※高2
チャイムが鳴ると一斉に、ほとんどの女子が教室から駆け足で出て行った。
それをぼんやり見送った水希は自分の鼻の頭あたりまで伸びた前髪をつまむ。
すっかり切り忘れていた。昨日、家に帰ったら短くしようと思っていたのだが、蓮とゲームに夢中になって、どこか遠いところに忘却してしまっていたのだ。
前髪は目をにかかってはいけないと入学当初に耳にしたし、今やどこに行ったのかわからない生徒手帳にもはっきり記してあるらしい。前髪が長い女子はたくさんいるが、点検の日だけはピンで横にピタッと止める。
そのおかげで、一瞬初対面かと思ってしまう事例が何度も発生していたりする。前髪一つで随分変わるものだ。
真琴は余裕でセーフ、遙も、まあ、許容範囲だろう。
水希は見慣れた顔を見てため息をつくとそっと前髪から手を離した。
「人の顔を見てため息をつくな」
「被害妄想じゃないですかぁ?」
目の前でやられたのを己の目で見たのだから妄想なんかではない。
水希の煽るような妙に間延びした声に腹が立って、遙は彼の頭をたたこうとして――その手で彼の前髪に触れた。
「……これ、」
「うるせーサバ」
「アウトだサバ」
「語尾じゃねーよ」
キッと遙を睨み付けて、水希は彼の手を払った。
いつもの遙ならひりひりと痛む手を恨みがましく思っただろうが、今は違うものに夢中だった。
水希の前髪は自然と流してあるからぎりぎり、ぎりぎり見逃してもらえるかもしれないように見えるが、軽く押さえると目にかかる。完全に校則違反であった。
風紀検査に引っかかると、またこの一週間後に再検査を受ける羽目になる。それも、昼の時間を削ってだ。だから女子生徒は我先にと身なりを整えに行ったのである。
「随分伸びたな」
前髪をさらさらと払いながら遙が言う。散らばったそいつが鼻の頭に擦れてくすぐったい。
しかし遙をあしらう気力もなくて水希は何も言わずに彼の好きにさせた。
「この前髪でちゃんと見えてるのか?」
「まあ。たまに目に入って痛いけど」
「切ればいいだろ……」
遙があきれ顔をした。
「水希くん、前髪アウトじゃない?」
不意に高い声がかかる。身支度を済ませた女子が戻ってきたようだ。
「うん」
肯定するまでもない、見ればわかるだろうと言いたかったし、いつもの水希ならたとえ相手が女子であろうとその身にデッドボールをぶち当てたに違いないのだが、今の彼は気が抜けていた。気と一緒に、毒気も抜けていた。
「わたしの貸そうか?」
「“わたしの”?」
遙や水希と席が近いので、わりと2人とよくしゃべる女子生徒は、不思議そうに首をかしげる水希にポケットから出したヘアクリップを取り出してみせた。
黒色のそいつは、そういえば水泳部マネージャーも常備していた気がする。
「はい、どうぞ」
これを俺にどうしろと、と水希が訝しむ。
ただのヘアクリップなのだが随分警戒して受け取らない水希の代わりにそれは遙が受け取った。
「あとで返してくれたらいいから」と、だけ言うと女子生徒は友達の輪に戻っていく。
「……何?」
じっと自分の顔(というより前髪だろうか)を見つめる遙を一睨み。
遙は何も言わずにヘアクリップを水希の方へと持っていき、
「……」
「……」
「……幼くなるな」
「殺すぞ」
ぱちんと留めたのは水希の前髪だ。
でこあげの水希がたいそう新鮮らしく、遙はまるで水を見た時のように目をキラキラとさせる。水希の恐ろしいほど冷え切った声にも視線にも気づかないほどだ。
水希は「本当におまえめんどくさい」と悪態づくと、自分の前髪を留めるヘアクリップに手を伸ばす。
それをぱしっと遙がつかんだ。
「ねえ」
水希が低い声で唸る。
「うざい」
「そのままで受けろ」
「ヤダ」
「可愛いから大丈夫だ」
「何が大丈夫なわけ? 病院行けば? 学校で風紀検査なんて受けてないで、病院で頭の検査受けろよ」
「お前本当に口が悪いな」
周りから見ればじゃれあっているようにしか見えないが、案外お互い殺気立ち100中90ぐらいは力を出しあっていたりする。ぐぐぐ、と押し合い拮抗状態だ。
しつこすぎる遙に耐えかねて、またも水希が罵詈を飛ばそうとしたとき、
「検査するから男子は廊下に出なさい」
お呼び出しがかかり、ガタガタと音を立てて立ち上がった男子生徒がぞろぞろと廊下へ出ていく。
遙と水希はお互いに何とも言えぬ目線を飛ばしあい――あきらめの溜息と一緒に手の力を抜いたのは水希の方だった。もういいや、さっさと検査に受かって外してしまえばいいんだから。
なんだか鼻歌を歌いだしそうな遙が癪に障ったが我慢した。
「え。水希?」
「何」
「いや……、可愛いね」
おまえまで水キチガイと同じことを言うのかと哀しくなったが、にこにこと笑って水希の頭を撫でる真琴の目が、家で見る、そう、蓮と蘭を相手にしている時の目と一緒だったので、水希は何も言う気になれなかった。
「なんか幼いなあ」
「小学生にいそうだろ?」
「しねよ」
「こら、そういうこと言っちゃダメだろ? 水希」
「は。先にかけてきたのは遙だろ」
「短気」
ひくりと水希の口がひきつる。
しかし点検は進み、自分たちの番が回ってきてしまったので、新たな矢を射ることはできなかった。
イライラを隠さない表情の水希と、つんとそっぽを向く遙の横で、真琴が困ったように笑っていた。
爪や眉を見られた次は、お待ちかねの髪だ。真琴が受かり、水希の前に立った教師はふと首をかしげる。
「橘、お前いつもそんなんだったか?」
「……何か」
「いや、なんか幼いな」
とりあえず違反はない、と言って教師は遙の方へ移った。
教師にまで言われなければいけないのか、と水希は思いっきり顔をしかめ、今すぐにでもこのヘアクリップを外したい気分だった。
風紀検査なんてろくなものじゃない。
「もう。水希、拗ねないで」
そういってなだめてくる真琴が水希のことを子ども扱いをしているように感じるのは、気のせいじゃないのだろう。
点検を受けつつも、遙がこっそり肩を震わせていることは、隠そうとしているのだろうがバレバレなのだ。
あとで消す、と心内呟いて、水希は検査が終わるのを待つのだった。
2015/10/19