事件はそう、退屈な古典の時間に起こった。
 年配教師が品詞分解をもそもそと説明するものだから次第に飽きてしまって、何か楽しいことはないかな、と思ったその矛先は自然と橘水希に向かった。
 橘水希は名字の通り、真琴の双子の弟だ。
 双子で同じクラスとは珍しいことだが、少子化のこのご時世、ありえないことじゃないんだろう。
 なんて適当な解釈をつけてみる。
 二卵性だからそんなに似ていない。
 特に性格が。
 水希は退屈そうに頬杖をついてはいるが、一応、シャーペンはノートの上を走っている。板書は取っているらしい。
 ちなみに俺のノートはミミズ文字が氾濫している。
 言うまでもなく眠気に勝てなかったせいだ。
 俺と水希を比較すると、きれいな水希のノートが何となく癪に障って、腹いせに消しゴムを水希めがけて投げた。もちろん、教師が黒板に向かい合った隙にだ。
 スコーン、といい音がして消しゴムは運動の向きを変えた。
 水希の頭が揺れる。
 障害物に当たってとび跳ねた消しゴムは一度水希の机に落ちて、コロコロ転がって床にへたばった。
「……」
 ぐしゃ、水希のノートの端が皺ばむ。
 せっかくきれいに取ってたのにもったいない、なんて微塵にも思っていないことを心内でつぶやき、ギスギスと突き刺さる痛い視線の方を振り返った。
「……なんだ?」
「いっぺんしね」
「お前がしね」
 露骨に顔を歪めた水希は今にもツバをはきそうな勢いだ。
「んで俺が死ななくちゃいけねーの、遙に非があるだろ、今の」水希は床に転がっていた消しゴムを拾うと、コロコロ、机の上で転がす。
 この口の悪さ、名字を聞くまで誰が真琴の双子だと思うだろうか。
「つか、おまえそんなに俺にかまってほしいわけ?」
「この“せ”は過去の助動詞“き”の未然形です」
 ここで教師が振り返ったから、話はいったん中断される。
 何事もなかったかのように水希は前を向き、いかにも今まで真剣に聞いていました、という顔つきで教師の話を聞いているふりをした。
 俺も同じように前を向いたが、先ほどの揶揄が俺が言い逃げされている状態、というのがモヤモヤしていまいち集中できない。
 教師は一度しゃべりだすとなかなか止まらないのか、文法の解説をいれつつも文学史の話に話題を逸らす。
 水希の神経は依然教師に向いたままだ。
 気を逸らせようにも消しゴムは水希の手の中だし、他に方法がない。
 仕方なしに3,4分の間辛抱強く待てば、教師は再び黒板と向き合った。
 俺は身体をひねって机から僅かにずれて、水希の足を蹴った。
「い゛っ」唸った水希に日ごろのお返しだとにんまり笑みを浮かべる。
 いつも脛を蹴ってくれてどうもありがとう、知ってるだろうけど、だいぶ痛いんだぞ。
 恨めしそうに向けられる、真琴よりちょっぴり明るい緑の目。
「ほんっとなんなのおまえ……」
「水希が視界に入ってむかついた」
「はっ、器が小さいヤロウだ、なっ」
「いっ!」
 ガタン! と教室中に響いた音。
 俺はそれをごまかすなんて芸当はできずに、容赦なく蹴られた脛を悶えながら泣く泣く押さえつけた。
「どうかしましたか、七瀬くん」
「……なんでも」
「そうですか」
 ない、わけないだろ。
 教師と同じように俺に意識を向けたクラスメイトは俺が脛をおさえているのを見てすべてを察したのか、一様にまたか、という顔をして、呆れたように視線を逸らした。
 気付いていないのは教師ぐらいである。
 最初の方は咎めてきた真琴だが最近では無駄だと悟ったのか、ちらりと視線をくれるだけで、何も言わない。
 ちなみに水希はどこ吹く風。
 いつの間に体勢を整えたのか、数十分前と同じように頬杖をついて、あたかも自分も今の音に驚きました! という様子で俺の方に一瞥くれると、黒板に向き合っていた。
 ムダに手際がいい。
 ついでに俺の消しゴムは戻ってきていた。気付かなかった、いつの間に……。水希を見ると、やはり澄ました顔をしている。
 なんだこいつ、むかつく。
 そしてそんな俺の心情を見透かしているかのごとく、ハッと鼻を鳴らした水希にプツンと糸が切れた。
「じゃあ、この問題を橘――」
 あぁタイミングの悪きことよ。
 教師が振り返ってみたのは、水希のこめかみあたりにクリーンヒットする消しゴムとそれを投げた後の俺のフォームだった。
 ころころころ、呑気に消しゴムが数分前同様床の上を散歩する。
「……橘水希、七瀬遙」ドスのきいた声だった。俺と水希は同時に背筋をピンと張る。
「廊下に出てなさい」
「……はい」
 反論はなかった。
 ガタリと席を立ちあがって、教室の出口に向かう。
 腑に落ちない様子の水希は、数歩の間隔をとって俺の後をついてきていた。
 ちらとみえた時計は授業終了5分前だ。されど5分、あんなケアレスミスをしなければ教師に目をつけられることなんてなかったのに、水希のやつ、ちくしょう。
 水希が戸を閉める際に見たのは、何事もなかったかのように授業を続ける教師と、からかうように俺たちを見る数名の男子と、救いようがない、という憐みの目を向けた真琴だった。
「……おまえほんとぶっ殺す」
 廊下に出た瞬間、水希の口から出たのは物騒な言葉だった。
 相当うざそうに細められた両目をハッと鼻で笑い「やってみろ」好戦的に笑う。
 思った通りそれが水希の沸点に触れたのか、彼は耐え切れんとばかりに俺の脛めがけて足を突き出した――その予想通りの行動に俺は待ってましたとばかりに身体を引いてやった。
 バランスを失った水希が、若干驚き、焦ったように後ろに体勢を崩す。そこまでは予想通りだったが、予想外な事が一つ起こった。
「わ、なに……っ!」
 それは水希が俺の腕を咄嗟に掴んだことである。
 あまりにも不意打ち過ぎてその手を振り払えず、俺は水希のようにバランスを失って、水希と一緒に倒れ込む。
 柔らかい香りがすんと香って、一拍間をおいて、あ、水希の髪の匂いかと気づく。……男の癖になんだこいつむかつく。
 ドン、と重く鈍い音。
 背を打ち且つ俺の下敷きになった水希の短い呻きが響く。
 その時俺の唇が水希の額に当たった。
 その事実を認めるのには時間がかかって、不可抗力だ、と思った時には激しい音とともに教室の扉が開かれ、鬼のような血相をした教師が俺たちの方にズンズンと歩んできていた。
「……七瀬くん、橘くん。反省していないようですね」
「……」
「放課後、職員室まできなさい」
 俺が水希を押し倒しているという状態に教師は一瞬固まり目を泳がせたが、コホンと一つ咳払い。
 廊下側の席の連中は、ご丁寧にも窓を開けてニヤニヤと俺たちの事を楽しそうに眺めている。
 無言の水希の代わりに俺が返事をする。
 教師はため息を一つ置いて、教室に戻って行った。
 職員室での説教は、取り壊しになったスイミングスクールに乗り込んだ時以来だ。なんてことは極めてどうでもいい。
「……悪い、水希」
「……」
「……? 水希?」
 返事をしない水希。
 もしかして打ち所が悪かったんじゃないだろうか、不意にそんな考えが頭に浮かび、慌てて水希の上から退く。
 倒れこんでいた水希はもぞりと動いて、ずるずる、上体だけを起こすと俺から少し離れた。
 ここまで無言である。
 打ち所が悪くて気絶していたわけではないことにほっとするが、何もしゃべってくれないと(不本意だが)心配だ。
「……おい、水希」
「……っ顔、近づけるな」
「……え……」
 なんで照れてるんだ、こいつ。
 額をおさえて震える水希に不安になって、屈んで覗き込んだ水希の頬には僅かに朱が走っていて、唖然とする。
「ほんと、おまえ最っ低……!」
 淡い緑は潤んでいた。
 え、こいつ、さっきの気にしてるのか?
 俺の知る水希からさっきの事故に対しての反応を推測すると「気持ち悪いな」だとか「汚ない」だとか、そんな罵声を浴びせてくるはずだったのに。
 そんなうぶな反応、されるとこっちが困る。案外可愛いところあるのかも、だとか思ってしまって、
「い゛……! 〜〜〜っ! 水希、お前……っ!」
「遙のアホ! おまえなんか大嫌いだ!」
 意表をつくように水希は俺の脛を蹴り上げると(渾身の一撃だった)、脱兎のごとくこの場から去った。
 追いかけるにも今のがうまく痛いところに入りすぎていて動けない。
 狙ったかのようにキンコン、授業終了の鐘が鳴る。
 教室から出てきた教師は廊下に残された惨めな姿の俺を見て、「七瀬くんだけですか」何かに勘付いたように一言、「あなたたちは小一時間お話が必要ですね」不吉な言葉をプレゼントしてくれたのだった。