一枚の薄っぺらい紙を握り、橘水希は絶望していた。
 再生紙を利用した解答用紙はざらついている。そこに空白はなく、黒鉛がびっしり、埋め尽くされている。のに。
 分母は100。斜め棒を隔てた右側に印刷されたそれは変わらない。決して、50にはならない。
 左側に書かれた数字は手書き。赤というよりもピンク色をしたペンで、大きく、刻まれている。
 水希は一度答案用紙を机に伏せた。
 意味もなく頬をかき、髪をなで、深く呼吸。
 余計な部分には用がない。水希は用紙の左端をつまみ、谷折りした。
 47。
「っ……」
 水希は息をのみ、端っこを山折りにした。
 ずり落ちた体を起こし、ピンと背筋を張る。
 その時に見えた前の席、七瀬遙の答案用紙には、92という驚愕の数字が記されていて、水希は思わず椅子から滑り落ちそうになった。
「今回のテストの平均点は……。72点だ」教師が告げると同時、一斉に生徒のため息が漏れた。安堵の色を見せるものもあれば、絶望の色を見せるものもある。その反応で、生徒各々は平均点以下だったのか、以上だったのかの察しがつく。
 正直、勉強しなかった。記号問題が多いと聞いて、高をくくっていたのは認める。……が、空欄をすべて埋めたのに、半分以下。さすがに、ない。
「50点以下のものは、やり直しを提出するように」と教師は続けた。うなだれる声は50点以下、すなわち赤点を取ったものの声だ。
 やり直しは救済措置。出さなければそれこそ大事故につながってしまう。
 今回の授業の時間は返却されたテストの見直し、質問時間にあてると教師は言う。
 さっそく質問に向かうもの、好成績を取り余裕の態度を見せるもの、ぶつくさ言いながらもやり直しノートを作り出すもの。生徒の態度はそれぞれだ。
 水希も仕方なしにカバンからB5ノートを取り出した。
 まだ使ったことがないまっさらなそいつの表紙を開く。
 遙が振り向いた。
 意図せずとも視線は交わる。遙は、水希がノートを取り出していることでおおよそ察したようだ。
「……何点だったんだ?」
「……47」
「はっ」
 言うとなぜか遙が椅子から転げ落ちそうなぐらい驚いて見せた。
 あの無表情が珍しい。
 水希は素直に感心する。
「ただの記号の選択だっただろ?」
「と、思って試験前にちらっとノートを見ただけだと無理だった」
「ふうん……」
 遙はすでにいつもの無関心な顔に戻っている。
「水希にしては、珍しいな」
 とのコメントを残して、遙は前を向いた。
 水希も特に呼び戻すことはせず、罫線のひかれたノートと、丸の少ない解答用紙、くすんだ問題用紙とにらめっこを始めた。
 きっと、この時間だけでは終わらない。部活が終わってから、家でやろう。
 すでにこの時間に済ませることをあきらめた水希は、無言でのそのそと、問題用紙に鋏を入れた。とりあえず、切って、貼る。貼れる状態にしておく。それがこの時間の任務だ。
 紙を切る。切る、切る……。
 ある程度空白を残しつつ、貼る。貼る。貼る。……。
 水希の予想した通り、水希は時間内にやり直しを終えることがなかった。
 とりあえず問題の貼り付けが終わったノートをカバンに直し、あくびをこぼす。
 遙は机にうつぶせて眠っている。さすがは92点。余裕だ。
 終礼をしに天方が教室へはいるが早いか、遙が頭をあげた。たぶんセンサーがついているのだ。タイミングが良すぎる。
 水希は浮いた腰を落ち着け、行き場を失った手を膝に下した。


 夕方になってもセミは鳴いている。一匹だけ、朝と夜とを間違えている。迷惑な奴だ。
 水希は湿った髪の上にタオルをかぶせ、部屋に戻った。
 まず窓を全開にする。頼りない風が風鈴を鳴らす。少し涼しく感じる。が、セミの鳴き声が大きくなって、わずらわしい。
 次にしゃがんで、カバンから筆箱と、一冊のノートを引っ張り出す。
 しゃがんだついでに扇風機のスイッチを入れる。扇風機の首はベッドを向いていたので、勉強机に向かうようにひねる。頭に載せたタオルが風に吹かれた。
 椅子を引いて机に向かう。
 ノートを開いて、はたと。忘れ物に気が付いて立ち上がる。
 毎日何冊もカバンに入れて往復していたんじゃたまったものじゃない。教科書なんて学校の引き出しに置いてきているのだが、テスト期間だったので荷物は持ち帰り。テキスト類は全部、部屋の棚にある。
 あしたからこいつらをまた、学校に置きにいかなければならないのだと思うと気がめいる。
 水希は本棚から分厚い教科書と、教科書と比べればまだ厚みのない問題集を取って、今度こそ椅子に腰を落ち着けた。
 ノートに誤答と正答を記入し、解き方、関連事項、等々。とりあえず必要と思われることを書いておく。
 水希はめんどくさがりだが、やろうと決めたことにはだいぶ、凝るタイプだ。それで余計な時間がとられるのは、本人も自覚済みではある。
 どれほど時間がたったのか、半分ほど終えたところで部屋の扉が開いた。
「わ。暑っ」
 開口一番驚いて見せたのは真琴だ。
 真琴は、浴室にいる遙には声をかけ戸を引くくせに、水希の部屋に入るときは声掛けはもちろん、ノックもしない。別に文句はないけれど、その差はなんなのだと、水希はたまに不思議に思う。
「水希の部屋、暑いね」
「ん。……」
「リビングが嫌だったなら、俺の部屋ですればいいのに」
 リビングは言うまでもないが、真琴の部屋にはエアコンがある。水希も自分の部屋にエアコンがほしいが、……金銭的に厳しい。無理は言えないので蒸し暑くてたまらない日は真琴の部屋で過ごすようにしている。最近、寝るのは真琴の部屋だ。
 リビングで勉強をすると、どうしても幼い弟妹に遊ぼう遊ぼうと手を引かれてしまうので部屋にこもったのだけれど。言われてみれば、真琴の部屋ですればよかった。
 真琴が寄ってくる様子はない。
 ずっと机に向き合っていた水希も、そろそろ怪訝に思って真琴を向いた。
 何の用事だ、と言おうとした口を閉ざした。
 真琴の横には遙がいた。
 水希は壁掛け時計に目をやった。もう午後8時を回っている。勉強を始めたのは6時過ぎだったので2時間は経っていたようだ。
 さておき、こんな時間に、遙はいったい何をしに来たのだろう。
「遙?」
 そういう意味で彼の名前を呼んだ。
 遙が居心地悪そうに視線を落とす。
「……差し入れ」
 そういって持ち上げられた遙の右手にはコンビニのビニル袋が握られている。
 少し張ったビニルから中身は重みのあるものだと分かる。
「……アイス」
 遙のつたない説明に、水希は何も言えない。
 見かねた真琴が口を開く。
「買ってきたんだって。水希が、勉強頑張ってるだろうと思って」
「! 真琴……」
 遙が真琴を横目に睨んだ。
「へえ」と、水希は意外さを込めた声を漏らす。
 ビニルはコンビニのものなので、わざわざ買いに出たのだろう。遙がそんな気遣いをしてくれるとは思わなかった。素直に、うれしく思う。
 あの点数、どう見ても褒められたものじゃないが。こんなことがあるのならたまにはいいかなんて思ってしまう。
「ありがとう」
「! ……ああ」
 遙の頬がうっすら赤らむ。
 気づいた真琴が小さく笑う。遙はやはり、恨めし気に真琴を睨みつける。
 水希は大きく伸びをした。だいぶ体が凝っている。休憩時、だろう。
 立ち上がった水希の意図を察した。真琴は「俺の部屋にする?」と問いかける。
 水希はうなずいた。
「俺、飲み物持ってくる」
「……なんか、悪い」
「? 何で謝るんだよ。せっかく持ってきてくれたアイス、溶けたらダメだろ」
 水希は不思議そうにしながら部屋を出た。
 残された真琴と遙はその背中が階段に差し掛かり、見えなくなったところで、お互いに顔を見合わせる。
「部屋で待っとこうか」
「……そうだな」
 2人が部屋に入り、クーラーがだいぶききはじめたころに、水希は戻ってきた。
 部屋にノックがあったので真琴が入室を促す。
 水希の手にはお盆。お盆には麦茶と、コップが3つ。それと、透明の容器に入ったゼリー。その後ろには、なにやら、人影がある。
「ハルちゃん、ずるい!」
「?!」
 幼い声で遙を非難するのは蘭。水希の背後にあった人影の正体でもある。
 蘭は水希のズボンをつかみ、ちょっと隠れるようにしながら、もう一度、ぽかんとする遙に向かって不満を述べる。
「ずるいよ!」
「蘭」
 咎めるように水希が蘭を呼んだ。
 蘭の視線が遙から外れた。それを機に、遙の肩の力が幾分か抜ける。何も殴られたわけじゃないのだが、出し抜けに責められると吃驚する。
 ぷくっと頬を膨らまし、蘭は水希をにらむ。
「だって、水希おにいちゃん、蘭が言ったときは『勉強するから』って。遊んでくれなかったもん!」
「後でって、言っただろ」
「ハルちゃんは、後で、じゃないじゃん!」
 水希の入室はなかなか叶わない。
 どうしてか入り口で始まった兄妹喧嘩を、遙も真琴もぽかんと見つめる。
「水希おにいちゃんは、ハルちゃんにかまってばっかりだよ! ずるい!」
「蘭、ってば。聞けよ」
「ハルちゃんも、水希おにいちゃんもっ! ベーッ、だ!」
 これについてはなぜか、蘭は遙に向かって舌をだし、駆け出した。
 遙は、始終唖然としていた。真琴は、少し察したふうだ。
 ため息をついた水希が真琴たちのほうへ歩いてくる。
 遙はなんとなく居住まいを直す。
 お盆がテーブルに置かれた。
「先、食べてて。ごめん」
 水希はそれだけ言うと、返事を待たずにまた部屋を出た。機嫌を直させるため、蘭を追いかけたらしかった。
 遙はやはり落ち着かない様子でグラスを持ち上げ、口元に寄せる。カップアイス、少し溶けてしまっている。
「なんか、ハル、隠してた恋人が親にばれた、て感じだね」
「! っ、げほっ!」
 思いっきりむせた。危うく飲み物を噴き出すところだった。
 顔を真っ赤にして睨みつけてくる、しかし言い返そうとしない遙を、真琴はニコニコとしながら見ていた。

2016/07/14