※高3

 いつもよりずっと下にある頭、つむじすら見える彼らを水希は不思議そうに見つめた。
 つむじ――竜ヶ崎怜と、橘真琴が水希の目の前でぱんと手を合わせ、「お願いします!」と頭を下げてきたのは、放課後になってすぐのことだった。
 まだ水温が低く、学校の屋外プールで泳ぐことができないので、この時期岩鳶水泳部は笹部の経営するプールを借りている。そこには水泳部みんな揃って向かう。それぞれのクラスの終礼後に、昇降口に集まるのが決まりだ。
 今出入り口にいるのは、怜と真琴、渚、水希だ。
 江はまだ来ておらず、遙は先ほど忘れ物に気づいて教室に戻っていった。
 ここに集まった時から何やらコソコソと話しているとは思っていたが、水希は特段興味がなかったので気にしていなかった。しかし唐突に頭を下げてきた2人に、知らぬふりをしていられなくなった。
 渚もまた不思議そうに真琴と怜を見ていた。今から起こるであろうトラブルに、トラブルメイカーの渚が含まれていないのは、水希にとって珍しい光景だった。
 水希は耳にかけようとしていたイヤホンを下ろした。
「お願いって、何が?」
「もうすぐ、バレンタインじゃありませんか」
「そうだね。で、何? 怜と真琴は誰かに作るから、それを手伝えってこと?」
「ううん。違うんだ、水希」
 頭を上げた真琴が驚くほど真剣な目をしている。
 ただごとでない双子の様子に水希は身体を強張らせ無意識に身構える。
「江ちゃんは、去年作ってくれただろ?」
「ん。あー、なるほどね。そういう話か」
 真琴の一言で全てを察した水希は、肩の力を抜いて、大息をついた。
 先ほどから水希たちのやり取りを黙って見ていた渚は「どういうこと?」と3人の中に入る。江が去年自分たちにチョコレートを作ってくれた。だからなんだというのだ。
「ねえねえどういうこと? 僕にも教えてよ怜ちゃん」
「渚くんは江さんのチョコを美味しそうに頬張っていたのでわからないと思います……」
「なあにそれ! だって江ちゃんのチョコ、おいしかったじゃん!」
 渚は怜の背中に頭をぐりぐりと押し付ける。
 怜は迷惑そうにしていたが、味覚は人それぞれなので渚には江のチョコ(というより料理全般)の恐ろしさを説明できないと諦めていた。だから渚の攻撃を黙って受け入れていた。
 江は料理の腕前が壊滅的、というわけではない。しかし筋肉を愛するあまり、部員にも筋肉のつくものを食べてもらいたく――プロテイン。まるで調味料であるかのごとく、すべての料理にプロテインを入れてしまうという悪癖があった。
 プロテイン入りはやめてくれ! と渚以外の部員たちは抗議したが全く改善されていない。
 今回の真琴たちの願いは、料理のできる水希に江のチョコレート作りの手伝い(という名の監視)をしてほしいということだ。
 水希は渚が怜にちょっかいをかけだしたあたりからぼうっとしていた。答えが出ないわけではない。江に何と言って一緒にキッチンに立つところまで持っていけばいいのか迷っているのだ。
「……やっぱダメかな?」と真琴が子犬のように眉を下げる。黙り込んだ水希に下手に出たようだ。
 水希はイヤホンを指先でいじる。真琴のやつ、こういうときだけはなぜいつもの読心術が使えないのか、と少し不満だった。
「俺もプロテイン入りはつらいし。まあ、いいよ」
「!」
 真琴だけでなく、怜もぱあっと顔を明るくする。ゲテモノ回避! と顔に書いてある。水希はまだ江に確認をとったわけじゃないし、そもそも江に失礼すぎる。気持ちはわからなくない、が。
 おまえらな、と水希は小言を言ってやりたかったが「遅くなりました!」と江が駆けてきたので口を噤んだ。
「天方先生は今日は来られないそうです」
「そっか。じゃあ後はハルだね」
 いつもの部長の顔をする真琴の切り替えの早さには水希も呆れを通り越して感動するしかない。先ほどまでの会話の内容のせいで、少しぐらい気まずそうにするとかないのか。
「あれ、遙先輩まだなんですか?」
 珍しいですね、と呟きながら遙の姿を探す江。
 それをじっと見ていた水希は、心内で深くため息をついた。いろいろとそれらしい言い訳を考えるのなんてムダだろう。普通に誘ってしまえばいいのだ。
 水希はすっかり、面倒くさいから率直に、という思考に切り替わっていた。
「あいつは忘れ物。あのさ、こう」
「はい?」
「おまえ、バレンタインチョコ作る?」
「えっ?!」
 確かに水希の問いかけに目を見張っているが、驚いて声をあげたのは江ではない。
 真琴だ。
 慌てた様子の彼は「それ、今言うの?!」と水希を小突いて小声で囁くも、「俺の勝手だろ」と押し返されてしまった。
「作りますけど……どうしたんですか? 急に」
「じゃあ俺も作る。で、1人より2人の方が楽しいだろ」
「へっ?」
「俺の家においで。一緒に作るよ」
「え、ええっ?!」
「強引だね水希ちゃん?!」
 こうなるまでの話の流れを知ってはいるが――さすがの渚も慌てた。
 怜も唖然として瞬き1つしない。
 真琴はひくひくと口を引きつらせる。水希の双子である真琴は、水希が説明やそれっぽい理由付けが面倒になってあんな荒い手段に出たのだとすぐにわかったが、繰り返すがそれは何十年とそばに居続けたからだ。
 彼女には、わからない。わかるはずがない。それならばまだしも、あれは、女心を少しも考えていないあれは。江に、変な誤解を生ませてしまうのではないか。
 その真琴の思惑どおり、江は混乱していた。――1人より2人の方が楽しい。家においで。一緒に作るよ――水希は一体どういうつもりで自分を誘ってきたのか、と。それも家に招かれた挙句2人で料理だ。
 江は顔を真っ赤にして一歩下がった。すると、ドン、と何かにぶつかった。
「おい。危ない」
「あっ、遙先輩、ご、ごめんなさい……」
 ぶつかったのはいつもの仏頂面を構えた遙だった。
 遙は別に怒っているわけではないと江に伝え、待たせた、そう謝るつもりでメンツを見るのだが、周りの空気に首をかしげるしかない。
 なんだ、この、妙な感じ。
 真琴も、怜も、渚も、江も。というより水希以外の全員の様子がおかしい。自分が忘れ物を取りに行っている間に、一体、何が起こったというのか。
「何があったんだ?」
「……」
 遙は一人一人の顔を見ていく。
 江は狼狽え、真琴は目を逸らし、怜は斜め上を見ながら頬をかき、水希は睨みつけてきて(これは遙が無意識に水希だけにはガンつけたからだが、あくまで遙は“無意識”なので、なんでこいつ睨んでくるんだうざっである)、渚は。
「ええっと……」
 こういう役割はどうして自分に回されるのだろうかと、渚は苦笑いをする。
「その……なんというか、ね? ほら、ね?」
「全然わからない」
「う……っ、えーと、うぅ……水希ちゃんが……」
「水希?」
 水希が問題を起こしたのか、と遙は少々驚いた。みんなが気まずくなるほどの問題行動とは一体。
 だが、当の水希本人は渚の口から出た自分の名前にぽかんとしていた。
 これは、ややこしいことになる。
 遙と水希、双方の表情を行き来していた江は察して、二人の口喧嘩が始まる前に動いた。
「えっと、水希先輩が、一緒にチョコを作ろうって誘ってくれたんです」
「チョコ……?」
 遙は大きく瞬きし、首を倒した。
「もうすぐバレンタインデーだろ、ハル」横から真琴のフォローが入ってやっと納得。かつ、遙は現状況を把握した。
 江のプロテイン入り手作り差し入れは、何も今始まったことではない。遙を含む水泳部の各々は幾度となく口を押さえ、腹を痛めてきた。どうかプロテインだけは、と訴えても、江も江で譲れないらしく改善はされないままだ。そしてそのまま、バレンタインデーを迎えようとしている。
 つまるとこ
 去年同様
 腹が死ぬ  はるか
 気付いてしまうとかなりやばい事態が近づいてきているものだから、遙はあまりに動揺して心内川柳を詠んでしまった。
 話を戻す。
 江は水希にチョコレートを一緒に作ろうぜと誘われたと言った。対プロテイン入りチョコレートとして投下された兵士が水希だということだろう。
 そこまでわかればあとは容易い。残りはこの幼馴染がしれっと爆弾を投下することを知っていれば、この気まずい空気の答えは目の前だ。
「お前、またタラシを発揮したのか」
「はぁ?」
 遙の可哀想なものを見る目に水希は低く唸った。
「おおー! さっすがハルちゃん、名推理!」
 声に出したのは代表して渚だったが、この場の全員、はなまる満点の遙の答えに、思わず歓声をあげ、パチパチと拍手を送る。
 水希にしてみればなんだこいつらである。
「水希はその天然タラシを早く直したほうがいいぞ。真琴も」
「えっ俺もなの?!」
「真琴おまえ自分がタラシ気質あるってわかってなかったの?」
「まこちゃん……」
「真琴先輩……」
「女の子の恨みは怖いですよ、真琴先輩……」
「ねえ待って! なんで俺に飛び火してるの?! あと水希、お前もタラシって言われたのスルーしてるだろ?!」
 真琴は必死で抗議するが、哀れみの目は変わらない。きっかけの遙はとても残念そうにしているし、水希に至っては「は? 俺は言われてないけど」である。自分にとって悪いことは拾わないなんて、こいつの耳、都合が良すぎる。
「タラシ一族橘だね」
「やめてそんなの!!」
「俺は違う」
「水希は自覚しろよ!!」
 ほとんど涙目の真琴を気の毒そうに見る遙。ぽつり、「苦労人だな」とつぶやくものの、手助けする気はないようだ。こちらも歪みない七瀬遙である。
「真琴は何を必死になってるんだよ。タラシって言葉がちょっとあれだけど、おまえの場合、要は甘やかすのが上手で人一倍優しいってことだろ。否定することない長所じゃん」
「〜〜っだから!! 水希はそういうのが!! 問題だから!!」
 なにやらギャイギャイと揉める橘兄弟はさておき、遙は江に声をかける。
「チョコ作りは水希と二人でするのか?」
「あ……急に誘われた理由はわかりませんけど、断る理由もないですし……」
 当人、やはり、プロテインクッキングの殺傷力を知らないことは目を瞑るとして。
 ふむ、と遙は考える。
 本人にはまったく、ミジンコ程度すら自覚はないが、料理をするときの水希はご機嫌マックス、天然タラシなんぞ当たり前、存分に発揮される。それを知るのはともに台所に立つ機会の多い遙ぐらいだ。
 水希がどのように江を誘ったかは知らないが、誘われただけであのうろたえようだ。一緒に料理なんかしたら、きっと大事故になってしまう。……だが、対プロテイン入りチョコレート兵士は必要だ。
 ならば。
「俺も一緒に作る」
「えっ?!」
 遙の申し出に江は思わず声をあげた。
「遙先輩も対プロテ……ごほん、チョコ作りに参加するんですか?!」
 続いて怜が声をあげる。
 言い合っていた真琴と水希も振り向いて、ぎょっと目をむいている。
「何か悪いか」と遙は口をへの字に曲げた。
「ハルちゃんも参加するの? ならもうみんなで作っちゃおうよ!」
 キラキラと目を輝かせ、渚がはいはいっと元気よく挙手をする。それに困惑するのは江だ。「渚くん?」と焦る江に、渚はまあまあ、と。さらに続ける。
「今年の岩鳶水泳部のバレンタインは、みんな一個ずつ作って、それをみんなで交換! どうかな、楽しそうじゃない?」
 ぱちんとウインク。
 静まり返った各々は、しばらくするとそれぞれ顔を見合わせて、ぱあっと明るくする。
「うん、楽しそうだ!」
「材料も追加で買わなくちゃ!」
「なら、僕はチョコレート作りの完璧な理論を今日のうちに頭に叩き込んでおきましょう!」
 順に真琴、江、怜だ。彼らのセリフは賛成。残るは、二人。
「……サバ」
「やめろ」
 ぽつりと呟いた遙に水希は凄まじい勢いで止めに入った。サバなんで混ぜられたらたまったものじゃない。プロテインがサバにチェンジしたバレンタインなんてただの地獄だ。
 そんな二人も渚の提案に賛成なのだとわかり、渚はしんから嬉しそうに顔をほころばせた。
「よーし! じゃあ吾朗ちゃんのところに行きながら計画を立てよう!」
「おー!」
 岩鳶水泳部、突然の団結力。
 拳を高く掲げる4人を前に、うっかり乗り遅れてしまった遙と水希は、どちらともなく顔を見合わせて、小さく笑った。

2016/03/06