墨で塗りつぶしたかのように真っ暗な空に、バケツをひっくり返したような雨。多分、空で習字をしていた天使がついうっかり墨汁の入った硯と蓋の開いた容器、筆を洗うために水をたんまり入れ、用意していたバケツをひっくり返してしまったのだ。
遙はだんまりとしたまま空を見上げる。それぐらい、ひどい天気である。
午前はしとしとと降る雨だった。それが、午後になればこの変わりよう。確かに天気予報士も「今日は大きめの傘を忘れずに!」なんて言っていたが、さすがにひどすぎるだろう。
遙が困り果てているのには理由があった。
傘がない。
そう、朝差してきたはずの、傘がなくなっているのだ。確かに朝の雨をしのぎ、傘立てにさした己が傘。そいつが放課後になって忽然と姿を消している。
置き引きである。理解した途端遙は無性に腹が立った。
遙の家は学校から近い。いや、家から学校が近いのだろうか。まあどちらも大差ないので今はどちらでもよいが、とにかくここから走れば何分とかからない距離だ。だからと言って、この土砂降りの雨の中を走っていこうと思えるわけがないのである。
冒頭、習字をしていた天使云々、あれについては困り果てた遙の現実逃避だ。怒りを通り越したのだ。傘泥棒よ、今すぐ俺の元に傘を返しに来れば許してやらんこともない、と。それぐらい寛容な精神になっていた。……嘘だ。一発は殴り申し上げる。だいたい、自分の不幸を他人に押し付けるな! 傘を忘れたお前が悪い! お前が濡れて帰るべきだろう! さあ今すぐ俺に傘を返し、罪滅ぼしにサバをおごれ!
「……」
なんてことを心で叫んでいても、遙はあくまで仏頂面のままである。悪天候を憂える遙は、遠巻きに見ればただのイケメンであった。
「……あれ、おまえ。帰ってなかったの」
「……」
と、不意に慣れ親しんだ声がして遙はゆっくり振り返った。そこには言葉の抑揚のなさとは裏腹、そこそこ驚いた顔をしている水希がいる。くたびれた様子でくたびれたカバンを肩に提げている彼は、そうだ、廊下ですれ違った英語の女教師にこき使われていた。一緒に並んでいた遙はそそくさと逃げ出したのだ。なのにここで出会ってしまうとは。気まずい。(ちなみに真琴は携帯を見ながら、「蓮と蘭が喧嘩してるみたいだから先に帰るね!」とまだ小ぶりの雨の中を走り抜けていった。なるほど保父さんとは大変なものだ)
「傘は?」
件については、水希からの不満はないようだった。ただ唐突に一番聞かれたくないことをピンポイントに突かれた遙は、ぎくっと体をこわばらせ、さらなる居心地の悪さにいたたまれないようすだ。「朝、使ってたよな」と、特に遙の様子を気にするそぶりも見せずに続けていた水希だが。
「盗られたのか。可哀想なやつだな」
ぼん、と傘の開く鈍い音。昇降口から一歩足を踏み出した水希の傘に、ぼつぼつと大粒の雨が打ち付ける。
こちらに蔑みの目を向ける水希を遙は負けじとねめつけた。まるで高台の上で腕を組み見下ろしてくるラスボスを睨みつける、手負いのヒーローにでもなった気分だ。
「帰ろうよ。遙」
「……だから、傘が」
「なに? 俺と一緒はいやって?」
水希が割とマジな顔で首を傾げた。
怖すぎる。お前、どこのヤクザだ。
「俺は死の二択を用意された気分だ……」
「は? ……他人の厚意に失礼だなおまえ。あーもう気が変わった。その一択、おまえのだあいすきな水に濡れて帰れば?」
「まっ、待て!」
さっさと歩き出そうとした水希を遙は慌てて引き止める。ほとんど飛び込むように傘に入ったので、振り返った水希に抱きつくような形になった。ここで尻餅をつかなかったのは本当に救われた。
「……飼い主に置いて行かれた犬か?」
「…………黙って歩け」
「うざ……」
大きめの傘といえど、それなりに体格の良い男が並べば肩がはみ出る。なんだかんだ言って遙の方に傘を傾ける水希の衣服と、袖から覗く腕はすぐに濡れてしまった。
「水希、そんなにこっちに傾けなくていい」
「俺の勝手だろ。文句言うなら遙が傘を持てよ」
「わかった。貸せ」
遙が柄をつかむ。水希は離さない。
「……身長差的にさ。大きい方が持つじゃん? 普通」
「お前、俺とお前の身長差なんかあってないような差だってわかってるか?」
「は? おまえ何センチだよ」
「175」
「真琴は183だよ」
「くっ……いや待て、真琴は関係ないだろ!」
うっかり数字だけに注目して意外と差があると地団駄を踏みそうになった。水希はそんな遙にただ鼻を鳴らした。
「まあ俺より小さいんだからおとなしくしてろよ。ワンちゃん」
「おい、俺は犬じゃない。あと不公平だ。お前も身長を公表しろ」
「177」
渋るかと思いきや、水希は案外すんなり答えた。
「……ほらみろ。たかが2センチだ」
「されど2センチってやつ」
「お前、ああ言えばこう言うよな」
「褒めてる? 照れるからやめろよ」
「真顔で言うな気持ち悪い……」
言葉の応酬では暴れまくりだが、2人は比較的静かに足を動かしている。それなのに地面に跳ねる雨水のせいで、すでにスラックスの裾は変色。びしょびしょだ。
「遙、ちょっと」
「? ん」
遙は水希に押し付けられた傘を受け取った。
水希が軽く腰を曲げて、スラックスの裾を折る。最終的に膝あたりまであがった。おおかた張り付く布地が気持ち悪かったのだろうが、なんだその、わんぱく少年のようなスラックスは。似合わない、似合わなすぎる。
「サンキュ」
「ああ」
遙は何も疑わず水希に傘を返した。後悔するのはすぐのことだ。
少し滑りやすくなった石段をのぼり終えれば愛しの我が家は目の前。鍵をかけていない正面玄関の引き戸を開けて家に入る。すっかり濡れてしまった靴下も脱いで、素足はマットの上で足踏みすればまあ許せる範囲だ。
外である程度傘の水を切っていた水希が遅れて玄関に入ってきた。傘は外に立てかけたようだ。遙を送ってすぐ家に帰るかと思っていたのだが、曰く「即行風呂にはいらなきゃ死ぬ気がする」らしい。
水希のおかげで遙は足以外は濡れていない。風呂ぐらいは貸してやることにした。
玄関マットの上で念入りに足を拭く水希を待ってやるほど遙は暇ではない。彼はさっさと、電気の点いていないリビングに歩いて行ってしまう。水希もとくに遙を呼び止めることはしなかった。あわよくば、あの暗闇に電気をつけたとたんの遙の絶叫が聞ければと思っていた。
パン! パン! と2度連続して破裂音。揃わなかったのは、『誰か』が紐を引っ張るタイミングを間違えてしまったからだろう。
「お誕生日、おめでとう!」
クラッカーの破裂音に負けないぐらい大きな声だ。ハル、ハルちゃん、遙先輩。それぞれの遙に対する呼び方と、彼への祝福が行き交う中、水希は少々火薬くさいリビングに入ることなく風呂場に直行した。
雨に濡れている間は気にならなかったが時間が経つと肌寒くなってきた。早々に風呂に入りたい。水希の頭は湯けむりをたてる風呂一色だが、湯を張っている暇などないからシャワーで我慢だ。
やっと水を吸ったスラックスから解放され、同様にシャツもカゴにぶちこんでやると、すさまじい足音がこちらに近づいてきた。誰かが走っている。実に、焦った様子で。
「水希!!」
風呂場の暖簾が上がった。頬を紅潮させた遙はひどく興奮している。
「なっ、なんだその格好?! 服を着ろ!」
「頭わいてんのかよおまえ。脱衣所に入ってきてそれはないだろ」
「そんな格好でいたら風邪引くだろ!」
まったくこちらの声が届いていない。それほど遙はなにかに動揺しているようだ。にしても、いやいや、冷えた体を温めるために服を脱いだのだ。それを遙が足止めをしているのだ。さっさと風呂に入らせてほしい。蛇足だが水希はパンイチである。
「で、なにかあったんだろ。なに?」
「! そうだ、いや、『なに?』じゃないだろ。お前、知ってたな」
遙の声は確信に満ちている。なにを? なんて聞くまでもない。リビングでクラッカーを鳴らしてきた、岩鳶水泳部の連中のことだろう。
「まあね。『なるべく時間をかけて下校してきて』って頼まれた」
水希が言うと遙はぐっと黙った。
一応のマナーを心がけたのか、腰にタオルを巻いて下着を脱ぎながら、「運悪く雑用を押し付けられてる間におまえが先に帰ったときはしくったなって思ったけど。結果オーライってやつだ」水希は続ける。
「驚いた? 渚か怜が、『ドッキリ大成功!』ってプラカード持ってたんじゃない?」
「真琴が持ってた」
「あ、そう」
「水希」
遙の声はいじけていた。どうして教えてくれなかったんだ、と。その目は確かに水希を非難している。さりとて水希は困り顔をしない。自分が悪いとは微塵にも思っていないし、別に遙だって怒っているわけではないとわかっているからだ。
「拗ねるなよ、“本日の主役”。そうだ、俺からのプレゼントは相合傘だから」
「……」
あまりに抑揚のない水希の言い方に遙は微妙な顔をする。真顔で『相合傘』とか言われても冗談なのか本気なのかわかりにくいし、反応に困るだけだ。しかも遙は表情というかリアクションというか、そういうものに乏しいのでなおさら。
「じゃ。俺風呂入るから、おとなしく祝われとけよ」
それだけ言うと水希は遙の返事を待つことはもちろん、振り返ることすらせずに浴室に消えた。
遙は釈然としないままその場に佇む。
拗ねるなよ。と。別に拗ねているわけじゃない。ただ、驚いたというか、混乱しているというか。今日が自分の誕生日であることなんてすっかり忘れていたし、まさか水泳部のメンツが勝手に家に上がりこんでサプライズを仕掛けてくるなんて、夢にも思っていなかったし。
「ああ、そうだ遙。忘れないうちに言っとく」
「?! きゅ、急に出てくるな!」
いきなりがらりと引き戸を開けて出てこられたら心臓に悪すぎる。「はいはいごめんごめん」といかにも反省してない様子の水希に、もう一言二言言いたい文句はあったのだが。
「誕生日おめでとう。遙」
へら、と笑われてしまえば先手を打たれた以外の何物でもない。情けないことに、遙はあっけにとられたまま「あ、ああ」とか、判然としない返事をするしかなかった。
「変な顔」とのコメントを残した水希は浴室の戸を締め直した。
ここにいたって仕方ない。遙は火照った顔を仰ぎながらリビングに引き返す。
そこで残っていたクラッカーを喰らわせられ、卓上のケーキが水希のお手製であること、真琴がサバを焼いてみたけど失敗したことを告げられ、怜と江が代表してプレゼント(部員でお金を出し合って買ったイワトビちゃん目覚まし)を渡してきて、遙の下校を遅らせるがために傘を盗んだ犯人が渚であることを本人が舌をぺろりとだして自首してくる未来は、遙のすぐ目の前だ。
Happy Birthday ;) JUNE 30th 2016