※七瀬(→)主江


 通い慣れた道。そこを歩くとき、目に映る風景は特別気にすることなく流し見る。横を通り過ぎる車の色も、すれ違う人の姿も。ふと「今まで何人とすれ違ったか?」そんなことを思っても判然としないことだってある。いちいち数えてなどいない。それだけ気に留まらないものだからだ。
 しかしもし誰かが「空を見て」と言ったのなら、素直に空を見上げるだろう。なにも考えることなく何となく視界の上部に映っていた空を真正面に、意識して見る。
 そして空がどのようであるかを知る。知ろうとする。
 なにか。きっかけさえあれば今まで特に気に留めていなかったことを気にするようになる。

 遙が家を出て石段の方に行くと、ちょうど下の家から人影が二つ出てくるところだった。
 遙と同じ制服を着た男。古くから一緒にいる幼馴染、あの家に住む双子だ。
 ふっと彼らが上を向いた。当然、二人を見下ろしていた遙とは目があう。
 反応は各人各様。遙と同じぐらい冷静な瞳を向ける水希に対し、真琴は驚いたように遙を見つめる。対極といっても差し支えない。
 ここで彼らを見下ろしているのも飽きてきた。遙は小さくため息した。一歩を出せばあとは簡単に続く。硬い階段を踏み鳴らす。
「おはよ。ハル」
「ああ」
「今日は早いんだね。何かあった?」
「別に」
 踊り場まであと数段というところで真琴が声をかけた。ふにゃりとした表情を崩さない真琴は遙のそっけない態度には慣れたふうだ。
 遙が踊り場にたどり着く。真琴の横で水希が大きくあくびしている。
「……。はよ」
「ん……。おう」
 目に涙を浮かべた水希が小首を傾げた。
 くすくすと笑うのは真琴だ。遙から挨拶をしたのがよほど愉快だったのだろう。
 遙は少し察していたがあえて触れない。
「寝不足か?」
「いや。21時には寝た」
「小学生か」
 遙の言葉に、水希はム、と眉間にしわを寄せた。
 バカにされた。はっきりわかる。
 早寝のなにが悪いのかと文句を言ってやりたかった。が、言えなかった。ゲコゲコと間抜けな電子音に気を殺がれた。ポケットにしまっている携帯電話から鳴ったものだ。
 水希は体を固めている。遙は不可解な顔。真琴は、……。
「ふっ」と、ふきだした。見逃すほど隠されたものではなかったので、水希は真琴をにらむ。
 笑われたから、ではない。彼は確信した。
「……。おまえ、知ってたな」
「ごめん。蘭と約束してたから。ふ、ふふっ」
「……」
 まだ笑いのおさまらない真琴にこれ以上何か言う気にはなれなかった。
 適当な電子音にしておいたはずだが、携帯電話のメール受信音がカエルの鳴き声に変わっていた。犯人は蘭だと真琴の発言からはっきりしている。
 びっくりはしたが怒りはない。ただ、未だに肩を揺らす真琴は癪に障る。
 水希は一度舌打ちした。
 メールを確認する。件名は空。
 “二駅前です。あと5分ぐらいで着きます”
 本文にはそう綴られている。
 わかった、とそれだけ返して水希は携帯をスラックスのポケットに滑り込ませる。
「着いたって?」
「まだ。でももうすぐらしいから、少し急ぐ」
「そっか」
 ほとんど荷物の入っていない学生鞄。持ち手を肩にかけ直した。ブレザーのポケットに手を突っ込み、ひょいひょいと、慣れた様子で石段を二段飛ばしで駆けおりる。
「また学校でね」遠ざかっていく水希の背中に真琴は声を張った。ちらと若葉色がこちらを向いた気がするが定かではない。
 さて。そんな声が聞こえた。真琴が遙を向き笑顔を見せる。
「俺たちも行こうか」
「……ああ」
 歩き出す真琴に遙も続く。
「……もう二ヶ月なんだっけ。いいよなぁ。すっごく仲良し」
「……」
 ぽつりとこぼされた言葉。先に下り終えていた真琴の横に並び、遙は彼を見上げる。
 特別日が強いわけでもないのに真琴はまぶしそうにしている。
 その瞳は似ていない。昔から、彼らは似ないところが多い。
「……渚が」ぽつり。思わず口の端から落ちた。
「渚?」
 きょとんとする真琴。
 遙の唇はかすかに震えていたが、小さな吐息とともに閉ざされた。
「……。やっぱりなんでもない」
「ええっ! あ、ちょっと待ってよハル!」
 石を踏み鳴らす。離れて行った背中を慌てて追うのは昔から変わらない。遙は同い年の弟に似てマイペースだ。
 遙にしろ水希にしろ、そろそろ協調性というものを覚えてもいいだろう。と、真琴はため息にする。伝えたって双方同じ返事をするからいつだって言葉にはしなかった。
「余計なお世話だ」と。目を逸らして、あるいは眉間にしわを寄せて。
 遙たちが学校について数分。真琴は教科係の仕事とかで朝っぱらから駆り出された。あからさまに残念そうな顔をする遙に、「その哀れむ顔やめてよ!」と真琴が叫んだのはずいぶん最近のことだ。
 それを見て遙は一つ思った。
 兄はこれだけ表情豊かなのにどうして弟の方はああなのか。負の表情だけは異常に発達しているのだけれど。
 答えはまだ出ない。
 頬杖をつく遙の前が頓に騒がしくなった。
 ぼうっと空を眺めるのをやめる。声の方を向く。前に女子生徒が三人集まって窓の外を見ている。
「あれ。あれ! 水希くんじゃない?」
「うわ! 女の子と一緒だ! 後輩と付き合ってるってマジだったんだぁ」
「そういうの興味ないと思ってたんだけどなーっ。なんか裏切られた気分!」
「でもさ、橘くんの彼女、めっちゃくちゃ可愛いよねえー!」
 “水希” その名を聞いたころには遙は窓から下を見ていた。
 暗めの赤髪。高い位置でひとつ結びされたそれがゆらゆらと揺れている。彼女はあくびをこぼす水希を見上げ、はにかんでいる。
 水希が江を見下ろす。ぽんぽんと二度頭を撫でその手で江の左手を握る。
 きゃあっと黄色い声が上がった。前方からだ。
「なにあのリア充!」
「悔しいけどっめっちゃ絵になる!」
「美男美女だもんねえ。目の保養っ」
「……」
 右から左にゆっくり流れていく声。
 遙は妙に時間をかけて瞬きする。
 江に向けて柔らかく目を細める水希、その口には笑みが乗っている。憎たらしいそれとは別。めったに見ない優しい笑みだ。
 負の表情だけは異常に発達している。と、それは間違いじゃない。双子のくせに真琴に似てない。それも、間違いじゃない。でも、彼女の横にいる彼は真琴のようである。彼らが双子なのだと痛感する雰囲気を醸し出している。
 彼女に対して。彼女にだけは、その顔をみせる。
 幼い頃から一緒に過ごしてきた。真琴に似ない彼をそばで見てきたはずだ。でも。
 知らなかった。あんな顔ができるなんて。
「……、……」
 遙は静かに机にうつぶせた。
 鼻腔から息を吸ってもうまく肺に送られない。気管を細い糸で締め付けられている。
 苦しい。……なぜ?
 目を閉じて正しい呼吸に専念する。胸に穴が空いている。得体の知れない寒気がする。
「遙」呼ばれた。どれぐらいそうしていたのか、いつの間にか黄色い声は消えている。
 遙がゆっくりと顔を上げる。
 不思議そうに遙を見下ろす若葉色の瞳がある。
「おまえと俺、日直だって」
 手には日誌。水希は遙の前の席に腰掛ける。
「俺が午前の分書くから、遙は午後の分書いて」遙の机に日誌を載せそこで開いた。遙と向かい合うように座った彼は、ペンケースからシャーペンを取り出し、自分と遙の名前を記入している。
 割り振りについて遙の意見は必要ないらしい。
 視線は合わない。遙はぼうっと水希を見つめる。
 いつの間にか呼吸が楽になっている。胸の穴も埋まっている。
 ちらりと日誌の方を見る。日付と天気、時間割が書き足されている。性格とは裏腹意外と綺麗な字を書く男だ。
 遙は頬杖をついて水希を見つめ直す。今朝の真琴を思い出した。
 正確には、真琴に言おうとしたけど言わなかった言葉だ。
「……。渚が普通マネージャーは部長とだって」
「?」
 手を止めた水希が遙を見る。
「……ああ。なんで江が真琴じゃなくて俺と付き合ってるのかってことか」
「……」
「俺も不思議に思った。誰かに褒められるような性格してないのになんでなんだろうって」
「……。性格が悪い自覚はあるんだな」
「少なくとも社会性はないってわかってるよ」
 水希が小さく笑って答える。遙を小馬鹿にするような笑みだ。
 遙はその笑みを不思議な気持ちで見つめた。
 変わった。少し前のこの男は、遙が嫌みを言おうものなら全力で噛み付いてくるやつだった。
「黙れよ」とか「おまえに言われたくない」とか、そんな言葉を、以前までは返してきていたはず。しかし今は挑発的な笑みを乗せてはくるものの嫌みを素直に受け入れる。
 丸くなった。と、言えばいいのか。
「顔、て言われた」
「は。……顔?」
「おう」
 トン、とシャーペンの先を分厚い紙の上に落とす。
 どうやら水希は今書ける分を書き終えたよう。
 柔らかな若葉色が遙の天色と交わる。思いのほか優しい眼差しで、遙は息が詰まるのを覚えた。
「顔、って……。お前それでいいのか?」
「今はそれだけじゃないって、よく言われる。し、伝わってくるから」
「……」
「確かにびっくりしたけど、顔が好きってのは別に悪い理由じゃないと思う。言われていやな気はしなかったし」
 水希はそれだけ言うと、頓にため息して机に伏せる。
 上目に遙を見る。
「……。なんか意外だな。遙とこんな話する日がくると思わなかった」
「……」
「うわっ?」
 見上げてくる眼差しが不愉快だった。
 遙は水希の頭を鷲掴みし、視線を無理やりに逸らさせた。
 水希は遙の手を叩きやめるよう促すが、特段強い反抗はしてこない。
 それがまた。
 変わってしまったこの男が遙にとって不快だった。


 今朝の不快感は起伏を繰り返している。それが疼くのは大概水希と江が仲睦まじくしているのを直接的あるいは間接的に感じるときで、鎮まるのはそれ以外。鎮まったといえど、痞えがあった。部活でプールに入っても家に帰って風呂に入ってもすっきりすることがない。
 遙は無くならない胸のわだかまりに苛立ちを覚えていた。
 確かに――彼は端正な顔立ちであると思う。わざわざ考えたことはないが、好きか嫌いかと聞かれたら、遙だって水希の顔は好きだ。
 納得がいかない。顔が好みだから付き合いたかったなんて言われて、水希はなぜ不満を言わないのか。今は、それ以外にも好きなところがある、なんて。そんなの、自分はもっと前から、…………?
 遙は不意に動作をやめた。
 口に入れる寸前だった鯖の身を皿に戻す。
 緩慢に瞬きする。
 自分はもっと前から彼のいいところを知っていた。なんて何をムキになっている? なぜ、江と張り合おうとしているのか。
 遙が思考の海に沈みかけたとき、それを邪魔するようにピンポン、と呼び鈴が鳴った。遙の返事も待たず引き戸を開く音がして「遙ぁ」と間延びした声が遙を呼び、その声の持ち主の足音は少しずつ近くなる。
 居間に続く遣り戸が開いた。
「あ。メシ?」
 水希は遙が座卓に向かってるのを見て申し訳なさそうに首を傾げた。
「別にいい」
「そっか。ごめん、おまえのタオル俺のバッグに間違えて入れてた」
 水希が手に提げていた袋を上げる。
 そういえば先日から部活で使っていたタオルが一枚、行方不明だった。どこで無くしたのかと不思議に思ったが特に思い入れもないので気にしていなかった。現に遙はそれについて水希に言われて思い出した。
「洗っといた」
「ああ」
 袋を座卓に置き、水希はそのまま台所に入った。もう一つ、タオルを入れていたのとは別のビニル袋の方が、そこに用事らしい。
 冷蔵庫を開けて中にイチゴを一パック直す水希の様子を遙はぼうっと眺める。
「母さんが遙に分けてやれって」
「……」
「八百屋で安く買えたらしいよ」
「ん。……」
 遙の生返事について水希は特に気にしていないようだ。それどころか水希は遙に全く遠慮がない。母に遙への差し入れの助言をするために冷蔵庫の中身をじっと観察している。
 しばらくして、ぱたん、と。冷蔵庫が閉められた。
 まさに勝手知ったる他人の家だ。一連の水希の様子を眺めていた遙はため息したくなる。
 振り返った水希とばっちり目が合った。水希は意表を突かれたように瞬きした。
「なに?」
 水希が軽く首を倒す。
 遙は小さく唇を動かしたが、何も発言しない。
 ただ視線は外れないので水希は思わず眉間にしわを寄せた。不穏な雲行きだ。相変わらず気が早いやつだと遙は頭の隅っこの方で思う。
「遙?」
「……イチゴ」
「は? ……? ああ、今食べるのか」
 拍子抜けしたように水希は言って、もう一度冷蔵庫を開けると今しがた直したばかりのイチゴを取り出した。
 怪訝な様子を見せる水希への対応はかなり雑なものだった。頭は少しも回っていなかったので思いついたことをパッと口にしたのだが、なんとかなったようだ。結果オーライだ。
 パックを持って台所に向かった水希を、遙はまたもぼうっと見つめる。
 この家で遙以外の人物が台所に立つのは中学生時代以来だ。学校から帰れば料理をしていた母親の背中が水希と重なって、少し、くすぐったい。
 思えば水希は高校生になってから、しばしば遙の家の台所に立つようになった。水泳部が集まったときであったり、水希単独で遊びに来るときであったり。それを遙は今まで特別気にしたことがなかったが、改めて考えると、胸がそわそわする。
 遙は立ち上がり水希の元に向かった。
 俎の上でイチゴの蔕を取っていた水希は自分の横に来た遙を一瞥する。包丁を置いた。イチゴを一つ摘む。
「ん」
「! ……」
 唇に押し付けられたそれを、遙は戸惑いがちに口に含んだ。一度咀嚼すれば甘酸っぱい味が口の中に広がる。
「おいしい?」
「……ん」
「そう」
 単調に返して、水希は指についた果汁を舐めた。
 本人はなんてない様子で行った動作だったが、遙は思いの外動揺した。あの指は――遙がイチゴを食べるとき、唇に触れたのを覚えている。
 つい「え」とこぼしてしまった声は水希に届いたらしい。水希が不思議そうに遙を見る。
 とっさに目を逸らした。
 水希は眉をひそめたが、何も言わなかった。
 ドッドッと胸の奥まで叩かれるような鼓動。遙は落ち着かない心音に困惑する。胸に手を添えて押さえつけてみるが、却って騒ぐ心臓を改めて実感するだけだった。
 水希を見る。
 一連の遙の様子を視界の隅に置いていた水希だから、遙の奇妙な行動も、送ってくる視線も気づいている。
「なに」と首もひねらず聞いた。目線は包丁を握る手にある。
「……、……」
「だから。なに?」
 鬱陶しそうなものであったが今度は目が向いた。
 若葉色の瞳。
 幼い頃から当たり前に一緒だった。喧嘩の絶えない関係でも、笑いあい、支え合い、これからも、そばに――。
「わっ。え? なに……」
「……」
 水希は遙の旋毛を眺める。
 黙って横に突っ立っていたかと思えば、今度はいきなり抱きついてきた。行動が謎だ。
「なんだよ……情緒不安定か?」
 言葉こそ面倒くさそうであったが声音こそ優しいものだった。
 遙は自分が泣いているのに気がついた。気づくと嗚咽してしまいそうだったので必死に抑える。
 水希に頭を撫でられ頬を染めていた少女が一人思い出され、それに柔らかい笑みを見せていた男が一人、浮かんでは消える。
 ああ。嫌だ――。
 遙の体が震えていることに気づいた水希は包丁を置き、遙を引っ付けたまま移動する。手を洗って、タオルで拭いた。
 なにも聞くことはない。ただ、遙の頭を撫でてやる。その水希は昔と一緒だ。気道を細い糸で絞められるような息苦しさが遙を襲う。
 どうして――今まで気づかなかったのだろう。
 好きだ。他の人になんか優しくならないでほしい。そう思うのに、それが一番の思いなのに、江のことを嬉しそうに話す水希が邪魔をする。遙は、水希にしがみつく手を、放すことも、それ以上進めることもできなかった。