※中学生

 遅刻だ。
 遙は珍しく飛び起きて、洗面所に走りこむ。パジャマを脱ぎ捨て、下着一枚で顔を洗い、口を濯ぎ、また自室へ飛び込んで。彼らしからぬ慌ただしい朝である。
 遙の遅刻は決して珍しいものではないのだが、彼がこうも焦るのには一つだけ理由があった。
 1時間目が体育――水泳なのだ。
 嫌がる人も多々いるそれを、遙はまるで遠足前の小学生のような気持ちで昨晩から楽しみにしていたのに、寝坊したので泳げなかった、なんて結末には至りたくない。
 鳴らなかった目覚まし時計を一睨みし、制服に袖を通すと、居間に無造作に投げ捨てられていた学生かばんを引っ付かみ、遙は外へ飛び出した。
 スニーカーの踵を踏んだまま、石段を駆け下り――あと数段、というところで遙は立ち止まった。いや、どちらかというと、立ち止まらざるを得なかったのだろうか。
「……ん。おはよ、遙」
「ああ、はよ……じゃなくて」
 いつも通りの水希のせいでうっかり流されかけたが、悠々と朝の挨拶を交わしている場合などではない。何してるんだお前、と、遙は水希に怪訝な目を向けた。
 水希は、どういうわけか石段を下ったもとで、自転車をやや斜めに傾け、そいつのサドルに跨って、アイスの棒を口で弄んでいた。半袖のカッターシャツから覗く腕は、ほんのり汗ばんでいる。長いこと彼はここにいたらしい。
 遙の視線を気にすることもなく、水希はハンドルに腕を任せて頬杖を突き、読めない笑みを浮かべる。
「ハルちゃんのお迎え」
「はあ?」
 この幼なじみが、自分をハルちゃんと呼ぶときは、大抵がふざけている。遙がいよいよどすのきいた声を出すのだけれど、知ってか知らずか――いや、何も気にしていないのだろう。「見て、鳥肌」と、水希は遙に右腕を見せた。
「こんなに暑いのに鳥肌だぜ。ハルちゃんなんて、真琴もよく呼べるよ」
 この男、好きにしゃべらせていれば随分と調子に乗っていやがる。
 遙は無言で水希の元に寄って行き、後輪を軽く蹴った。危ない危ないと、わざとらしく水希が騒ぐものだから、余計癪に障るというのに。
「朝から血気盛んなことで」
「お前は随分調子がいいみたいだな」
「まあ。こんな暑い中ずーっとここにいたら、ちょっとはネジが外れるよ」
 ふと、遙は水希を見上げた。彼らが会話中にお互いの顔を見ていなかったことはさておき、そうだ、なんでこの幼なじみは自転車に乗ってぼけっとしているのだろう。
 後輪を蹴とばす足を止めて、改めて遙が聞くと、水希はやっと遙を振り返り、それからあきれ顔を作った。
「なにおまえ、聞いてなかったの? 遙のお迎えって最初に言っただろ」
 耳鼻科行く? という言葉はたいそう余計だった。いちいち一言多いのだ、本当。
「だから、その“お迎え”っていうのは何なんだ?」
「今、なーんーじーだ」
「!」
 水希がペダルを後ろに蹴った。カラカラと音がするだけで自転車が進むことはない。
 遙は妙に間延びした水希のセリフにイラつくよりも先に、自分が家から飛び出す前、最後に見た時計の示す時間と、自分が家から飛び出した理由を思い出してハッとした。
 そうだ。遅刻しそうなんだ。1時間目の水泳に間に合わないかもしれないと、慌てていたんだ。
 遙の表情の変わりっぷりに、水希は思わず声に出して笑う。それから学生かばんの中をあさって、そこから菓子パンを一つ取り出すと、顔を真っ青にした遙に投げつけた。
「どうせ朝も食べてないんだろ。ほら、早く」
 遙がちゃんとそれを受け取れるのかなんて興味がなかった――あるいは、遙なら落とすわけがないと確信していたのか、水希はアイスの袋だけが入ったコンビニのビニル袋に噛み跡のついた棒を入れ、自転車を軽く足で蹴った。
 それが何を意味するのか、普通なら首を傾げたに違いないが、遙は長いこと水希と一緒にいる。足りない言葉のせいでケンカした回数など数えきれないが、それでもお互いを理解するのは一番に優れている。迷うことなく荷台に飛び乗った遙の「ケツが痛い」という文句を聞いて笑いながら、水希はふらつく車体の舵を取った。

 いつも徒歩で登下校するこの道を、この見慣れた通学路を、たかが自転車で通るだけで新鮮に見えてしまうのだから不思議だ。
 生ぬるい風が遙の頬を撫でる。髪が伸びてきたと感じるのは、そいつに揺られた前髪が目をくすぐったせいだろう。
 遙は水希から受け取ったメロンパンを咀嚼しつつ、坂道に突入してからというもの、ずっとたち漕ぎをし続ける水希の背中を見つめる。真琴より、細いんだよなあ、この男は。長いこと一緒にいるが、「実は俺、真琴と双子じゃありませんでした!」と突如言われても、あまり驚けない気がする。
「あ」
 思わず遙は口にした。
 同じ寝坊助だろう。スラックスの裾を折り小麦の足をむき出しにした少年が一人、一生懸命に走っている。水希が迎えに来ていなければ、自分もああなっていたのだろうか。遙はなんとなく照り付ける太陽を仰ぎ、眩しさに目を細める。どんなに水泳の授業に出たいからって、ああ、途中で嫌になって歩きそうだ。
 遙たちは少年の横をすいっと通り越し、坂道を抜けた。ほんのり下り坂になったので、水希がサドルに腰を落ち着ける。
「知り合い?」
「いや」
 水希は前を向いたまま、そう、とそっけなくうなずいた。
「先生には内緒にしといてくれよ」なんて言葉が風に乗って聞こえてくる。言わずもがな、自転車通学、ましてや二人乗りのことだろう。今度は遙が笑った。
「なんでずっと待ってたんだ? 水希だけ」
「真琴は意外と薄情なところがあるから」
「水希の方が人情があるなんて、面白い冗談だ」
「揚げ足取りだな。落とすぞ」
「お前が言うと冗談に聞こえない……悪かった」
「反省してないな。ちょっと笑ってるだろ。声が震えてる」
 角を曲がるために自転車が傾く。遙は軽く水希のシャツを掴んだ。
「まあ……罪滅ぼし?」
「なんだそれ」
「こないだ遊び行ったとき、遙ん家の目覚まし壊ちゃってさ」
「は?」
「すぐに伝えたし、謝ったって。ただ、サバに夢中なおまえは多分聞こえてなかったんだろうけど」
 遙が昨晩、確かにセットしたはずの目覚ましが今朝役割を果たさなかったのは、水希に責任があったようだ。そういえば数日前、自分がサバを焼く横で、何やら水希が騒がしかったような気が、しなくもない。
「あとでネチネチ言われても嫌だし」
 その言葉さえなければ、水希に対する遙の評価はもう少しマシなもので収まっていただろうに。
 遙が眉間にしわを寄せ、軽くため息をつく最中、水希は腕時計を確認した。あと数分しかないが、もう学校は目の前だ。
「おい水希。自転車、どうするんだ?」
 ちょうど今迷っていたことを、まるで心の内を読んだかのように遙が口にしたので、水希はいささか驚いたが、「その辺に停めとく」とちょっとばかり頼りない返事をした。何せ自転車登校なんて人生初なのだ、しょうがない。
「その辺のお店の駐輪場とかさ」
「ふうん」
 無くなってても知らないぞ。遙が言うと、水希は気のせいか肩を竦めた気がした。
 また少し沈黙が落ちる。その間に遙は食べ終わった、メロンパンの包装をポケットに突っ込む。正門とは真反対の学校の裏門前で、水希は自転車を止めた。
 校舎は遠いがプールは目の前だ。よくよく見れば、校舎の方から水泳バックを肩に引っ掛けた生徒たちが歩いてきている。
 ナイスタイミング。確認してはいないけれど、あの中に真琴もいるのだろう。
「遙、水着は?」
 水希は隅の方に自転車を停めたらしい。あまり裏門は使われないので、きっと大丈夫だ。
 鍵をポケットに突っ込む彼に「履いてきた」と返事をすると、困ったように眉を下げ、「だろうな」と一言。わかっていたのなら聞かなければいいのに。
「そういう水希はどうなんだ」と、どこからどう見ても学生かばん以外の荷物を持たない水希に聞き返す。
「真琴が持ってる」
「……だろうな」
 わかっていたなら聞かなければいいのに。「ブラコン」とついでとまでにつかれた悪態にも、水希はわかりやすく顔をゆがめた。
 水希と遙の悪口の応酬は続いたが、プールの前で真琴と合流すると、その小競り合いもピタリと止まる。「間に合ってよかった」と自分のことのように笑う真琴に、2人してすっかり毒気を抜かれてしまったのだろう。
「水希、帰りも自転車?」
 今来たばかりなのにもう帰りの話をするなんて、真琴も気が早い。
 遙があきれる横で、真琴から水着の入ったバックを受け取った水希は「乗って帰ろうかと思ってたけど……」少し考えた。
「真琴、後ろ乗る?」
 えっと声を上げたのは真琴で、ちょっぴり目を丸くしたのが遙だ。
 自分から言っておいてあまり話題の中心にいる様子を見せない水希は、水着に履き替えている最中だ。「ええでも、2人乗りは怒られるしなあ……」と、頬をかく真琴は、それでもどこかうずうずとしている。
 遙は2人からふいと目を逸らして、自分のキャップとゴーグルを掴む。
「そいつ、運転下手だぞ」
「はあ? っておい、それ俺のキャップ!」
 さすがはすでに着用していただけあり、誰よりも早く着替えをすました遙が更衣室から出て行った。捨て台詞を残して、出て行った。
 聞き捨てならない言葉と、なぜか持っていかれた己のキャップに知らんふりなんかできず、棚に突っ込んだだけの制服を正しもせずに、水希が遙の後を追う。
 2人を呼ぶ真琴の声に、周りの生徒は振り返ったが、当の本人たちは少しも反応を見せなかった。だから更衣室であきれる真琴を見たのも、また遙たち以外なのであった。
「もう……ハルはやきもち焼きだなあ」
 水希との2人乗りを、遙は自分以外にさせたくなかったからあんなことを言ったんだと、真琴はよくわかっていた。だからこそのあきれ笑い。本当にあの幼なじみは素直じゃない。なんて、わかっていて悩むそぶりを見せた自分も、ひねくれているかもしれないが。
 真琴は自分のキャップとゴーグル、それと、すっかり忘れられていた水希のゴーグルを持って駆け足で2人の後を追った。
 真琴が外に出ると――――プールサイドで追っかけっこでもしたんだろう。腰に手を当てて叱りつけてくる教師に、遙と水希が身を縮めている姿が目に飛び込んできた。予想はしていたが――むしろ予想通りだからか、真琴は思わずふき出してしまう。
 怒られて小さくなるようすだけでも似ているのに、地獄耳なことに真琴の笑いが聞こえたらしい彼らが睨んでくるタイミングも、その目つきまでもそっくりなのだから、本当、仲がいいんだか悪いんだかと、真琴はますます笑ってしまうのだった。

2015/09/22