※高2

 水温の低くなってきたとある日。笹部のスイミングクラブはだいぶ繁盛しているらしく、屋内プールを貸すのはもう一週間待って欲しいとのこと。
 外周続きじゃ日に日にやる気が萎えてしまう。久しぶりに更衣室やトイレの掃除をしようと提案したのは怜だ。
「ハルちゃんは、やっぱり夏が好き?」
 一緒にプールサイドを掃除する渚に問われた。
 先ほどから渚は、遙に短い問いを投げかけては特にこれといった返答をもらえていない。大体「まあ」とか「別に」とか。遙はかなり淡白だ。
 遙は視線を上げすこし考えるそぶりを見せる。
 夏は、屋外プールでも海でも泳げる。
 春は、まだ水温が低い。
 秋は、どこで泳ごうにもぬるめの水じゃないと厳しい。
 冬は、温水プールに限る。
「……。別に」
「えっ。そうなの?」
 遙が視線をコンクリートの床に下ろした。
 箒で掃いた塵の山。ほとんどがグランドから飛んできた砂だ。
 遙から返ってきたのは相変わらずの言葉だったが、渚はすこし驚いたふうに遙を見つめる。
 予想していた反応と違ったからだ。
 遙は、夏が一番好きだと断言すると思っていた。
「ハルちゃんの一番は夏じゃないの? たくさん泳げる季節でしょ?」
「……泳ぐのに季節はあまり関係ない」
「ふうん? じゃあハルちゃんが一番好きな季節ってなぁに?」
 渚はすっかり掃除する手を止めてしまった。
 怜が見たなら咎めただろうが、遙も掃除に飽きてきた頃だった。渚みたく手を止めてぼんやりと思考する。
「……特にない」
「えーっ! なんかあるでしょ、ハルちゃん! 夏生まれだから夏が好きとか、食欲の秋だから秋が好きとか……」
「……」
「……。ないの?」
 ムと口をへの字に曲げる遙。
 それを見た渚はぱちぱちと瞬きし、肩を竦める。
 彼らの会話に沈黙がおりたとき、ちょうどよくプールサイドに誰かが来る気配があった。
 なにやら静かに、しかし賑やかに語らいながらこちらへ歩いてくるのは水泳部マネージャーと一部員。江と水希だ。
 江はデッキブラシを、水希は重たそうなダンボールを抱えている。
 二人を凝視する渚たちの視線に気づいたのは同時で、声をかけたのは江ひとりだった。
「お疲れ様です! デッキブラシが壊れてたので新しいのをもらってきました」
「江ちゃんありがとー!」
 “ゴウ”と呼ばれたことに江はちょっぴり不服なようだ。少し頬を膨らませるような仕草を見せたが、ふと隣の水希を見る。
 ベンチの上にダンボールを下ろしている。
「水希先輩、ありがとうございます」
「いいよ」
 重たいダンボールの中身は天方が笹部から預かった差し入れだ。
 中身は人数分のペットボトル。いくら日の強くない季節だろうと脱水症状には気をつけろということだろう。
 デッキブラシをもらいに行ったつもりが「そういえば差し入れがあるんだけど……」とダンボールを見せられたときはちょっと困った。持っていけないことはないが……。
 そのとき偶然にも水希が通りかかったので声をかけさせてもらった。
 水希は無言で頷き、荷物運びを任されてくれた。
 制服姿の水希を不思議に思って聞くと、今の今まで教室で眠りこけていたらしい。
 江は、遙や真琴から、水希の熟睡っぷりは聞いていたので「ああ、二人とも諦めて置いて行ったんだな」と察し苦笑いした。ついでだが、この間も遙が「水希は寝つきだけはいい」と皮肉っていたのも思い出した。
 江と話しながらここに来たけれど、まだ完全に目が覚めたわけではない。水希は目をこすり不意に振り返る。
 遙とばっちり目があった。
「ぐっすり眠れて良かったな」
「……」
 開口一番に言われた言葉に腹が立たなかったと言えば嘘になるが、言い返す言葉が見当たらない。
 すでにジャージに着替え箒を持っている遙の様子も相俟って、水希は居心地悪そうに視線を逃した。
 不穏な雰囲気に気づいた江が眉を下げる。
 と、意表をついて、渚がパンと優しく両手を鳴らした。
「ね。水希ちゃんは季節はどれが一番好き?」
 表情は思い出したみたいなもので、どうやらこの場の空気を読んでの発言ではないと思われる。
 水希は渚を向いて不思議そうに首をかしげる。
 渚はニコニコと笑い返答を待っている。
「……。秋」
 少し間を置いて水希は答えた。
 江と渚は意外だと言わんばかりの顔をしているが、遙にしてみれば“やっぱりな”だ。
 どうせ、理由を聞かれたら水希はこう答える。
 春は環境の変わり目だからめんどくさい。
 夏は暑いからいやだ。学校に行きたくなくなる。
 冬は寒いからいやだ。学校に行きたくなくなる。
 秋が一番ちょうどいい。周囲、心身の環境ともにベストな時期。
 水希本人から聞いたわけじゃないが、日常を長らく付き合ってきた遙は大体察している。
 遙も真琴に迷惑をかけることが多いので他人のことを言えたものじゃないが……春になると新しい環境から逃れるようにフラフラする水希の首根っこをつかんできたし、夏になると比較的冷たいフローリングに倒れている水希をつまみ上げてきたし、冬になると石像のごとく動かなくなる水希を引っ張り出してきた。
 真琴は生まれてからずっと一緒の弟についてどこか諦めている節があるので、遙は余計水希の世話を焼いた記憶がある。
「どうして秋が好きなの?」
「……そこで俺を蔑んでる先輩にでも聞いてみれば」
「は?」
 渚から見た“先輩”は、今この場にいる人間となると水希以外に遙しかいない。
 まさか話を振られるとは思っていなかったので、中途半端に開いた口から間抜けな声が出た。
「ハルちゃん、わかるの?」と無垢な瞳に見つめられ遙は動揺する。一歩足が下がった。
 ふんと鼻を鳴らす音がした。
 水希がいい気味だと言わんばかりの顔をしている。腹立たしいやつだ。
「あれ、みんなどうしたの?」
 と、ここで第三の声。
 四人が向いた先には真琴と怜がいる。部室の外を掃除していた真琴と更衣室の掃除をしていた怜はその役を終えたらしい。
 四人を見た怜の表情が曇る。「皆さん、掃除の方は……」小言を言われるとわかって、渚が声を張った。
「怜ちゃん! 水希ちゃんね、秋が好きなんだって!」
「へっ?」
 突然の発言に、さすがの怜も不意を打たれた。
 怜が咄嗟に水希を見ると彼も喫驚している。「はぁ……そうなんですか。僕も秋は好きですよ」と、よくわからないまま返事する。
 というより、掃除をほっぽらかして好きな季節の話なんかをしたのか。
 怜がため息する。
 渚は水希の後ろに隠れた。それを呆れた顔で見るのは江だ。
 ふと、真琴が笑った。
「秋は一番過ごしやすいもんね」
 真琴の言葉にみんなの視線が彼へ向く。
 苦い顔をしたのは水希ひとりだ。
 それは、真琴の発言が正解だからというわけでなく、あの顔が昔を懐かしんでいるものだとわかったからだ。ああいう真琴は水希にとって余計なことを言う。可及的速やかに黙らせるに限る。
「水希は、春はあんまり好きじゃないよね」
「真琴」
 ジロリと水希にねめつけられ、真琴はきょとんとしたあと、降参だと両手をあげた。
 水希はため息をついたがそれ以上は何も言わなかった。
「あっ。そういえば差し入れがあるんです!」
 妙な空気を打ち破ったのは江だ。彼女もまた数分前の渚のように思い出して発言したのであって、空気を読んだのではない。
 わっと喜んだ渚が、すぐそばの水希と遙の手をとって江のところへ駆け寄る。
 遙はともかく、差し入れがなんなのか知っている水希はただただ迷惑そうだ。
 怜は真琴を向いた。
「……“ハル”って、季節ですよね?」
「あ、紛らわしかったかな?」
 苦笑いする真琴に、怜は頬をかいた。
 あのときの流れではそれ以外にはないだろうが……真琴が発言した“ハル”が季節の話だと断言できる形になり、どことなくホッとした。
「ところで、水希先輩はどうして春が嫌いなんですか?」
「うん……嫌いというか、苦手なんだろうと思うな」
「苦手?」
 怜を見る真琴の目が、一瞬真剣なものに変わった。
 それを見逃さなかった怜はわずかにたじろぐ。
 真琴本人はそんなつもりなどなかったようで、その一瞬の変貌の後、なんてない様子で会話を続ける。
「……小さい頃、水希とハルが大ゲンカしてね。何が原因か聞かされなかったし、当人もすっかり忘れてるんだろうけど。『遙とケンカした』って、水希がらしくもなく俺に泣きついてきたのがずいぶん昔の春の話なんだ」
「……」
 黙る怜からは驚きが感じられる。おおよそ、あの二人がそこまでの喧嘩をする想像がつかないのだろう。
 真琴は自分を睨みつけてきた水希を思いだして、知らずうちに笑ってしまった。
「ま、俺に泣きついてきたのだけは覚えてるみたい」
「……」
「水希は、ハルが好きだよ」
 声は可視化できない。ただ、今回の“ハル”が何を指したのかは容易にわかった。
 怜は真琴の視線の先を追った。
 ペットボトルを右手に二本、左手に一本持った水希がこちらに歩いてきている。
 ん、と軽い調子で突き出されたペットボトルを真琴と怜は軽いお礼を言って受け取る。
 指の間にキャップ部分を挟み、さらには水平に持ち上げる。なかなか器用だ。と、怜は変なところに感心した。
 水希は怜を一瞥し、真琴を怪訝な目つきで見る。
「真琴、おまえ怜に余計なこと言ったろ」
「ええ?」
 びっくりしたのは怜だ。
 水希の様子からは、到底適当なことを言ったようには思えない。
 どうして水希は、真琴が自分に“余計なこと”を言ったとわかったのか。
「……。怜、真琴だって人をからかったりするから。あんまり本気で信じるなよ」
 顰めっ面の水希と、穏やかな笑みを見せる真琴とを見て、なんとなく怜は納得した。
 どちらも本当のことを言っているんだな、と。

2016/09/02