小学生と思わしき男の子たちが、キャイキャイとはしゃいで水たまりを踏み駆ける。
自転車を漕ぐ女性は、捲り上がったスカートを気にも留めない。
たびたび横を通り過ぎる車は、どれもワイパーを振っている。
ゴロゴロ。遠くで空が唸る。晴れているのに、泣いている。
夏だな。そう感じさせる驟雨だ。
誰も彼も傘なんて用意していなかったようで、雨宿りをするにも場所がなく、眼中には家しかない。
水希はのんびりと、波の荒くなった海を見る。いつの日かの合宿が思い起こされ自然と口が弧を描く。
あれも、1年前の出来事。怜が自分を苦手に思っていた1年前。随分と懐かしい。
また車が横を過ぎた。歩道の水希に気を遣ってくれたのか、水たまりを避けるため、大きなカーブを作っていた。
でも。水希には特にいらぬ気遣いだと思う。
シャツもズボンもすっかり濡れてしまっていて、髪の毛なんかも額に張り付いて鬱陶しい。
濡れ鼠。いつか怜が、そんな言葉を渚に教えていた。今まさに、自分がそれだ。
あの人たちのように雨の中を急ぐ気にはならない。もうぐっしょり濡れてしまった。どうでもいい。
道路を挟んだ海から視線を前に向ける。と、見知った顔がこちらを見ているのに気がついた。
ふと、目の前の信号が青に変わったのが見えた。先ほどまで視界にいなかった遙は、その反対、今しがた赤になった方の信号を渡ってきたのだろう。
買い物袋を手に提げる遙は、いつから水希に気づき、そこに立っているのか。濃い青色の傘を片手に、驚いた顔をしている。
変なの。水希は胸中につぶやいた。
遙は駅前のモニュメントの如くその場から動こうとしないので、会話のできる距離まで水希が詰めた。
「立ったまま死んだ?」
「会って早々、勝手に殺すな」
遙がムと眉間にしわを寄せる。
「買い物?」
「ああ。お前は……ついに頭がいかれたのか?」
全身ずぶ濡れの水希を見る遙はどこか愉快そう。
遙の言い回しは、出会い頭の水希のことを根に持ってのものだろう。意外と短気なやつだ。水希は口内でごちる。
家に来訪した親戚を駅まで送ってほしいと母親に頼まれ、その命を全うしたまでだ。今朝の天気予報は午後の空模様に注意と告げていたが、夕立のことなどさっぱり頭になかった。
「親戚を駅まで送った帰り。頭は、まあ……おまえよりはずっとマシだよ」
別に好き好んでこの雨の中を散歩しているわけではないのだと伝えると同時、遙への嫌みも忘れない。
「遙と俺が逆だったら、まだ違和感がなかったのにな」
水希は言って薄ら笑いする。
目に見えて不機嫌にする遙が少し面白い。
「……。傘、入れてやろうかと思ったけど。気が変わった」
「いいよ。もう濡れてるし」
水希の返事が気に入らない。遙はさらに険しい顔をする。
「駅で雨宿りすればよかったんじゃないのか」
「それも考えたけど。ほら、仕事帰りの人とかみんな降りてきて、同じこと考えるから」
つまりは駅は人でごった返し、人混みの苦手な水希としては、通り雨の中をのんびり歩く方が向いていたということか。
「……ふうん」
遙は納得したように鼻で返事をした。嫌みばかりのこの男にも、苦手なものがあるということ。それを知っている自分が少しだけ浮ついた気持ちを持たせる。
家は近所。ここで別れる方がおかしい。水希を横に従えて、遙は再び家路を辿る。
水希は何も言わずについてくる。
無言。居心地の悪いものではない。
他人の目に、自分たちの様子はどう映るのだろう。傘をさす男と、ささぬ男が肩を並べて歩いている。その姿は。
意地が悪いと思われる? 濡れ鼠を放って、ひどいやつだと。
遙は横の水希を盗み見る。
相変わらず降り続ける雨が、水希の体を濡らしている。眦に当たった雨なんかは、ゆっくり頬を伝い、水希が泣いているように見せる。
今更罪悪感が芽生え、遙は傘を傾けた。
気づいた水希が肩を揺らして笑う。
「いいよ。気にしなくて」
傘の露崎に触れ、やんわりと押しのける。その手もやはり、濡れている。
遙が優しい人であることを、水希だって知っている。気にするなと言ったところで口をへの字に曲げるだろう。
だから、こういうときは。怒らせるに限る。
「俺はおまえが理解できないよ」
「は?」
「水に触れる、って。なんか楽しい?」
水希が前方に向かって両腕を突き出す。
少し血管の浮き出た腕に新たな水滴が落ちては、皮膚を滑る。
両手を広げて、回内。手の甲を空へ向ける。
皮膚を叩く雨。冷たい水。
遙を怒らせようとしていたのに。数十分前、笑い声をあげながら走り回っていた小学生を思い出す。ああ、そうだな。少し、楽しいかもしれない。
無言の遙が怒っているのか呆れているのか、水希はなんとなく後者だと思った。
「バカじゃないのか? ……風邪ひくぞ」
「は。それこそ今更だよ」
こんなに濡れたのに、今更。風邪の心配なんかされたところで。
遙は少しずれている。周りへの気配りもなかなか、勘も鋭いかと思いきや、突拍子もないことを言ったり、したりする。真琴を悩ますストリップショーがいい例だ。
「それに、バカは風邪をひかないんだろ?」
「……」
遙は荷物を持ち直し、傘の布地から水希を覗いた。
肩。上腕部。鎖骨。
薄手のシャツはぴとりとくっつき、体のラインを浮き彫りにする。
呼吸する口。濡れた皮膚。……。
水希にも聞こえるぐらいのため息。風邪をひかないのは、自分の方だ。
雨が弱まり、黙していたセミが思い出したように鳴き始める。
家に続く石段に差し掛かる。
水希が先を行く。遙も続く。
遙の目の前。男。肩甲骨や背骨の線が、くっきりしている。
水希の上半身など見慣れたものだが、服を着た状態でのその様子は新鮮。同時、目に悪い。
帰っている途中、通行人の何人かはこの背を見てしまったのだろうか。そう思うと、少し癪だ。
「あ」
「?」
遙も水希に続いて中間踊場へ到着した。
潔く、声の出所を知る。
開いた薄萌黄の傘。その下の真琴が、水希の状態を見て、眉を下げている。
「……ごめんね、俺。さっきまで寝てて」
「? 知ってるけど」
水希は首をかしげる。眠さで不機嫌になった双子の弟妹を寝かしつけるついで彼まで眠っていたのは水希も知っていること。だから、水希が親戚を駅に送った。
遙の視線は真琴の手元に落ちる。
畳まれた港鼠。水希がさしているのは見たことがないので、きっと父親のものだろう。
真琴は、不意に目覚め、水希の所在を知り、雨の音に気づくなり、水希を駅に迎えに行こうとした。
遙はそれを察したし、水希もきっとわかっている。
「寝ててよかったのに」
「もう、水希はすぐそういうこと言う。だから素直じゃないってハルに文句言われるんだよ」
なぜか話題に遙の名前があがった。
水希が遙を向いて、鼻を鳴らす。
「一番意固地なやつが、何言ってんだか」
「……」
「ほら。ケンカしない」
小さな子供の相手をした後も、大きな子供の相手をしなければならない。真琴は世話焼きだ。
真琴の早い仲裁の甲斐あって、両者睨み合いに終わる。二人の悪口の応酬が始まることはなかった。
「早く体をあっためなきゃ、風邪ひいちゃうだろ?」
「遙と同じこと言うんだな」
もう、雨は止んだ。腕を出しても雨粒は皮膚を叩かない。
真琴も遙も気づいたのか、傘を閉じる。
セミがうるさい。石からも熱気が上がり、途端に暑さを感じる。
「ま、風邪をひいたら薄情なハルちゃんに世話を焼いてもらうよ」
「ちゃん付けするな。水希が言うと余計不愉快だ」
瞬時にそこを指摘する遙はどれだけハルちゃん呼びを嫌っているというのか。
困った顔をする真琴には悪いが、想像通りの反応を見せる遙が愉快だ。水希は小さく笑う。
「それに、薄情ってなんだ」
「入れてくれなかったじゃん。傘」
「は? それは水希が断ったんだろ」
「……くっ」
噛み付いてくる遙に耐え切れず、水希は喉を鳴らした。
からかわれていた。潔く気づいた遙が眉間に縦皺を刻む。
「すぐ拗ねる」
「拗ねてない」
「ふん」
鼻先であしらわれた。ますます不快だ。
「水希」真琴が咎める。
水希は真琴を一瞥し、吐息する。唐突に硬い布地のウエストバンドを引っ張る。ジーパンだ。そんなに伸びない。
「下着も濡れた。気持ち悪い」
「駅で待てばよかったのに」
「おまえ、遙?」
「えっ?」
真琴はぱちくりと瞬きする。真琴には水希の発言の意味がわからない。
嫌そうな顔を露骨に見せる水希が不愉快、というのはよくわかるが。見続けても説明してくれる様子はないので、諦めるほかないようだ。
「あ、そういえば。ちょうどいいや」
改めて遙を見た真琴は何やら思い出したふうだ。
「親戚からスイカと花火もらったんだ。今夜、来るよね?」
真琴はたまに、こういう言い方をする。決定事項を確認するような、ほとんど選択肢を与えない質問の仕方。
真琴の聞き方に、水希はどこか呆れた顔だ。
少しの沈黙。
遙の眉間のシワが和らぐ。
「ああ。行く」
「よかった」
真琴が目尻を下げた。
遙たちの会話が終わった途端、トントンと手首のあたりを叩かれる。真琴とは距離があるから、犯人は水希。確認するまでもない。
「また後で」
「? ああ」
それを言うために、わざわざ手を叩いて気を引いたのか?
遙は些か不審がる。けれど真琴と同様、明確な答えを得られない。答えを得ようにも、水希はすでに家に上がって姿を消してしまっている。
それを追った真琴が遙を向いて笑った。
「素直じゃないよな。はっきり言えばいいのに」
「?」
「うわ、その顔。ハルって水希?」
似たような言葉をついさっき聞いた気がする。
見えない背中を追うのはやめた。遙は思考を戻す。
“ハルって水希?”――何を言っている。真琴は頭がおかしいのか。
「その、何にもわかってないって顔、水希がたまにするのに似てるよ」
なるほど、そういう意味かと。理解し、遙は脱力する。
見せる表情が似ているかいないかは自分では確認できない。だから否定する気も肯定する気もない。
……とにかく。
「……。不快だ」
「ふふ。水希とおんなじこと言う」
素直な心情に追い打ちをかけられ、遙はますます不愉快だった。