
 真琴も俺と同じ考えなのか、難しい顔をして俺を見ている。
「これ、本物なんだな」
 ここで空気を読まない男、七瀬遙。
 俺が鉄槌(というのには軽かったが)を下したのに懲りない遙が頭を撫でてくるからキッと一睨みする。
 頭、といっても遙は本来そこにあるはずのないものを撫でているのだが。
「真琴、いくらだ?」
「はっ?!」
「ここはペットショップじゃないから! 第一、確かに水希はネコになってるけど売ってない!」
 怒声をあげた真琴に引っ張られ、そのまま彼の胡坐へとダイブする。
 背中にあったぬくもりは消え、目の前の真琴も消え、代わりに飛び込んでくるのは真琴の部屋の本棚にある本のタイトルらである。
 頭上で何やら喧嘩を始める二人に俺はため息をついて目を閉じた。
 原因は不明、治るかも不明。そんな謎だらけのそいつは突如として俺の身体に現れた。
 小さな音にさえ敏感に反応する耳と、何が楽しいのか理由もなくフラフラと揺れる尻尾はネコのものだ。
 繰り返す。そんな人間にあるはずのないものが、突如として俺の身体に現れた。
 マンガのようにそういえば昨日変な薬を云々、そういえば昨日不思議な猫を云々、そんなファンタシーなものは一つもない。
 なのにそいつはろくな挨拶もなくやってきた。
 正直いらっしゃいませ、出口はあちらでございますが俺の心境だ。
 どうしてこうなった、どうして江ちゃんじゃなかった。どうして俺だった……。
 誰も得しねえよ、男のネコ装備とかその気持ち悪さといえば何回吐いても足りない。しかも自分だ。入水自殺しよう。
「真琴は早く俺に水希をよこせ」
「なに決定事項みたいに言ってるの? ぶち殺すよハル」
 多分俺の口の悪さは兄譲りだ。
 そして笑顔で言ってのけるあたり真琴は俺よりも腹黒いと思う。正直怖い。
 ピンポーン、とここである意味空気を読んだインターフォン。
 俺の頭上の耳はピクリと折り曲がる。
 先ほどからノンブレスだった両者に沈黙が走った。
「……」
「……」
「出なくていいのか?」
「…………ちょっと席外すね、水希」
「ええええこの状態で俺を見捨てる?!」
 立ちあがった真琴の足にひっつくと真琴が眉を下げる。
 お願いします本当に置いていかないでください、置いていかれたら俺はもう、人生にピリオドが打たれるような気がします。
 無言の遙に威圧されている感が半端じゃない。
 ピンポーン……
「……」
「……」
「ハル」
「なにもしない」
 遙をジト目で睨んでから諦めのようにため息をついた真琴が、申し訳なさそうに俺の頭を撫でて、緩んだ俺の手から抜け出して部屋を出る。
 俺はインターフォンを鳴らした相手に負けたらしい。絶望だ。
 床に寝ころんだ状態で呆然としていると先ほどとは違うズボンと靴下が目に入る。
「……」
 言うまでもなく七瀬遙である。
 彼は何を思ったかしゃがみこんで俺の頭を撫でてきた。
 クシャリとつぶされる耳が不愉快で目を瞑れば、ふ、と息を吐き出すような優しい笑い声。
「本当にネコみたいだな」
「……うるさいな」
 あれ、遙ってこんなに柔らかく笑うヤツだったっけ。
 あまりにも日常とは違う表情にちょっとだけひるむ。
 そんな俺を知らない遙は寝ころんだ状態の俺を抱き上げて、やっぱり楽しそうに頭の耳をいじる。
 呆然としていた俺はされるがままだった。
「な、なんだよ……」
 ジッと見つめられるのさえ居心地が悪い。
 屈辱すぎる。負けた気がしてならない。いつものように嫌みを言ってくれないと調子が狂うっていうのにこいつはなんで黙っている、なんでそんなに優しく目を細めてるんだ。
 耐えられなくて視線を逸らそうとしたら、暖かい両手が頬を挟んだ。
「水希」
「……なに」
「好きだ」
 ちゅ。
 啄ばむわけでもなく押し付けるわけでもなく、ただ唇を当てるだけのキスは一瞬で終わった。
 遙の整った顔が離れていって、黙りこんだ俺の目を覗きこむ。
 ああ顔だけはいいなあ黙っていれば悪いところなんて一つもないじゃん、とか混乱した俺の頭がどうでもいいことを考えた。
 今何が起こったのか遅れて理解して、かああと顔に熱が集まる。
 それを見てあくどい顔をする遙はやはり性格が悪い。
「物足りないか」
「ふっざけんな……!」
「せっかくネコになったんだから、いつもとは違うこともやってみてもいいんじゃないのか?」
「っ?!」
 ぎゅっと尻尾を掴まれ肩が跳ねる。
 これはやばいと本能が警鐘を打ち鳴らす。メーデー・メーデー、俺の貞操が危険です。
 思わず「真琴ぉ!」と叫ぼうとした口は、読んでいたかの如く遙の大きな手でふさがれて「むぐー!」なんて情けのない声が上がる。
 本格的に危ない、この空気は危ない、そして俺はそれに流されそうでやばい。
「顔、真っ赤だ」
「〜〜っ!」
 もはや言い返す言葉もなくて、悔しくて泣きそうになる。
 それを見た遙がキョトンとするからもう入水自殺決定。
「据え膳食わぬは男の恥……」
「それはお前の座右の銘か?!」
 もう耳タコである。
 言われ慣れ過ぎてその後になにが起こるのか予想がつく俺が、抵抗しない俺が憎い。
「いただきます」
 遙の手がシャツに内側に入ってきて思わず「ギャー!」なんて色気もくそもない声をあげた瞬間に、ガチャリと部屋のドアが開く。
 驚いて振り返る俺とは裏腹、遙は妙に冷静に振り返った。(舌打ちが聞こえた気がしたが定かではない)
 ドアを開けた人間と、ドアの内側にいた人間で数秒間見つめ合い空白の時間を作る。
 なにが起こったのか理解できない同士の沈黙を破ったのは、遙の名前を怒鳴る真琴の声だった。
 真琴がリビングから持ってきたであろう一冊のノートを遙の顔にヒットさせ、いきなりの出来事に遙が倒れ込む。
 ズンズンと重たく歩んできた挙句「なにもしないんじゃなかったの?」とドスのきいた声で遙の胸ぐらをつかむ真琴は怖い。誰だおまえ。
 遙は首元がしまっているのかギブギブと訴えていたが真琴の眼中にない。
 もはやお約束、いつも通り過ぎるこの展開はもう日常なのかと思うと泣きたくなった。
 場の空気に、というより七瀬遙に流されやすい俺はそろそろ末期な気がする。
 ひとり顔を覆って絶望に浸っていたところ、カタン、という小さな音を俺のついさっき付属した耳は拾った。
 まさか、と勢いよくドアの方を見れば、そのまさかだ。
「ね、ねこみみかわいいですよ?」
「…………あ、うん……」
 ぎゃんぎゃんと横が騒がしい中、俺と彼女は妙な距離感で妙な空気をまとっているわけだが、嫌な予感しかしない。
「は、遙先輩と水希先輩はそういう関係だったんですね……」
「激しく誤解!」
「だ、だ、大丈夫です! わたし、応援しますから!」
 顔を真っ赤にしてわたわたと手を振る江ちゃん。
 神は無慈悲、ここに記する。