初夏。鳴き止むことを知らぬ蝉。
夏休みは秒読みの段階。一学期の残り少ない昼休みを、岩鳶水泳部一行は例のごとく屋上で過ごしている。
「退屈だぁ〜〜っ!」
と、大声をあげてアスファルトに身を委ねたのはふわふわとした金髪の少年。
岩鳶水泳部のトラブルメーカーこと葉月渚だ。
渚の奇行に三人は何も突っ込まない。ただでさえ蒸し暑いのだから、日陰でなるたけ体力を使わないようにしている。
渚もみんなの無反応を気にしたそぶりは見せない。
彼は六角形の光をつくる太陽に向けて、食べかけのイワトビックリパンを掲げる。青々とした空に浮かぶ、イワトビックリパン。なんと奇妙な光景か。
「最近おもしろいこと、ぜんっぜんないんだよねぇ」
不満たっぷりな声で言って、イワトビックリパンにかぶりつく。
太陽を直視するのはなかなかの苦行だ。日差しを防ぐものがなくなったので、渚は手で目を覆った。
渚を見る真琴たちはあきれている。
「うーん。なんかおもしろいことないかなぁ……」
「……」
「おもしろいこと、おもしろいこと……。うーん……」
そろそろ怜が大きなため息をつく。
そんなときに渚は、タイミングよく起き上がった。「そうだっ」と大きな声をあげたので、真琴が驚いて唐揚げを落としてしまった。幸いにも、唐揚げの行き先は弁当箱だ。
「ね、ハルちゃん! 僕と賭けをしようよ!」
声をかけられた遙はちょうど鯖を食べやすい大きさに分け、口に運んでいたところだ。
口の寸前で箸が止まる。「……。賭け?」遙は怪訝な様子で聞き返す。
「そうそう。賭けだよ、賭け!」
渚が大きくうなずくのを見ながら、遙は鯖を口に放った。
賭け……。一体何を賭けるのか。
遙は特段渚から与えてほしいものなどない。そして、渚に与えて喜んでもらえると思うものもない。
渚には悪いが、自分が彼と賭け事をする必要性を感じなかった。
「めんどくさい。やらない」
「ええっ? ハルちゃん、そんなこと言わずにさ!」
「いやだ」
「……。ハルちゃんが僕に勝ったら、伝説の鯖缶あげるよ?」
ぴく、と遙の眉が動いた。
カンド・マッケレル・オブ・レジェンド……。
太平洋と瀬戸内海の境界で漁師に一本釣りされた、鮮度の高い鯖だけを使用した伝説の鯖缶――。それはかつて、渚が家出騒動を起こしたとき、遙を買収するために用いたものだ。
遙は目を横にそらす。迷いが見える。
乗り気だ、というのは真琴だけでなく怜にもわかった。遙は、こういう類の話では、顔に出やすい。
「……渚が勝った場合はどうなるんだ?」
「うん。僕が買ったら、ハルちゃんは僕にアイスを奢ってね!」
「……」
遙は黙り込んだ。
負けた場合は渚にアイスを買ってやらなければならない。小柄な割に渚はよく食べる。もしかすると要求されるアイスとやらは、ただのカップアイスで済まされないかもしれない。
しかし遙が勝った場合。簡単には手に入らない“あの”鯖缶が、たったの一つかもしれないが、手に入るのだ。
遙はしばらく悩んだ末、渚を疑うように見る。
「……賭けの内容は、なんだ」
「ん、うーんと……」
「やっぱり乗るんだ、ハル……」と真琴。「賭けの内容は考えてなかったんですね……」と怜。二人の胸中は呆れかえっている。
渚はイワトビックリパンにかじりつきながら、うんうんと唸る。彼の頭は“遙からアイスを奢ってもらうこと”ばかりが占めていて、何で勝敗を決めるのか考えていなかった。
クリクリとした瞳で食事を共にするメンツを見渡す。真琴も怜も、暑さにばてている。そこにない姿は……。
「あっ! そうだ」
「?」
「決めたよハルちゃん。とびっきりのやつ!」
渚が心底嬉しそうに笑う。
「内容はね……ジャジャーン! ずばり、『ハルちゃんとまこちゃんから同時に名前を呼ばれたとき、水希ちゃんはどっちに返事をするのか』だよっ」
「……。……?」
自信満々な渚に対し、遙は思いっきり首をかしげる。
思い浮かべるのは今ここにいないクソ生意気な幼馴染。彼は現在、教室で眠っている。四限の終わりから眠り始めたのだ。昼になって真琴たちが起こそうと試みたがついに起きることはなかった。
だから諦めておいてきた。遅くとも五限の途中には、お腹が空いたと言ってのそのそ起きるだろう。(ちなみに江は今日は女の子の友だちと昼食をとる約束をしていたらしく、水希同様ここにはいない)
さて、渚の賭けは、そんな寝汚い幼馴染についてだそうだ。
渚はこほんと咳払いし、補足する。
遙、真琴が水希からちょうど同じくらいの距離に立って同時に水希を呼ぶ。その際に水希がどちらへ向かうか。あるいはどちらを優先するのか。その結果を当てようということらしい。
なぜか巻き込まれた真琴が異議を唱えるが渚にまあまあと宥められる。
渚の提案を理解した遙は、呆れのため息をついた。水希が優先するのはどちらかなんてわかりきっている。
なんてったって、あいつはブラコンなのだ。
「真琴だろ」
「ふふ。じゃあ僕はハルちゃんに一票! 実行は今日の部活でってことで!」
渚の妙に嬉しそうな様子が気になりはしたが遙は特にコメントしなかった。
未だ、「俺を巻き込むなよ」と項垂れる真琴を渚が慰めている。元凶である。
じわりじわりと暑い屋上。
一連のやり取りを、怜は静かに見つめていた。
ぶっ続けで行っていた部活に一時の休憩が入る。
炎天下にさらされて生ぬるくなった水。波立っていた水面は少しずつ静かになる。
遙はプールの末端で、壁に背を預けた。
真琴たちはすでにプールサイドに上がっている。
水希は、コースロープを掴んでぼうっとその場に浮いている。まだ水中の方が涼しいからそうしているのだろう。
プールサイドの渚と目があった。パチンとウインクされた。今やれ、ということらしい。
真琴を見ると苦笑いを浮かべている。
遙は大きくため息して、水希を向いた。
「水希」
真琴と遙が水希を呼んだのは同時だった。遙の声はいささか小さかったが、水希は遙を振り向いたので届いたよう。
ただ、振り向いた、とは言っても視線を上げたときに流れで遙を一瞥したぐらいだ。
水希は真琴を向く。
「なに」と面倒くさそうに返事。渚と真琴が驚いている。
かくいう遙も驚いていた。それは水希が予想通り真琴を優先したからではない。
水希が小さくため息したのが遙には見えていた。
♯
昼休みの終わる5分前に水泳部での食事会は解散した。
一旦教室に戻った怜は、渚が席について机に突っ伏したのを見て、今しがた入室したばかりの教室から出る。
この間教室を訪ねたとき、彼は廊下側の一番後ろ。つまりは出入り口のすぐそばの席だった。
うまく、彼らに見つからず彼だけに話をできる。
先輩の彼らから席替えの話は聞かないのでまだ変わっていないだろう。
「あ!」
「? 怜」
思わず大きな声が出てしまって、他にも数名の生徒が怜を振り向いた。
階段に向かっていたところ、片手に缶ジュースを持って怜と同じ階を目指す水希と出くわした。
彼は怜が今、話に行こうとしていた人物そのものだ。教室まで行く手間が省けた。「水希先輩」怜は少しだけ声をうわずらせて彼に駆け寄る。
水希は階段に片足を乗っけたまま不思議そうに怜を待つ。
「なんか大事な用?」
「……。えっと。なんというか……」
怜は視線を落とし、自分の腕時計を見た。
水希は授業に遅れることをあまり気にしない様子でのんびりと怜を待ってはいるが、怜はそうではない。ためらって困るのは自分だ。
怜は水希を見た。
「渚くんと遙先輩が、賭け事をするんです」
「賭け事? ……ふうん。よく遙が乗ったな」
「遙先輩が勝ったら、渚くんが先輩に鯖缶をあげるみたいで」
「はっ。なるほど」
相変わらず単純なやつだな、と一言余計に付け足した水希は、しかしどことなく優しい顔をしている。
それだけで怜は、今回の賭けの勝者がわかってしまった。
♯
わざわざ家から鯖缶を持ってきてくれた渚と駅で別れた。
紙袋には高級鯖缶が5つ入っている。聞けば、遠い親戚から送られてきたそうだ。
遙は夕焼けで赤く染まった地面を見つめる。
瞼には一人の男の姿が張り付いている。
予想通りだった。遙は賭けに勝った。
しかしどうして、と思う。なぜ水希はあのタイミングでため息をしたのだろう。
「……、」
釈然としない思いを抱えたまま。遙はゆっくり帰路につく。
漣が立つ海。そちらをぼんやり見ながら歩く。どれほどそうしていたか。浜辺の方に二つの小さな影と一つの大きな影見え、その影の声は遙の聞き覚えのあるものだ。
もともとそんなに速くなかった遙の歩調はますます緩む。と、浜辺の方にばかり気を取られていたらしい。砂浜との境界線になったアスファルトの上に、男が一人。腰掛けていたことに気がついたのは、その姿が目の前に来てからだ。
「水希」ため息のように彼の名を紡ぐ。
膝の上に頬杖をついてぼんやり。寝ぼけ眼で蘭たちが走り回るのを見つめていた彼は、その瞳のまま遙を見上げる。
大きな瞬きを二度繰り返し、「遙」やっとわかったと言わんばかりの声で水希は遙に応えた。
「……。何してるんだ?」
「たそがれてる」
「は?」
「うそだよ。相変わらずノリ悪いな」
思いの外神妙な顔をする遙に対し、水希は鼻で笑った。
「家に帰った途端、蘭と蓮に駆り出された。あの様子じゃ、真琴だけでよかったと思うんだけどね」ふうとため息。
遙は水希の目がはしゃぐ三人を追いかけているのを横目に、水希の左横に腰を下ろす。ずっと水希の旋毛を見下ろすのもどうかと思ったからだ。
紙袋は自分の左隣に置いた。かさりと鳴った音。それを聞いてか、水希が遙を向いた。
「よかったな」
「は?」
「貰えたんだろ。鯖缶」
水希は頬杖を解いた。顎を刳ってさしたのは遙の隣にある紙袋。
その中身を言い当てた水希に遙は驚いた。「なんで……」ポツリとこぼすと水希は呆れ笑いをする。
「ああいうとき、真琴が譲らないこととかめったにないのにな」
「……」
たとえば同じキーホルダーに手が伸びたとき。
たとえば狭いドアをくぐり抜けるとき。
必ずと言っていいほど、真琴は他人に譲る。「俺は違うのを選ぶよ」「先にいいよ」と。
なのに今日は違った。真琴は遙と同時に水希の名前を呼んだとき、「後でいいよ」なんて言わなかった。
彼に話を聞いていたからこそ、変にモヤモヤすることはなかったのだけれど。
「まあなんでもいいんだけど。もう俺を巻き込んで遊ぶなよ」
そこまで聞いてやっと、遙は水希が“賭け”を知っていたのだと理解した。
誰かが教えた、となると……昼休みのメンツから考えればやはり怜なのだろうが。
遙にはもう一つ、あらたな疑問が浮かんだ。
「……。なんで俺の方に来なかったんだ?」
逆も然りであるが、水希は遙に対して意地が悪い。だから、賭けを知っていたのなら普通遙を負かすだろう。
遙の言葉を聞いた水希は少し目を大きくして、すぐ、眉をひそめる。
「はぁ? 遙の方に行ったら、おまえ、鯖缶もらえないだろ」
「……」
不機嫌な様子。水希は遙の発言の意図が読めていない。
遙は口を噤んだ。
つまり。水希は遙のために遙を勝たせたのだ。遙が勝てば、遙の好きな鯖缶を彼がもらうことができるから。
じわりと頬が熱くなってくる。遙は無言のまま水希から目を逸らし顔を俯ける。
渚の自信たっぷりな顔が思い浮かぶ。本来なら。今回の賭けは、遙の負けだったのだ。それを遙は今実感してしまった。
それにあのとき。
水希は、遙を見た。真琴の方が声は大きかったのに、水希は遙を先に見たのだ。
遙はきゅっと胸を握られたような感覚がして、唇をかんだ。
「渚の勝ちだな」
「あっ! ハルちゃんだーっ!」
遙のつぶやきに、蘭の大きな声が被った。
蘭の声をきっかけに浜辺にいた他の影も遙たちを向く。
夕日に照らされて大きく伸びた影。
水希が大きなあくびをこぼし立ち上がった。
「暇だろ、遙。付き合えよ」
蘭と蓮がブンブンと手を振っている。「こっちこっち!」と二人を招く声もある。
遙がぽかんと水希を見上げるのに気づいているのかいないのか。水希はゆっくりと砂を踏み、三人の元に寄っていく。
「水希おにーちゃんは休憩が長いっ!」と蘭が水希に文句を言っている。
水希は少し面倒くさそう。蓮はそわそわ、真琴は苦笑いしている。
遙も徐ろに立ち上がった。輪に加わればすぐに蓮が飛びついてきた。この可愛げを、水希も見習ってほしいものだ。
「なんか嬉しそうだね。ハル」そう言って不思議そうにする真琴に、遙は軽く鼻を鳴らした。