※高2
別に、猫が木から下りられなくなっていたわけではない。高いところならどこでもよかった。学校の屋上の鍵が開いていなかったから、急遽目についた桜の木をよじ登ったのだ。
「……何してるんだ」
ぱちり、目を開いて見えるのは桃色と薄い水色、それと白。ああ、下か。水希はそっと下を見て、そこにいるのが声通りの人間であったことを確認すると
「少年ごっこ」
と、対して思ってもいないような返事をした。
「お前は少女だったのか?」
「うっせロリコン」
ボケにボケで返されたため、水希の遙への返答は半ば投げやりであった。
「俺はロリコンじゃない。むしろお前がロリコンだろ」と不機嫌に遙が言うのを無視して、水希は再び瞼を下ろす。
もう十数年の付き合いになる。言い返すと埒が明かないのは自明のことなのでやめておいた。
サバヤロウめ、ロリコンでゲシュタルト崩壊してしまえ。と心内悪態づいているけれど。
「で、何してるんだ」
「おまえこそ」
「質問に質問で……はあぁ」
深いため息。
今日は遙がオトナの日だ。ああ確かに水希は少年ごっこをしているのかもしれない。頭にめんどうな、とつけてやりたい少年だ。
「……真琴が探してる」
「ふうん」
真琴が、なんて言っておきながら自分だって探していたのだけれど。
水希はどうでもよさそうに鼻先で返事をした。真琴のもとへ行く気がないだけでなく、どうして自分を探しているのかすら興味ないがないようだ。
校舎の方は賑やかだ。何せ明日の入学式に向けて、1年生の教室を新2年生の生徒たちが飾りつけしているのだから。
「……。サボり」
ぽつりと遙が言った。
聞こえていただろうに水希は何も答えなかった。
何を隠そう、水希もまたあちらの賑やかな校舎で作業をしなければいけない一生徒だ。最初の方はぼんやりと、和紙で飾りを作っていたのだけれど、あまりの単純作業と春のうららかな日差しに睡魔を呼び起こされ、真琴が忙しそうにしているのをいいことに、水希はふらりと抜け出した。
遙もまた友人に手伝いを頼まれていたので脱走猫に気付くことができなかった。
水希がいつからここでごっこ遊びをしているのかはわからないが、遙が水希を探してきてと真琴に頼まれ校舎を出たのはつい数分前のことだ。
「水希」
返事をしないし、目も開けない。でも耳は閉じられないから、ただの無視だ。
遙はすっと目を細める。いっそ、木を蹴って落としてやろうか。夏のカブトムシのように。そう思ったけれど、遙は何となく動けなかった。
こげ茶の幹に背を預け、器用に枝に腰掛ける水希の髪を、暖かい風がなびかせる。だらしなく開けっ放しのブレザーの裾がひらひら揺れ、水希の懐へ花弁がゆらゆら下りていく。
自分が見上げるこの景色を切り取ってしまえば、どこかの有名画家の描いた絵だと言っても過言ではないような気がした。
――黙っていれば、それなりなのに。
桃色がちょんと水希の前髪に下りたのを見て、遙は再びため息をついた。
「水希」
静かに胸が上下している。頭が力なく垂れているのからうすうす察してはいたが、まったく、どこででも寝られるなんてある意味うらやましい。
「風邪ひくぞ」
器用な奴、とぼやいたけれど、どうせ落ちるに違いない。
いっそ大きなたんこぶをこしらえてくれた方が清清するが、なんで起こして下してやらなかったのかと、もう一人の幼馴染に言われるのはめんどうくさい。
「水希」
再三名前を呼ぶと、水希がぴくりと動きゆっくりと瞼を持ち上げた。
眠りが深い彼のことだから、半ば諦めていた。よかった。声を少し張った甲斐があった。今日は運がいい。いや、日頃の行いがいいのだ。
「ほら。来い」
遙が軽く腕を広げる。いつもならこんなことしないが、今の彼は機嫌がよかった。加えて、胸を落ち着かせるほどの、この春の穏やかさもあるのだろう。
一通りぼうっと遙を見下ろした水希は、右目をこすって、のろのろと足を宙に投げる。
「バカ、危ないぞ」と遙が心配するのも耳を貸さず、それなりの高さはあったが、このお寝ぼけ野郎は飛び降りてきた。
顔からべしゃりといくことはなかったが、案の定ふらついた水希は、それでも運よく腕を広げていた遙に倒れこんだ。
木から下りられなくなった猫を受け止めてやったみたいだ。
頭をひっぱたいてやろうとした遙の手は途中で止まった。水希が自分の胸に顔をうずめ、すう、と穏やかな寝息を立てているのに気づいたからだ。
「……バカだな」
どっちが、とは言えなかった。
やっぱりどこででも眠れるこの幼なじみは頭がアッパラパーの能天気野郎なのだ。そしてそんなアッパラパーを可愛いと思っている自分はもっと救えないのだろう。
つくため息さえなかった。
遙は水希を抱え上げ、桜の木の根っこまで移動する。まず水希を木に任せて、それから遙も横に座った。
ひらひらと花弁が横切っていく。
あちらはまだ賑やかだ。作業は和気あいあいと進んでいるのだろう。
ちらりと校舎を一瞥した遙は、そっと水希に視線を落とした。
眠れば顔はあどけない。日ごろあんな殺人鬼のような視線を飛ばしている人間とは思えないほどだ。本当、黙っていれば母性をくすぐるのに。
ふわりと吹いた風がまたも水希の髪を揺らすと同時、遙の頬を撫でた。
きっと真琴はクラスメイトを手伝っている。手伝いながら、自分たちが戻ってくるのを待っている。
「ハルならすぐ見つけられるでしょ」という、謎の信頼とともに遙はあそこをあとにした。その言葉通り、遙はものの数分で広い学校の中から水希を見つけ出した。遙自身不思議だった。なんとなく、水希がどこにいるかわかったなんて。
「また……サバ……」
「? ……寝言か」
随分と滑稽な寝言だったが、自分の夢を見ているとわかるものだった。
――今日は、気分がいい。だから自分も後で一緒に真琴に怒られてやろう。きっと彼は日が落ちる前にここへ来て、まずは言うのだ。「そんなところで寝てたの? 風邪をひくでしょ」そして腕を組んで、サボりについて、云々。
「サバを風呂で飼うな……遙……」
水希は自分を何だと思っているのだろうと遙はほんの少し眉を顰めた。
夢の中で遙がまたも奇抜な行動に出たのか、うっと軽くうなった水希が遙の肩に顔をうずめる。強く自分のブレザーを握る手を優しく撫でてやればほんの少し頬が緩んだ気がする。
ふっと小さく笑って遙は目を閉じた。
2015/10/18