「やだ! 蘭も動物園行きたい!」
 ゆっくりとまぶたを持ち上げた水希が、まだ浮ついた意識の中はっきりと聞き取ったのは蘭の大声だった。
 足元ですっかり丸まっている薄手の布団を一瞥。床に足を下ろす。まだ完全に目が覚めてはいない。水希は目頭を拭いのそのそと廊下に出た。
「連れて行ってあげたいのは山々よ。でもね、蘭……」
 階段を下り終え、水希がリビングを覗くと腰を曲げた母に頭を撫でられる蘭がいた。ぷくっと膨らんだ頬は不満を表しているようだ。蘭の横では蓮がおどおどとしている。なんとなく既視感あると思えば、真琴だ。真琴もたまに、遙の横であんな風におどおどしている。
「……なに揉めてんの?」
「水希にいちゃん!」
 水希は駆け寄ってきた蓮を受け止めて抱きかかえる。蓮は今背の高い兄らに憧れているらしく、高い視界を望み、こうやって抱っこされることをねだることが多い。
 身体測定の結果から蓮の身長の推移を見るに、なんだか真琴に似た成長を果たしそうで水希は少々複雑だ。もし自分が180台にいけないまま終わり、蓮が真琴ほどまで伸びたのならそれは悔しすぎる。口に出しはしないが。
「あら、水希。おはよう」
「おはよ」
 水希は母に返事をして、ゆっくりと蘭を見る。水希と目が合った途端ぷいとそっぽを向いた蘭は随分御機嫌斜めらしい。いつもなら我先にと駆け寄ってくるのだけれど、それもなかった。
「何かあった?」水希はもう一度聞き直す。それがね、と母が切り出すより先に「蘭も動物園行きたいの!」と蘭が声を荒げた。紅潮した頬と潤んだ瞳、つり上がった眉。
 水希はうわ言のように「動物園」と繰り返した。
「……遊ぶ約束をしてたお友だちが行くみたいなの。でもお父さんは出張中でしょ? お母さんは今からパートだから、連れて行ってあげられなくて」
「……真琴は?」
「ハルちゃんと魚釣り!」
 これには蓮が答えた。
「あら。そういえば水希、今日バイトは?」
「休み。……ん、ああ。だからか」
 真琴が自分に声をかけてこなかったのは、今日はバイトだろうと気を遣ってのことだったのだろう。まあそんな配慮は必要なかったのだけれど。
 水希は蓮を抱え直し、「動物園ねぇ」とため息のように言う。
「蘭、あんまり母さんに無理言うなよ」
「……っ」
 水希のため息交じりの声に蘭の表情がぐしゃりと歪んだ。今にも涙がこぼれそうな瞳が床を向く。眉間に寄ったシワは濃い。
 母親が慌てる中、水希は蓮をおろして、特に気にした様子もなく蘭の前にしゃがんだ。目の高さはほぼ同じだ。「蘭」優しく呼びかけて濡れた頬を両手で包み込む。
「こんな蒸し暑い日に動物園は俺が嫌だから、……水族館はどう?」
「……え?」
 ぱっと上を向いた目。真琴と似た色が水希の若葉色と交わる。「あら」と母が口元に手を当てる。いいの? と言わんばかりの視線を一瞥し、水希は少し目尻を下げた。
「行くか? 水族館」
 蘭の瞳から涙が引いていく。小首を傾げ蘭の返答を待つ水希に、蘭は胸の鼓動がばくばくと騒ぎ出すのを抑えきれず、
「行く! 蘭、おにいちゃんと水族館行きたい!」
 勢いよく返事をして、水希の胸に飛び込んだ。
 首に回った小さな手。幼い体をしっかり抱きとめ、水希が笑う。
「じゃあまずは泣きはらした顔を洗っておいで」
「うん!」
 元気の良い返事をするや否や、蘭は言われた通りにするため洗面所に駆け込む。それを目で追いかけたあとも水希のすべきことは残っている。「蓮」呼ぶと蓮は不安げに水希を見た。
「ぼーっとしてないで、おまえも準備」
「! 僕も連れて行ってくれるの?!」
「なに? 蓮はお留守番希望だったのか?」
「や、やだよ! 僕も行くもん!」
 蓮はぶんぶんと頭を振って、2階の部屋へ駆けて行った。と、思いきやタタタッと水希の元に戻ってきて、
「先に行ったらダメだよ!!」
「ん」
「絶対だよ!」
「わかってるって」
 水希が苦笑交じりに頷くと、蓮がまたも駆け出して、次こそは階段を上る音も聞こえた。
 途端に静かになったリビング。やっと収まった。水希は一つあくびをこぼして立ち上がる。と、心配そうな母親と目があう。何か言いたげなので水希は首をかしげて促した。
「水希、本当にいいの? せっかくの休日でしょう?」
「ん。たまにはかまってやらないと愛想つかされそうだし」
「ふふ……ありがとう」
「別に」
 素っ気なく答えた水希が微かに笑っているように見えたのは、彼女の気のせいだったのかもしれない。
 また大きなあくびをしたあと、水希がリビングをあとにする。そう時間をおかずに「おにいちゃん! 蘭まだ準備終わってないよ!」「顔洗いに来ただけだって」なんてやり取りが洗面所の方から聞こえてきた。

 可愛らしい動物のポシェットをそれぞれ首にかけた蘭と蓮は、水希が靴を履く間にも目をキラキラさせて急かすような視線を送る。
 縦になっているリボン結びを整える水希とてその視線に気づいているがあくまでマイペースだ。急くことなどない。
「水希、本当にいいの?」
「ん……」
 靴紐を結び終えた。
「水族館の料金、高いでしょう?」
「いいって。俺が連れて行くんだし。それにバイト先でもらった割引券もあるから」
 つま先をたたきけば準備は完了だ。
 母親は、ついさっき水希に3人分の水族館の入館料を渡そうとしたのだが「いらない」と断られていた。だから、晴れない表情をしているのだ。
 水希も水希で頑固であった。何度母親にお金を差し出されようと、決して受け取ろうとしない。水族館を提案したのは自分であるから受け取りたくないらしかった。
「蘭と蓮の交通費だけで十分だって。ほんと」
「えへへ!」
 蘭がポシェットをぽんとたたいた。中には母に渡された往復の交通費が入っている。
「でも……」
 しかし母も母である。息子一人に全額出させるなんてこと、さすがに頷けない。
 水希の準備が整ったと判断した蘭が、玄関から駆け出していく。蓮は水希の手を取った。早く行こうと、急かしているらしい。
 水希は眉間を拳で押さえ、その手を母親の前に出した。
「……ん。じゃあ昼飯代だけもらう」
「! ふふ、おいしいものを食べてきてね」
 親として、子に頼られることは嬉しい。彼女の表情が晴れなかったのは、自分に少しも頼ってくれず、なんでも一人でしてしまおうとする水希に寂しさを覚えていたからだろう。
 母親は水希の拳を解いて、五千円札を握らせた。
 水希がぎょっと目を剥く。
「……さすがにこんなにいらないって」
「あらあら。みんな食べ盛りでしょう?」
「…………お釣り、後で返す」
 きっと母はお金を返しても受け取ろうとしない。それこそ、さきほどまでの水希のように。わかっていたから水希は呆れたように笑った。
 いってらっしゃいの言葉を背中に、元気よく返事をする蓮を引っ張って、せっかちな妹を追いかける。
 海の方で鳥が鳴く。日差しが強い。
 蘭はすでに階段を全て下り終えており、水希たちの姿を見るなり、早く早くと声をあげた。
「蓮もおにいちゃんも遅いよ!」
「はいはい、ごめんごめん」
「あーっ! おにいちゃんめんどくさいって思ったでしょ!」
「は?」
 水希は蘭の横に並ぶなり頓狂な声を出す。
「真琴おにいちゃんがね、『水希が2回言葉を繰り返すときって大体めんどくさいって思ってるときなんだよなあ』って言ってたんだから!」
「…………」
 水希は腰に手を当てえばる蘭を呆れたように見た後、徐に海を見た。その目は光がない。
 真琴のやつ。余計なことを……。
「……ほら。いくぞ」
「おにいちゃん、ごまかした!」
 なんと言われようがここは黙殺に限る。水希は蓮をつれてさっさと歩き出した。
「蘭、置いていくよ」
「やだ! 待ってよ!」
 水希の言葉を本気にした蘭が、慌てて2人に駆け寄った。蘭は空いている水希の腕を掴み、ひしっとくっつく。
「あーあー、暑いー」
「やだやだ! 離れないもん!」
 余計ぴとりとくっついた蘭。
「僕も離れないーっ!」
 蓮も便乗した。
 両腕に頬ずりさえされる水希は鬱陶しそうに眉を寄せる。
「暑いってばおまえら……」
 それでも水希は2人を振り払おうなんてこと、しようとしないのだけれど。
 バス停に着いた。日傘をさした老婆がいるぐらいで、ほかに人影はない。水希は時刻表を指で辿り、腕時計と照らし合わせた。乗る予定のバスはもうじきくるようだ。
 容赦なく照りつける日差しが額に、首に、汗をかかせる。水希はしゃがみこんで、蘭の帽子の鍔をあげた。
「暑いな」
「うん……」
 蘭の額に浮かんでいた汗をタオルで拭ってやる。それが済めば、蓮にも同様のことをしてやる。
 先に暇になった蘭がきょろりと辺りを見渡せば、ニコニコとする老婆と目があった。蘭は軽く会釈した。
「おにいちゃん! バスきたよ!」
 蓮の声に蘭もつられて道路を見た。
「12番じゃなくて16番だよ。蓮」
 蓮が指差すバスは目的地に着かない。蓮は驚いたように水希を見上げる。暑さにばてた瞳が遠い海の方を向いていた。
 そっと手遊びして、蓮は眉を八の字に下げて言う。
「水希にいちゃんは、暑さに弱いよね」
「……そうだね。いつか溶けるかもな」
「おにいちゃん溶けちゃうの?!」
 弟妹の声が揃った。
「……冗談だよ」
 プシューと音を立てバスが目の前に止まる。ブザー音の後開いた扉。座席はぽつぽつ空いている。老婆が乗りこんだ。
 ドアが閉まる旨のアナウンスが鳴った。
「あ」
 水希の言葉がどうも信用ならなず、蓮と蘭はジと水希を睨むように見ていたが、水希の声につられて道路の奥を見る。近づいてくるバスが掲げるのは16。アクアパーク行きとも書いてある。
「バス来た!」
 蓮がはしゃぐ。次こそは正解のバスだ。一つ前のバスが去ったとたんにそのバスは水希たちの前に停まる。
 蓮と蘭は我先にと、扉を開いたバスに駆け込んだ。中にはそれなりに人がいる。後ろの方もぽつぽつ腰掛けており、3人で座れるような席はない。蘭たちは整理券を取る水希を待った。
「あっち」
 水希が2つ前後で並んで空いている1人掛けの席を指差す。2人は大きく頷く。
 蘭が前、蓮が後ろに座った。水希は蓮の隣に立ち、手すりを持った。
「ねえおにいちゃん。ペンギンさんはいるかなあ?」
「ああ。いるよ」
「クジラは?」
 蘭に続いた蓮の質問に水希は目を瞬いた。
 バスが動き出す。
「……クジラはいないかな」
 思わず苦笑いがこぼれた。


 空はすっかり茜色に染まっている。1人2人と人がいるバス停には、帰りのバスを待つ水希たちの姿もある。
「おにいちゃん、バス、まだ?」
「んー……」
 水希は時刻表を見たあとに道路を見、まだ自分たちの待つバスの姿が見えてこないことを確認する。「遅れてるのかもね」言うと蓮は水希の方に凭れ掛かった。
「……おにいちゃん」
「眠いの?」
「……うん」
 蓮が目をこする。
 蘭をちらと見て、水希は仕方なしに腰を曲げ、蓮を抱きかかえた。水希の首筋あたりに頭を凭れた蓮がすぐに寝息を立て始めた。
「蘭は?」
「……蘭は、大丈夫だもん」
 彼女の目は蓮と同じぐらい眠たさを訴えている。しかしお姉さんぶりたいお年頃なのだろう。水希はほんの少し口元に弧を描き、蘭の手をとった。
 シューッと音を立て彼らの前にバスが停まる。待っていたバスだった。
 蘭は行きと同じような席に座り、水希も蓮を抱えたまま蘭の横に立った。
「……あのね、おにいちゃん」
「ん」
「蘭、家に帰ったらお母さんにごめんなさいするの」
 蘭は、手遊びし、足をぷらぷらと揺らし。落ち着かない様子で首にかけたポシェットをいじる。
「……偉いな」
 水希は蘭の頭を優しく撫でた。
 蘭は長い髪で自分の顔を隠しながら、小さく頷いた。
「あとね、おにいちゃん。今日は……、ありがとう」
 尻窄まりになっていった声。蘭は自信なさげに水希を見上げる。
「……どういたしまして」
 優しく目を細め、口元に弧を描き。柔らかな声音で言う水希など、きっとこの弟妹以外誰も見ることができないのだ。
 蘭はへにゃりと表情を崩し、照れたように笑った。
 バスが目的地に着く頃には蘭もうとうとと船を漕ぎ始めていた。なんとか蘭をバスから降ろしてから、水希は蘭のことも抱きかかえる。はたから見れば休日の父親のような光景である。真琴ならもっと軽々とやって見せるのだろうと思うと少しやるせないが、水希はゆっくり歩き始めた。


「ただいまー……ん?」
 真琴は玄関の異変に気がついた。靴が、散らばっている。水希のは片っぽがヘンテコな方向を向いているし、蓮と蘭のに至っては、まるで放り投げたかのような状態だ。
 やんちゃな弟妹はともかく、水希が靴を揃えていないなんて珍しい。靴を1つ1つ整えて、真琴は家にあがった。
 リビングに入るとそれは真っ先に目に飛び込んできた。ソファの上でタオルケットをかぶって眠る蘭と蓮。その真ん中で腰掛け、2人に膝枕を提供しながら眠っている水希。
 しばらくぽかんとその光景を眺め、おもむろに表情を緩める。
「……ふふ。仲良しだなあ」
 真琴は一度リビングを出てタオルケットを取ってくると、水希にもかけてやった。それから3人を起こさないように、そろりそろりと歩いて行って、玄関まで戻ると、釣り道具の片付けを始める。
 今日はいつもより大きな魚が釣れた。はやく3人にも自慢したいのだけれど、今は我慢だ。
「……日頃からあれぐらい優しければいいんだけどな」
 2人に挟まれて眠る水希の優しい寝顔を思い出し、真琴はため息をついた。