※高3

 遙は基本、水のこと以外に興味がない。ましてや学校の授業なんて楽しみなはずがなくて、教師の声と、クラスメイトがかしゃかしゃとシャーペンを鳴らすのとをBGMに、頬杖をついてぼんやりするのが日課だ。
 春先はまだ肌寒く、日中は暖かくなるといえども、プールの開放は遠い。
 窓の外に見えるプールには水なんか張られていない。じきに始まるのは大掃除だろう。
 掃除は大変なので、予定された日は丸一日それで潰れてしまう。やはり泳ぐのはずいぶん遅くなるだろうが、自分たちで補修したプールだ。それなりに愛着がある。めいっぱい、きれいにしてやりたい。
 遙は不意に自分の真っ白なノートを見て、そこにペンを走らせた。我に返り、慌てて板書を取り始めたわけではない。今日の帰りにスーパーで買いたい食材をメモしたのだ。
 それが済むとまたやることがなくなった。
 ほうとため息をついて黒板を見る。入りきらなかったのか、教師が前の分の板書を消したところだった。
(……暇だ)
 もういっそのこと眠ってしまいたいのだけれど、こういう時に限って睡魔はお留守だ。
 カツ、と床に何かが落ちる。
 遙は音の発生源を探し、自分の足元にシャーペンが落ちているのに気が付いた。遙のものではないが、見覚えのあるものだった。
 それを拾い上げて、遙は横の席の幼馴染を見た。後ろの席になったせいで、授業中はメガネが欠かせなくなった真琴のことではない。
「……」
 遙は彼の名前を呼ぼうとしたのも、彼にシャーペンを渡そうとしたのも、ためらった。
 水希は珍しく、授業中だというのに華胥の国に遊んでいた。
 全体的に髪は前に下がり、石像のごとく固まってピクリともしない。いつから寝ていたのか知らないが、うつらうつらと船を漕ぐ様子はないので教師にもばれていないのだろう。
 水希のノートを窺うと、ちょうど先程教師が消してしまった分までは書き込んであった。
 遙は水希以外の生徒の様子も窺った。3分の1ほどは、午後の国語に勝てなかったようで、一生懸命に起きようとする者や、もはや隠すこともなく机に伏せて寝る者もいた。
 教師も注意していては埒が明かないと諦めてしまったのかもしれない。
 遙は拾ったシャーペンを指先で弄び始める。
 水希を起こすのはやめにした。
 授業中に寝ていたら起こしてほしい、と1,2年、そして3年になっても頼まれてはいるし、遙はその通りにしてきたけれど、今の水希を起こす気にはどうしてもなれなかった。
 それは単に、遙による水希へのいやがらせだったのかもしれないし、差し込んだ日の光によって顔に影を作り、髪をきらりと反射させる幼馴染が、幻想的だと思ったからだったかもしれない。
 起こすのが惜しいと思った。それだけははっきりと言える。
 遙は水希のシャーペンを握ったまま校舎の外を眺めなおした。
 相変わらず、プールには水が張られていなかった。
 授業終了のチャイムが鳴って、眠っていた生徒たちもはっと意識を覚醒させた。
 起立の号令。
 けれども遙の隣人は目覚めない。
 遙は驚いたが起こせなかった。クラス委員は一番前だし、水希の周囲は背の高い男子生徒が取り囲んでしまっているので、気付かれないまま礼が済んでしまった。
「……水希」
 残すは終礼のみなので、クラスメイトは体を伸ばしたりトイレに行ったり、とにかく用事を済ませる。
 ざわめきだしたクラスにピクリともしない水希がさすがに心配になり、遙は彼の肩をたたいた。
「水希、終礼始まるぞ」
 ゆさゆさと動かしてみても、水希は起きない。
 そうだ。すっかり忘れていたが、この男は眠りの深いやつだった。レム睡眠だかなんだか知らないが、きっとこいつはあまり夢を見ないだろう。
 困り果てた遙は真琴に頼もうと思ったのだけれど、真琴はクラスメイトと談笑していてどうにも声をかけられそうにない。
 しょうがなく遙はまた水希に視線を落とした。
「水希。起きろ、水希」
 リベンジだ。
 遙は割と強めに水希の背中をたたく。可哀想だと思ったがここは譲ってはならない場面だ。
「水希」
「……、……」
 ぴく、と水希の指先が動いた。
「……遙」
 やっと起きたか、と遙はため息を吐き出した。
「あれ……」
「授業はもう終わった」
「え、……俺、寝てた?」
「ぐっすり」
「マジかぁ……」
 自分自身に落胆したように言って、水希はぐっと伸びをする。喉の調子を確かめるように鳴らして、寝ぼけ眼をこすり、完全覚醒を目指すが、やっぱりまだまだ片足は夢の中、だ。
 どこかぼんやりとした目で教室中を見渡し、遙に向かって声をかける。
「おまえも寝てたの」
「……ああ」
 遙はとっさに嘘をついた。
 起きていた、と言えば、どうして起こさなかったんだと不機嫌な顔をされることなんかわかりきっていたからだ。
「そっかぁ」
 ふわあと大きなあくびをすれば、伴って大粒の涙が浮かぶ。
「日が差してあったかいし、古典だし、なんか眠くなるよな」
 水希はそれだけ言うと、目元をぬぐったっきり、黙ってしまった。
「寝ながら走るなよ。部活」
「そんな器用なことできないって」
 遙に対していつものように噛みつかず、軽く笑った水希は、きっとまだ眠っているのだ。
 いつもの口の悪さが一瞬でも消えてしまった水希に、遙は拾いものを返すのすら忘れて、ただひたすらむず痒かった。

2016/01/10