かくん。
何度目か左隣の頭が揺れた。
現在午後3時過ぎ、物理の授業開始より30分経過。先ほどから俺の隣の七瀬遙はうつらうつらと舟を漕いではたまに瞼を持ち上げ、ぼんやりと机上のプリントを見たかと思うと、また意識を旅立たせている。
どうするべきか、と俺は迷った。斜め前の兄に視線と念で訴えるも、真琴は真面目に授業を受けているせいかまったく気付きやしない。
おまえの幼馴染なんだぞ、矯正しろよお母さん。
起きてくれなくたって俺に支障はない。むしろそのままぐっすり寝てくれていた方が、遙の成績の加速度は減速するだろう、それも結構な速さで。そしたらどうだ、俺はこいつを今にもまして見下してやれる(俺の方が物理は上だ)じゃないか、楽しい。……のだが、いかせん遙は俺の左隣で、俺は廊下の窓側、つまりは遙の右隣で。
黒板を見ればいやでも遙の姿が視界に入るのだ。かくかくと動く頭がちらついて忙しい、うざったい。そろそろ集中力が途切れる時間だけに、とても気になる。
この日ばかりはペア授業、ということでくっつけられた机の距離のなさを恨んだ。(いつもは嫌みの応酬で大半をすごすし、しかも俺が勝つからペア授業は嫌いじゃない。所謂退屈しのぎだ)
1年の総復習ということで出された数枚のプリントの端を意味もなく持ち上げて、ほうとため息をつく。
物理は口数の少ないおじさま先生なのだが、彼はスイッチが入ると突発的な行動に出るから侮れない。なぜこの時期に総復習、定期テストの範囲を進めるのが優先じゃないのか。
「水希、自由落下の答えこれであってる?」
「あ? ああ……、うん、あってる」
「ありがと」
後ろを振り返った真琴に不意を打たれた。彼がしたかったのは単に解答の確認だけだったようで、俺が肯定すると短な礼を一つ。くるりと前を向いてしまった。
真琴が振り返った時に揺れた机の振動で遙は目覚めたらしい。もたつきながらも動かされるシャープペンシルが視界の左端に映った。
「等加速度直線運動の変位出すんなら、v0t+1/2a^2だろ」
「……?」
「v0を2乗してどうすんの」
つい気になって指摘してしまったが当の本人はいまいち理解していないらしく、ぼんやりと頷くと、ごしごしと消しゴムでプリントを皺ばませた。実に雑である、丁寧味にかけている。
彼は現在物理の授業を受けていることを理解しているのだろうか。というよりもまず授業中だとわかっているのだろうか。
そういうのがケアレスミスにつながるんだぞ、ばーかばーか! だから万年俺以下なんだ! と心内悪態づいてやった。
ちなみに度胸がないから言わなかったわけではない。声に出したって、寝起きの遙じゃバカにされていることに気付かないだろうから敢えて言わなかったのだ。
プリントの答え合わせまであと3分程度。枚数は3枚あるのに、まだ1枚目の1問目ってもうこいつ終わっただろ。
問題数もそれなりに多いからクラス全員、一人一回ずつは当たると思うのだけれど、どうするつもりなんだろう。
呆れ半分、自分の3枚目のプリントの問題を埋める。
「じゃあ、当てていくぞ」どうやらおじさま先生は気が早いらしい。あと2分は残っているというのに解答時間は打ち切りだ。
教師の声に若干焦るが、まあ1枚目と2枚目は完ぺきに終えているからノープロブレムだろう。ガリガリと急にうるさくなったシャーペンの音、どうやら俺のどうしは多々いるようだ。
「1枚目の問い1、七瀬」
あ、遙当たった。
俺が心配した直後の出来事で少しだけ感動した。うたた寝ハルちゃんは問い1でさえ途中だが、さてその場で解くという芸当を見せてくれるのだろうか。
期待しながら横を見ると、予想外過ぎて俺は唖然とすることになる。
きょうし の こうげき ! ななせ を しめい !
ななせ は ねむって いる !
「……七瀬」
ちなみにノーダメージだ。効果は抜群だが、本人が攻撃を受けていることに気付いていないからだ。
眠っている遙に教師が眉間にしわを寄せた。事態を嗅ぎつけたのか、周囲の連中がざわめく。
こんな中でも振り向かない真琴はどうやらまだプリントが終わっていないらしい。彼の現在の優先順位はどう考えたって、課題>>幼馴染だ。
いつもはうざがられるぐらいに世話焼きなのに、妙なところで察しが悪いところは相も変わらず、歪みないな。
この場合俺は遙を起こさなきゃいけないんだろうか。
窺うように教師を見たが、彼は俺なんかに焦点すらくれておらず、俺は瞬時に察した。
あぁご愁傷さま、七瀬遙。君の犠牲は忘れない。
視界が高速で切り裂かれたのも俺は忘れない。
「い゛っ!」
「……」
「〜〜〜っ!」
パチクリと青い目を瞬きした遙は、そこに涙をぶわりと湧きあがらせ、自身の額をおさえながら机に突っ伏した。
それを嘲笑うかの如く、カコンッといい音を立てて白の不格好な円柱が遙の机を跳ねる。少しだけ粉ぼこりを舞わせたそいつをまじまじとみて、俺は感嘆した。
チョークって、案外すごいかも。と、いうよりもこれをものすごいスピードで遙の額にクリーンヒットさせるあの教師は一体……?
「今俺は仕事をしました」
2つの意味で、と付け足した教師に、どっと笑いが起こる。
笑いの根本である遙はやっぱり目を潤ませていて、ギトリと恨みがましげに教師を睨むと、ついでと言わんばかりに俺のことも睨みつけた。なんだこいつ、お門違いにもほどがあるだろ。
「……なんで起こさなかった」
「別にいいじゃん、俺に遙を起こす義務があんの? むしろそのまま永眠すればよかったのに」
遙はパタリと黙ると、俺の頭を容赦なく殴った。不意打ちすぎて碌な防御もできずに喰らった。
「いってえ……!」
しん、と静まり返った教室。周囲の目が俺に突き刺さるのが神経を通して伝えられる。
「ちょっ……ハル」
「いまのはこいつが悪いっ゛……つ!!」
「あ? なんで俺が悪いんだよ、理不尽に殴ってきやがって」
「だからって殴り返すか、普通!」
「やられたらやり返すのは俺の鉄則」
「ああもう……」
意外と石頭なハルちゃんのおかげで俺の手は非常強い痛みを持っているが、まあ殴れたからいい。気持ちはスカッとした。
自分でもわかっているが幼稚で不毛な言い争いを遙としていると、真琴が呆れたようにため息をついた。
「2人は仲がいいんだか、悪いんだか……」
「遙と仲がいいわけない」
「水希と仲がいいわけない」
「……ぷ」
真琴が困ったように眉を下げ、少しだけ吹き出す。
俺の声に重ねてきた遙をジロリと睨むとヤツも同じようにしていたから、まったく七瀬遙は俺の癪に障る男である。
「よーし。痴話喧嘩も済んだことだ。答え合わせ再開するぞー」
「痴話……っ?!」
「……先生、俺と水希が仲いいみたいに言うの、やめてくれませんか」
「七瀬は問い1、橘弟は問い2だ」
「……無視か」
「なんで俺まで!」
「ペアだからな。連帯だ、連帯」
ほら、黒板に書け、と彼は板を拳でコツコツと軽くたたいて促した。
別に解き終わっているし、答えに自信だってあるから問題ないけど、腑に落ちない。
なんで当たるんだよ遙、俺まで巻き添えくらったじゃないか、なんて心内で文句をいってみる。遙は解き終わっていない問い1に焦りながら取りかかっていた。
俺は行きようのないモヤモヤとした感情を蠢かせつつも、しょうがなく席を立ちあがる。
がたん、と鳴ったイスの音は2重。振り向けばパチリと青の目と視線が交わった。
「…………お前らやっぱり仲いいだろ」
いやよいやよも好きのうち、ってな。
教師が少しだけ笑った。
俺と同時に立ちあがった遙がぽかんとして、それから眉をひそめる。それが癪に障ったから、強めに彼の脛を蹴って、周囲からの冷やかしと真琴の穏やかな笑みを受け取りながら、俺は黒板に向かった。
――まあ、嫌いじゃないけど。遙のこと。
後ろで遙が脛をおさえて悶えていたのは言うまでもない。