リビングの机に見慣れない小瓶があった。
透明度のほとんどない青。長いキャップをつまみ、裏のラベルを見る。
マニキュア。
それ以外の何物でもないわけだが、どうしてそんなものがこの家にあるのか。
マニキュア。……。俺も遙も男だから無縁のものだ。
俺たちの周りにいる異性といえば江だけど、彼女は青色のそれはあまりしていないし、そもそもこの家に来る機会が少ない。その数少ない来訪でマニキュアを出しているのも見たことがない。
妹の蘭もまだ一度もここには来てないし。誰のだ?
「帰ったのか」
「あ。うん」
遙の声の出どころはリビングのソファだった。横になっていたらしい。
ただいまって言っても無反応だったから風呂に入ってるんだと思ってた。いたのか。おかえりぐらい言ってくれてもいいだろ。
「お前今『おかえりぐらい言えよ』って思っただろ」
「……」
いつも無表情な遙がいつになく楽しそうにしているのを見てぐっと黙った。
何十年とこいつと一緒に過ごしてきたけど、何か無駄なものを培ったらしく、俺と遙は高校時代と立場が逆転することがある。
こういう、相手をからかうのは俺の仕事だったんだけどな。むかつく。
「これ、おまえの?」
余計にからかわれるのは嫌だったので話を変えた。
遙は俺が彼に見せるものを確認すると、先ほどの愉快そうな顔を忘れてしまった。なにやらめんどくさそうな顔をして「ああ」と肯定。
なんで、とよぎった疑問は一瞬で失せる。
遙がいやそうな顔をした。反して、俺は自分がいい表情をしているのを自覚する。
「二十歳越してようやくモテ期だよな」
「やめろ。モテ期とか水希が言うと寒い」
「俺も遙の口からきくと鳥肌が立つよ」
貶されたので貶し返しておいた。
マニキュアを持ったまま遙のほうに向かう。仰向けに寝る遙の腹には旅行のパンフレットが置いてあった。この間俺がもらってきたやつだ。
ソファの少し空いているところに腰を下ろした。
開きっぱなしのパンフレット。ページは海の近いホテル。
夏だったらいいけど、秋に海はいやだ。寒い。中に入らなくても海風がきつい。
「俺、旅館がいいんだけど」
「温泉は湯あたりするからいやだ」
「おまえは部屋にあるシャワー浴びてればいいだろ」
「水希が広い風呂でくつろいでるのに俺だけ狭いシャワー室で体を洗うのはおかしい」
「ずっと思ってたんだけど遙って俺を見下してんの?」
旅館のページを開きながら聞くと、返事には笑い声が返ってきた。笑い声、っていっても鼻で笑ったやつだけど。
ため息してパンフレットをローテーブルに投げた。
「青ねえ」ぽつりとこぼしたのは無意識だった。
遙の足が邪魔で背もたれに体を預けることができないので、膝に頬杖をつく。
目の少し上で小瓶を揺らしてみる。
「お店で見かけたので、って言われた」
「へえ」
「……」
「確かに遙といえば青色って感じはわかるけど、マニキュアねえ。名前は女っぽいけどさ」
「……」
刺すような視線を感じて遙を向いた。
期待を裏切らず遙が俺をねめつけていたので少し笑う。
「怒ってんの?」
「……お前、反応薄いだろ」
「? ああ。そっち」
名前が女っぽいって言ったことに腹を立てたのかと思いきや。どうやら見当違いだったよう。遙は、遙が異性からプレゼントをもらったのに特段焦りも拗ねもしない俺が不服だったらしい。
「まあ。3回目ぐらいだしね」
ため息みたいな笑い声がこぼれた。
「……。そういえば初めてのときはかなり拗ねてたな。掛け布団のカバー裏表逆にするとかいう意味の分からない嫌がらせをしてきて……。お前、呼んでも頑なにこっちにこないでソファで寝て次の日風邪気味になってたな」
「うるさいな」
水泳以外には興味がないような顔をしてきたくせに案外記憶力がいいようで癪だ。
遙が不機嫌な様子から打って変わって(珍しくも)愉快そうにしているので舌打ちする。遙相手に言い負かされるのは嫌いだ。
「もっと明るい時間帯だったら真琴ん家に行ってた」
「やめろブラコン。真琴に迷惑をかけるな」
「仕事の打ち合わせのふりして宗介のとこに行くのもいいと思った」
「もっとやめろ」
遙が鬼のような血相をしている。
あの無表情が嫌みな顔をしたり怖い顔をしたり。良い表情とは言えないけど、遙が俺の前でそれなりに表情筋を動かしているのを見るとなかなかに愉快。
真琴の件にはあきれ顔だったけど、宗介の名前を聞いた途端かなり不機嫌だ。なんでか知らないけど俺が宗介に頼ろうとすると遙はかなりムキになる。人様に迷惑かけるなと言いたいのかなんなのか。宗介は俺と江のマネージャーだから迷惑ぐらい別にいいだろうと思うんだけど。
「遙ってなんで俺が宗介を頼ると不機嫌になんの」
「…………」
無言の遙ににらまれる。結構威圧があるので真琴だったら悲鳴をあげそうだ。
かくいう俺はこいつとは喧嘩続きの関係なので怯むとかは特にない。胸ぐらをつかまれる前までならいくらでも遙を怒らせて大丈夫だ。
遙が気にすることって何だろう。
泳ぎでは彼が一番だし、ルックスは……好みはそれぞれだからノーコメントだ。なんだかんだで俺は偏ってる。こいつに。
学力は知らない。それに今はもう学生じゃないからそんなことでは競わないだろうし。
……。
「同い年の中でおまえが一番身長低いの気にしてんの?」
「……」
「?」
「……」
遙が何も返事をしないので俺はひたすら疑問符を飛ばすしかすることがない。
性格は競うようなものじゃないし。
残されたのは頭の片隅にある幼少期の思い出だ。小学校の上級生のときか中学生ぐらいだと思うけど、遙は俺に身長を抜かれたときかなり機嫌を悪くしてた。
俺たちの中で一番背が高いのは宗介だ。次に真琴が来て、俺と凛が並んで、遙が来る。遙と俺はわずかな差ではあるけど……。
遙がもともと宗介といがみ合ってたのは知ってる。和解はしてるけどまだどこかにライバル視(みたいなもの)があって、それなのに俺があいつを頼るのが不快なんだろう。
ただ遙はそれだけでこんなにムキになるようなやつじゃないからほかに何か……と思って。
……。
これ以外思い浮かばないんだけど。……身長のせいじゃないのか?
「……素で言ってるところがますます不快だ」
「は?」
「お前のその天然ボケはそろそろ直らないのか? 兄弟そろって察しが悪くて本当に不愉快だ……」
「??」
なぜか真琴までも貶されている。ここにいないはずなのに「なんで俺が巻き込まれるの?!」て大声が聞こえた。相当だ。俺は耳の検査をしたほうがいいのかもしれない。
遙が面倒な方向に拗ね始めたので思わずため息をついた。
「まあ受け止めるしかないだろ。もう成長期は終わったんだし、身長は伸びないよ」
「ため息をつきたいのは俺のほうだ」
「はぁ? 勝手にため息すればいいだろ」
「水希がため息つくのがむかつく」
「おまえ大概俺に当たり強いよな。好きな子ほどいじめたいわけ?」
「好きじゃない」
「ふーん」
遙の早口に適当な相槌を返す。
以降、沈黙した。
「……」
「……」
「……、水希」
「なに」
「……、……。好きじゃない、は、その。うそだ」
「……」
「……」
前言撤回ってやつだ。否定の言葉はあまりに弱弱しくて危うく聞き逃すところだった。
愛想のない返事をした自覚はある。けど、バカだな。あれぐらいで俺が不安がるわけがないのに。
「うそだ」だって。ちょっと焦った声で言いやがった。ふ、……。
「遙もかわいいところあるよな。……くっ」
「笑うな」
遙にげしげしと背中を蹴られる。地味に痛い。
でも痛いと訴えたところでやめそうにない。話を変えるのが一番だろう。
「で、このマニキュアどうすんの」
「……」
蹴りがやんだ。
遙が体を起こしたようで、やっと俺は背もたれに倒れこむことができた。
もぞもぞと動いた遙が俺の膝に頭をのせる。
きれいな青色の瞳が一点にマニキュアを見ている。
「……」
「遙も少しは断る、てのを覚えたら」
「……嫉妬か?」
「はっ。都合よく解釈してどうぞ」
遙がまぶしいものを見るみたいに目を細めた。
「お前、顔はいいのに言い寄られないよな」
「喧嘩うってんの? 買うけど?」
「俺が江に見張っててくれって頼んだ」
「は? ……」
声が上ずった。
遙は相変わらず俺を見ている。
「……へえ。ふーん」
「代わりに凛の筋肉を撮って送ってる」
「おまえそれ凛に勘違いされてんじゃないの?」
「『相変わらず水希が好きだな』って言われた」
「へー……」
つまらなそうに遙は言った。
俺はずいぶん間抜けた返事をしたけど、へー、以外返事が見当たらなかった。
遙が筋肉の写真を撮ろうとする理由を凛は少し察しているらしい。長年俺たちのそばに居続けたからこそ得た勘だろう。さすがとしかいいようがない。
たまにスマホを凝視してうっとりしてたから、江も誰かと付き合い始めたのかと思ってた。そんなことなかった。なんかショックだ。
……にしても。
「おまえ、俺にさっき文句言ってきたけどさ」
「?」
「おまえもその天然ドストレート、そろそろ直せよ」
「??」
露骨に“意味不明”って顔をされて腹が立たないやつがいるなら教えてほしい。
むかついたから遙の額を小瓶で軽くたたいてやった。
おい、って低い声で言われたけど俺に謝る義務はない。
だってふつう言わないだろ。言い寄られないように根回ししてますとか、独占欲むき出しにされて、俺にどう反応しろっていうんだ。
「ほんっとむかつく……」
「? でも好きなんだろ」
「どや顔するな」
「してない。……あ」
遙は何か思いついたような声を上げ、手を伸ばす。
俺の手を包み込むようにしてきたので素直にマニキュアを渡してやる。
「なんかいい使い道でも思いついたわけ? ハルちゃん」
「ハルちゃんって呼ぶな」
いつもみたく聞こえないふりしとけばいいのに。そこだけは譲れないなんて子どもみたいだ。
薄ら笑いをしてやったら思いっきりにらまれた。
遙はソファから下り俺の足をつかむ。
「なに」
「塗ってやる」
「え、やだよ。なんで俺に使うわけ」
「なんとなくだ」
遙はなんてない顔をしている。
なんとなく、って。なんとなくでマニキュア塗られる俺の身にもなってほしい。
「男がマニキュアしてんのとか見たことないんだけど」
「よかったな。流行の先取りだ」
「流行んの?」
「さあ」
遙はすでにキャップを外してしまっている。下手に動くと変なところにマニキュアが付きそうだし、小瓶を蹴飛ばしてその辺にぶちまけたら悲劇だし。
「真琴が緑だ」
「あ?」
「渚が黄色で怜が紫。凛が赤」
「?」
「俺は?」
上目に見られて少し気おくれした。
「……青だろ」
「ああ」
優しい笑みを浮かべた遙に何も言えなかった。
何を唐突にメンバーのイメージカラーをあげて、俺に遙自身の色を言わせるのか。そして、答えてやると嬉しそうに俺の知らない女からもらったマニキュアを俺の爪に塗るのか。
「……恥ずかしいやつ」
小さくつぶやいて首をソファに任せた。
遙が小さく鼻を鳴らした気がするが定かじゃない。
本当。恥ずかしげもなくどうしてそんなことができる。むかつく。昔から腹立たしい。
本当。顔を真っ赤にしている俺が一番恥ずかしいやつだ。