※高3

 遙が豆腐の角で頭を打ったらしい。
 豆腐の角? と小首を傾げつつ、水希は遙の家へ向かう。
 遙の家のインターフォンを鳴らすと、昨晩から遙の家に泊まっている渚が玄関を開けた。彼がここにいることは知っていたし、豆腐の云々をメールで伝えてきたのも彼だったので、水希は別に驚きも怪しみもしなかった。
「それで?」
「僕が言うより見たほうが早いって!」
 グイグイと腕を引かれ足を踏み入れたのは通い慣れた七瀬宅。渚が整える暇を与えてくれなかったので、バラバラに行儀悪く散った靴は後で並べようと思いつつ、居間に通されれば、遙の姿は探すよりも早く見つかった。
 座卓に顎を乗っけて、ぼーっとする青目。
 水希はそれを見た途端に勢いよくUターンした。
「えっ、ちょっ、」
「帰る」
「水希ちゃん?!」
 だってめんどくさいにおいがプンプンするのだ。
 慌てて水希の腕を掴んだはいいが、ギロリと睨まれると足が竦む。面倒ごとに巻き込むな。そう言ってくる淡緑色の恐ろしいことよ。
 しかしそんなことで折れる渚ではない。「朝からハルちゃんがおかしいんだよ、どうにかして!」と頭を深く下げてお願いする。
 どうして俺に頼むんだ、と内心うんざりしながら、水希はもう一度遙を見る。
 ほわほわと、蝶々が数匹周りを飛んでいそうだ。
「あれはダメだ。うつ病だ」
「えっ?!」
 ため息とともに断言した水希。
 なんだって、と言わんばかりに渚が声を荒げた。
「こうやって渚が騒いでても上の空だろ。眉ひとつ動きやしない。手遅れだ。土に還せ」
「土に?! 水じゃなくて?!」
 つっこむべきはそこではないが、残念なことにそれを指摘する人間さえいない。
「じゃあ俺は帰るから」
「ま、待ってよ水希ちゃん! どうにかならないの?」
「新学期になったばっかりで、環境が変わったから少し不安定なんだろ。それに、まだ水温は低いから泳げやしないし。あれはフラストレーションの塊だ。どうにもできないね」
「……水希ちゃんってハルちゃん博士?」
 しんと急に2人の間に沈黙が鎮座した。
 あっ、口が滑った。渚が慌てて口を手で覆う。
 あからさまに機嫌を損ねた顔をする水希は、ちらりと、やっぱり間抜けヅラをかましている遙を見やって
「あんなのの博士になったって一文にもなりやしないだろ」
 やれやれ。肩を竦めた。
「とりあえず放っとけよ、構うだけムダ」
「そ、そんなぁ……」
 がっくりと肩を落とした渚に、情がわいたらしい、水希はいささか不憫に思い渚を見遣って「昼飯は」と。
 渚はぽかんと水希を見上げる。
 水希はもう一度「飯」と言う。
「食べたの。遙があんなんだし、作ってもらえてはないだろ」
「あ、うん……いまから勝手にインスタントでも作ろうかと思って」
「座れ」
 水希はするりと渚の手から抜け出す。渚の視線が追ってきても、何も答えずに台所に立ち、腕まくり。
「作ってくれるの?」
「おまえに呼び出されたせいで俺も食べてないんだよ」
「……ふへへ」
 素直じゃないなあ、もう。渚は内心そうつぶやいた。面と向かって言えばあの鋭い目で射殺されることはわかっているから。
 とことこと居間に戻って渚は畳の上に座る。
 彼の前にはやはりぼうっとする遙がいる。
「ねえハルちゃん、水希ちゃんが来てくれたよ。僕たちに、お昼ご飯作ってくれるって」
「……?」
 遙の目がふらりと揺れる。ゆったりと宙を泳いだ先にあるのは、冷蔵庫から食材を取り出す幼馴染の姿だ。
「ハルちゃんはいいなぁ。疲れてるときにはおいしいご飯を振る舞ってくれる幼馴染がいるんだもん」
 机に顎を伸せる遙のように、渚も机に伏せて、グーッと伸びをした。
 依然思考は晴れないが、それでも遙の目は水希を追う。
 本当、勝手知ったる他人の家、だ。あの野郎、調理器具がどこにあるのかも、調味料がどこにあるのかも、すべて把握してしまっている。それどころか最近では遙の家に自分の料理道具を持ち込む始末だ。
「……もう住めばいいのに」
 遙がぽつりと言うと、渚には聞こえたようだ、渚はくすくすと笑った。

2016/01/10