周りの賑わいが遠くに聞こえる。暖かなオレンジ色をした照明に照らされ続けた顔は、心なしか少し赤い。「……」水希がぼんやりとした視線を上げた。
「お。なんだ橘」
「……せんぱい」
「あはは、呂律回ってないし。物欲しそうな顔してんなあ」
ずっと横から伸びてきた手を、水希は鈍い動きで払う。
「随分ご機嫌斜めだなあ」
「……」
「睨むなって。ほら、飲ませてやるから機嫌直せよ」
「ちょっ……!」
水希が一切手をつけようとしなかったグラスを取って、水希の口に無理やり押し付ける。すでに半分以上なくなっていた中身は、急に傾けられてほとんどが水希の口に入ることなく、彼の顔や服を濡らす。
無理やりなそれのせいで液体が気管へ入ってしまった。咳き込む水希を笑いながら男はグラスを机に置いた。
「はは、橘、顔射されたみたいじゃん」
「げほっ、ほん、しね……っ」
「あー。先輩に向かって礼儀がないなあ」
言葉とは裏腹、ケラケラと笑いながら男は自分のグラスを煽る。
「にしても橘さあ、それ酎ハイだよ?」
おしぼりで汚れた肌を拭いていた水希の手が止まった。
とある先輩ユニットが、水希たちを飲みに誘ったのはこれで5度目だった。4度目までは適当な理由をつけて断っていたのだが、今回は江の方に話が入ってしまったらしい。断り切れなかったのだろう。結果として水希はこの場にいる。
その江もつい数十分前まではここにいた。彼女に関しては、男しかいないこの場に、しかも酒を交わし合う男たちの輪にいるのはまずいだろうと判断した水希が、凛に連絡して回収させた。
そのタイミングで水希も帰ることができればよかったのだが、そうは問屋が卸さない。江の離脱を認める代わりにお前は残れと言う尾賀(先輩ユニットのリーダーだ)と、水希が極度に酒を拒むことを知らない凛のダブルパンチだ。水希に救いの手は差し伸べられなかった。
江がこの場を去ってからは水希への集中攻撃が始まる。極度に酒を拒む水希に面白半分、すでに酔い始めていた彼らは酒を勧め出した。数分前までは平和に、ちょびちょびとソフトドリンクを飲み進めていたのに。これだから飲み会は嫌なのだと水希は心内苦い顔をしながら、かといって仕事の先輩相手にあんまり派手な真似をすることもできず。ひたすらに苦しい時間を過ごしていた。
どうにかこのまま逃げ切れないかと算段していたのだが――
「橘、ほんと弱いんだな」
「……さわんな、うっとうしい。……です」
「はは。素がでてるじゃん」
またもこちらへ伸びてきた尾賀の手を拒んだ水希は苦虫を噛んだような顔をした。
水希のソフトドリンクを酎ハイのグラスと入れ替えたのは言うまでもないだろうが尾賀だ。水希にも少し心当たりがある。「橘のグラス空じゃん。飲み物、頼んでやろうか?」そう聞いてきた彼に、江をどう逃がそうかと思案していた水希は、ぞんざいに頷いてしまったのだ。まったく軽率であった。
退路探すことにばかり気を取られすぎていたこともあるだろうが、恐ろしいことにほとんどジュースと変わりなかったので少しも気付けなかった。まだ遙曰くの「悪酔い」の域には達していないようだが……思考は鈍り眠気が強い。なんていうザマである。
「まあまあ、もう飲んじまったんだからいつまでもむくれてたってしかたないだろ? これを機に酒に耐性つけろよ、ほら」
「やめろ。……やめてください」
尾賀はやはり面白がってケラケラ笑った。
水希はチと舌を打った。
頭と口が直結してしまっている。これもなかなか大変な事態だ。が、遙の機嫌を最低まで引き下げる「悪酔い」よりはまだマシの範疇なのだろう。「悪酔い」が発動する前に、早くこの場を逃れたい所存である。
「おーい。尾賀! ちょっとこっち来いよ」
「はあ? なんだよ」
「そんな不機嫌な顔するなよ。誰も、お前が少し離れた間にお前のお気に入りにちょっかいかけたりしねえって」
尾賀はジと水希を窺う。
水希は辟易したように目をふいと逸らした。
尾賀が鼻を鳴らした。「へいへい」と、あたかも気だるそうな返事をして立ち上がった。
やっと解放された。水希の胸を占めたのはほかでもない安堵であった。深いため息をついて辺りを見渡す。
ワイワイと騒がしい賑わい。その様子見ていると、どうしてか自分だけ世界からはじき出されてしまったかのような寂しさを感じる。
「……」
水希は俯きがちになる。
――人恋しい。
そっと、指先で唇を撫でる。無意識であった。
そんなとき、頓に周りはざわめきだした。先ほどから騒然としていたが、それとはまた違う雰囲気である。何かに、驚いているようであった。
ざわざわ。しばらく続く落ち着かない雰囲気だが、水希は顔をあげてまで確かめようとは思えなかった。
「水希」
名前を呼ばれた水希はおもむろに顔をあげ、腰を曲げて自分の顔を覗き込むその人物を認めると、ゆっくりと瞬きした。
「……、……」
彼の名前を紡ごうとしたが、突然の彼の登場に水希が思ったより頭はついてきていないらしい。口がうまく回らなかった。
そんな水希の様子を見ていた真琴は苦笑いをこぼした。
「江ちゃんから連絡が来たんだ。水希を迎えに行ってやってほしいって」
「……こう」
「うん。ハルはロケだから家にいないだろ? だから、俺。ごめんね」
「? ……」
ごめんね、と。唐突に出てきた謝罪に水希は首を傾げたが、その意図を理解した途端に不機嫌な顔になる。
遙は屋外撮影のため、今家を留守にしている。だから遙は水希を迎えに来られない。その代役できた真琴だが、水希は真琴に迎えに来てもらうより、遙がよかっただろうと。つまり真琴は水希をからかったのだ。
「冗談だよ。睨むなって」
「うざい」
「ん。よしよし」
口では言いつつ真琴の胸にぽすりと倒れてきた頭を真琴は優しく撫でる。もともと水希が大人数で和気藹々とする場が好きでないことを真琴は知っている。今回もだいぶ神経をすり減らしたのだろう。想像に難くない。だからこそ、真琴は水希が口悪く罵ってこようと優しい手つきで彼を労わるのだ。
真琴は横の男に声をかける。話はもうつけてある。
「すみません。水希の分、出しておきます」
「ん。ああ、いいよ。橘、あんまり食べてないし。それに橘の分は尾賀が出したいって」
「えっ。いや、それじゃ尾賀さんに悪いので……」
真琴は水希を一瞥した。
「兄弟揃ってお堅いねえ。じゃあはい、2,500円。お願いします」
「はい」
自分の財布から指定された金額を出して手渡しする。きっちりいただきました、と冗談めかして笑う彼に合わせて、真琴も笑った。
尾賀に悪い。半分は本心から。もう半分は口実のためだった。
尾賀が水希の分の支払いもしたかったのは、それを後々交換材料に持ってこようと目論んでいたからだと、真琴はあの一瞬で理解した。それを敏感に察することができたのは、「尾賀先輩、飲みの誘いがしつこい」と、水希が愚痴をこぼすのを何度かなだめたことがあるからだ。
水希を立ち上がらせる。そうすると水希は、真琴の手に自分の手を絡めた。迷子の子供のような、不安そうな目をしていた。
「どうしたの?」
「……真琴」
「大丈夫だよ。もう帰れるから」
「……」
水希は小さく頷いた。それでも、真琴の手を離さなかった。
真琴たちにとっては都合よく、尾賀は席を外していた。
何かあったときのために、と。真琴は遙から家の合鍵を渡されている。これについては水希も積極的に肯定した。
何かあったときの何か、とは。まさか痴話喧嘩じゃあるまいなと2人をからかったのは記憶に新しい。とは言いつつもこの合鍵を使う日は来ないだろうと、思っていたのだが。
「おじゃましまーす。ほら水希、ついたぞ」
「ん……」
とんとん、と水希の背中を叩いてやる。
水希は靴を脱ぎ、ゆらゆら、安定しない足取りで部屋の中へと進んでいった。
真琴はドアを施錠し、水希の後を追う。
「水希。お風呂はどうする?」
「入る……」
「じゃあ沸かすね」
「……」
「ん? なに?」
ジと見つめてくる若葉色。
「……別に」
ふい、とそっぽを向いて水希はリビングのソファに横たわった。
全然「別に」なんて顔ではなかったが、わざわざ引き止めて聞くまでもない。昔からの「眠たさから誘発される甘え癖」だろうと納得して真琴は水希に背中を向けた。栓が閉まってるか確認しなければならない。目的地は浴室だ。
真琴が浴室から戻ってくると、水希は意外にも起きていた。てっきり眠りについてしまったものだとばかり思っていたので、真琴は不意を打たれた。
遠い目をする水希が睡魔と格闘しているのは確かだ。真琴はゆっくりと水希の方へ近づいて行ってソファを沈ませた。
見計らったかのように水希の頭が真琴の肩に落ちる。
「どうしたの?」
「……」
ぽん、ぽん。間隔をあけて頭を撫でてやる。さらりと前髪が落ちたせいで、ただでさえ伏せ目になっていた水希の瞳は見えなくなる。真一文字に結ばれた唇はものを紡ぐ様子がない。
「相変わらず眠いときは甘えたなんだね。ふふ、変わらないな。なんか……安心した」
「……うるさい」
「でも、今の甘えたはそれだけが原因じゃないだろ?」
「……」
水希は微動だにしない。
「ほんと、ハルがいないとすぐ弱るよな。水希はさ」
「……だから、うるさいって」
「いてて」
と、声にしてはみたが、真琴の手の甲をつねる水希の力はそんなに強くなかった。
「ちょっとした旅番組の収録だっけ? あ、あと続けて他の撮影も入ってたよな」
「……、……」
水希は機嫌悪そうに真琴をねめつけた。やっと反応を見せたかと思えば、これだ。それでも真琴は気にせず話を続ける。
「明後日には帰ってくるだろ?」
「……わかってるよ」
ため息まじりの、くたびれた声であった。
真琴は不意を打たれたように水希を見下ろした。
「わかってる」
まるで自分自身に言い聞かせているようだった。
最初よりさらに俯いてしまっていた。やはり、表情は見えなかった。
真琴が心配そうに眉を下げる。遙が家を空けて、まだ3日と経っていない。なのに、どうしてそんなに水希は参っているのだろう。
少し問いかけてみようと――しかし出鼻を挫いたのは電子音。静かな空間に突如鳴り響いた音に、真琴は情けなくも肩を跳ね上げた。
「あ……。お風呂」
「……」
水希がふらりと立ち上がって、頼りない背中を真琴に向けた。風呂に入るようだ。
真琴はその背にかける言葉を見つけられなかった。水希の姿が見えなくなってから、困ったように頬をかいた。
真琴は自分の体がびくりと揺れ動いたのに驚いて目を覚ました。どうやらうたた寝をしていたらしい。水希を待っている間にこうなってしまったようだが、真琴自身、意識を失うまでの記憶がなかった。
真琴はポケットからスマホを取り出して時刻を確認する。この家に着いてからおよそ40分経っていた。だから、水希が浴室に行ってからは約30分ぐらいだろうか。
ぐるりとリビングを見渡す。ここに来てから何か変わった様子はない。どうやら水希は戻ってきていないらしい。遙ならともかく、水希にしては長風呂ではないだろうか。
まさか。
睡魔にほぼ負けていた水希を思い出した真琴は急に落ち着かなくなって、慌てて浴室にかけて行った。
洗濯機の縁にはつい先ほど見た衣服が引っかかっている。「水希」と、真琴は浴室の扉越しに呼んだ。
「水希、大丈夫? 起きてる?」
待てども待てども、返事はなかった。
じれったさに加え、不安が広がり焦りが募る。真琴は思い切って浴室の戸を開けた。勝手に入ってくんなと怒られるだろうが、もし、風呂で眠りこけて溺死なんかされたら、笑えないのだから。
踏み込んだ先で湿った空気が真琴の頬を撫でる。
真琴が真っ先に確認したのは湯船で寝息を立てている双子の姿だった。胸を緩やかに上下させ、気持ちよさそうに眠っている。あまりにも平和な様子に、いっぺんに肩の力が抜けていった。
「こら、水希。風呂で寝るなって」
「……」
真琴がぺしぺしと頬を叩いてやると、水希の眉間に縦皺が刻まれる。
水希は一度眠るとなかなか起きない。それを真琴は知っているので、「水希」と何度も呼びかけ、間を取りながらも、繰り返し頬をたたく。
それが、何度目になったのか。
「水希ってば」
真琴がため息をつき、手を遠ざけようとした、そのときに。水希が、頓に真琴の手首を掴んだ。驚きの声を真琴があげるよりも先に、水希は真琴の手をぐんと引っ張り、「しつこい」と一言。べろり、と。真琴の手のひらを舐めた。
「うひゃあ?!」
思わず上がった情けない声。それに満足したかのように、水希は寝起きの目を細める。
真琴は思いっきり手を振り払った。
「おい! 水希っ」
「なあ、おれ、いつまで我慢してればいいわけ?」
「はぁっ?」
顔を真っ赤にして怒っていた真琴は、声を裏返す。
「教えてよ。いつまで“待て”なの」
ゆっくり体を起こした水希は、浴槽の縁に手をかけて身を乗り出す。
動揺する真琴の額にあったのは、少し湿ったものだった。
「……ねえ」
こつんと当たった額どうし。鼻先さえぶつかる近距離で、相手の瞳に映る自分が見えさえするこの距離で。真琴が見たのは寂しそうに笑う水希と、言葉にしがたい表情をした自分自身であった。
「はやく。おれに構ってよ」
「……、……」
「待てはきらいだよ」
はたと、水希の瞳が眠たそうにとろけ出したことに真琴は気がついた。もしかして、と思うや否や水希の頭がゆっくり下り始める。
「……遙、……」
ほとんど蚊の羽音程度の声でその名を呼んだかと思えば、次に水希から聞こえてくるのは穏やかな寝息であった。
浴槽の縁に凭れ、眠りについてしまった水希を、真琴はしばらくの間呆然と眺めた。それからじわじわと。首から耳まで顔を茹で蛸のように赤くするのである。
真琴は「遙」ではないが、「遙と水希」を知っているからこそ。
「……水希、ハルのこと好きすぎるだろ」
普段はつんけんしているくせに、本当は大好きすぎてしかたないのだろう。片時も離れたくないほどの思いを寄せていやがる。まあ、そんなこと。真琴は知っていたけれど。
「そんなに寂しいなら、電話でもすればいいのに……」
大息して肩を竦める。こればっかりは自分が口を挟んでもどうにもならない。遙にしろ水希にしろ、変なところでプライドが高いのだ。
さて。真琴は水希の肩を揺する。もう一度水希を起こす必要があるからだ。真琴の目的は浴室で寝る水希を起こし、引っ張り出すことなのだから。
先ほど急に目を覚まして(といっても寝ぼけていたようだが)から時間はそう経っていない。1度目に比べれば起こすのは難くないはずだ。
その予想通り、真琴が肩を揺すり始めてすぐに水希は目を開いた。ぼんやりとした若葉色が真琴の目を見つめる。
「……」
「起きた?」
「……」
水希はぐるりと辺りを見渡した。それが一頻り続き、
「ってちょっと! 待って! 俺外に出るから!!」
「うるさい……」
「ちょっ! 前! タオル!!」
ざばりと水をあげ、浴槽から出てくる水希は当たり前だがなにも身につけていない。
風呂にはまだそんな気力があったらしい水希が入浴剤を入れていたので、水が濁りいい目隠しになっていたが……。
「いまさらなんだよ……」
「もう、水希っ!」
真琴が怒鳴る前を、水希は素っ裸で通り過ぎて行った。
ぱたんと浴室のドアを閉められた真琴は、もんやりとした空気を持ったそこでため息をついた。風呂に残されたってすることがないのに。
兄弟だからとか、男同士だからとか。そういう話ではなく。マナーだ、マナー。……本当、付き合っていると言動が似てくるものだ。周りに無頓着なところは誰からうつったんだか。
ちなみに、真琴が浴室から出ると水希はすでにいなくなっていた。
「帰るよー?」
真琴が寝室のベッドで横たわっている水希に声をかける。水希は頭にタオルを被せ俯けになっている。もう聞こえていないのだろうか。寝ているのなら無理に起こすことはないと、真琴は思ったが……そういえば水希は髪を乾かしていないと気づき、お節介に火がついたと言えばいいのか。
今日だけでなんどもお世話になっている浴室に行き、ドライヤーを手にとって、寝室に戻る。水希は依然変わらぬ姿だった。
「水希。髪、乾かそう」
「……ん」
もぞりと寝返り。それからしばらくして、水希はやっと上体を起こした。
寝起きの顔というのは、目が完全には開ききらないので、どこか不機嫌に見える。水希が真琴を見る目つきは少々機嫌悪そうだ。
近くのコンセントにプラグを差して、真琴もベッドの上に乗る。男2人分の重みにベッドマットが軽く沈んだ。
電源の入ったドライヤー。真琴が水希の髪を梳かす手つきは優しい。
「……」
「……水希は、ハルに電話しないの?」
起動音が邪魔をして聞こえづらかったが、全く聞こえないほどでもない。水希は垂れていた頭をあげ、「……なんで」と。拗ねた子供のような声音であった。
「なんでって。ハルがいなくて寂しがってるだろ?」
「寂しかったら、なんで電話しないといけないわけ」
「……」
ムッと無愛想な顔をする弟は、昔からそうだ。遙のこととなると妙に意地っ張りになる。
真琴は言葉を選んだ。
「ハルも、寂しがってるよ。きっと」
濡れていた髪はだいぶ水気を失った。ドライヤーの電源を切ってしまえばこの部屋はやけに静かであった。
「聞きたがってると思うなぁ。水希の声。仕事中もよく、俺に水希のこと話すし。今回はだいぶ長い時間離れてるから、ずいぶん堪えてるんじゃないかな」
ゆらりと自分の方に向いた若葉色。そいつは真琴の言葉の真意をうかがうようにじっと真琴を見つめている。
「だから、ね」真琴は一度水希の頭を撫でてやり、純粋な微笑みを返した。
♯
時刻は午前1時になろうとしていた。
収録と明日のミーティングを終えた遙は、念願のシャワーを済まし、いつもよりも随分と遅い就寝を迎えようとしていた。
ガシガシとタオルで押さえつけた頭をかいていたときに、そいつはヴーヴーと鈍い声をあげたのだ。
シャワーを浴びる前に投げおいたそれは、ベッドの上で唸っている。こんな時間に誰だろうかと、遙は怪訝な顔をしながらスマホを持ち上げた。
「! ……」
表示されている名前に眠気が半分ほど吹き飛んだ。いったい何の用だとか、そんなことを考えるよりも先に……というより、ほぼ反射だ。遙は何も考えずに電話を取った。
「どうした?」
「……」
「……?」
声は一向に聞こえてこない。まさか切れてしまったのかと思い、耳から離して画面を見る――と、通話時間が刻々と刻まれている。切れてはいないようだ。
「ああもう、ほら水希! なんで寝てるんだよ……」
「は?」
「電話繋がってるだろ? 水希、寝るなよ、水希ってば、もー……」
電話口から少し離れたところから聞こえる声は真琴のものであった。
電話の向こうは一体どんな状態なのか。遙が不可解な顔をする。そうしているとガサガサとノイズが入って、
「もしもし。ハル?」
「……ああ」
「ごめん。水希、また寝ちゃったみたいで」
「また?」
「うん。……ああ、ほら。水希、とうとう逃げられなかったみたいなんだ。誰だっけ、あの……」
「ああ。尾賀さん」
「あ、そうだ。尾賀さん」
遙たちにとっても先輩にあたる尾賀。彼の水希への執拗な飲みの誘いは、遙もまた知っていた。
だから、真琴が水希と一緒になった話の流れはだいたい掴めた。その断れなかった飲み会とやらで水希は酒を入れられたのだろうと。真琴は回収役にあたったといったところか。
1つ解決したところで、遙には別の不安が浮上する。
「その、……真琴」
「ん? ……ああ、大丈夫だったみたい。無理やり飲まされた後も、なんとか抵抗できる程度には保ってたよ」
「そうか……」
水希が酒を飲むと「枷」が外れる件については、真琴には話してあった。
遙は胸をなでおろした。安心の反動というべきか、ぽすんとベッドに腰を落とす。電話の向こうで真琴が苦笑いしているのが伝わってきた。
「……それで、水希の用はなんだったんだ?」
「ん? んー、ふふ」
「? なんだ、気持ち悪い……」
「失礼だな!」
だって突然声音を柔らかくして笑いさえするのだ。気味が悪い以外、遙が思うことはなかった。
真琴の怒る声のあと、続く文句がない。代わりに聞こえたのは、「あれ。水希?」と。真琴が水希を呼ぶ声であった。
「起きたの? えっ、なに?」
真琴の声が少し遠ざかった。遙の目の前にはどこにでもあるようなホテルの一室が広がっている。声の聞こえにくくなった真琴が見ている光景は見えない。
「遙」
ちょっとかすれた声。遙はゆっくりと瞬きした。
「水希、か?」
「ん。……真琴が、遙が寂しがってるから電話してやれって」
「……」
「べつに、俺がおまえの声聞きたかったからとかじゃない」
なんというか、典型的だ。
「……そうか」
遙は自分の声が随分と優しいものだったことに気がついて、少しだけ気恥ずかしかった。
「今日、尾賀さんに飲まされて」
「ああ」
「あの人ほんとう、いやだ。先輩だかなんだかしらないけど、早く引退すればいい」
「……聞かれたらまずいぞ」
言いつつ、遙は軽く笑った。
酒が入り、さらには眠たさから思考は鈍っているのだろう。「遙」、もう一度遙の名を呼ぶ水希は、どこか気が緩んでいて。
「どうした」と聞き返す遙もまた、油断していたのだ。
「会いたい」
「、……」
「電話したら、本当に我慢できなくなるからって。思ってたのに。……なあ、遙。おれ、ちゃんと待て、してるから、…………」
待てども待てども――続きはなかった。そのうちにまた電話を動かす音が聞こえて、「終わった?」と、真琴の声に変わった。
遙は、おもむろに目を伏せた。
「……ああ」
「よかった。ふふ、水希、ずいぶん落ち着いた顔して寝てるよ」
「……」
「ハルとちょっと会えなかっただけでだいぶ弱ってたからさ。無理は言わないけど、……早く帰ってきてやれよ」
「……わかった」
それがほぼ不可能に近いのは、言ってきた真琴もよくわかっていることなのだろうが。遙は素直に頷いた。
「水希、あしたは仕事だし。……ほら、宗介には一回食われてるんだろ?」
「……お前、そんなに性格悪かったか?」
「あはは。冗談だよ、冗談。……でも弱った水希って、なんていうのかな、人肌を恋しがるっていうか」
「…………江に連絡しとく」
「江ちゃん? ははっ、それはいいね」
真琴は楽しそうにしているが、遙にとってはまったく笑えない話だ。日頃から水希にちょっかいをかけているマネージャーの件については(当人たちは軽い戯れだと認知しているようだが)、警戒するに越したことはない。仕事中はほぼ水希のそばにいる江に用心棒を頼むことを決めた。
「ふー……なんか水希の寝顔見てるとすっごく眠たくなってきた」
「嫌みか?」
「えっいやそんなつもりは……」
「……ふん。冗談だ」
ちょっとハル、なんて騒がしい電話を遙は耳から遠ざけた。
家に戻るのは明後日の夜になる。「彼」もあともう少し、「待て」はできる。できるように躾けてやったのだ。
遙の口角はほんの少しあがった。
どうせ水希は、寝ぼけながら言った言葉など、いや、電話したことですら覚えてないだろうが――帰ったら、たんと甘やかしてやろう。
「真琴」
「ん?」
「食うなよ」
「はっ?! なに言ってるんだよ! 俺が手を出すわけないだろ!」
「……だから、冗談だ」
2度目の怒声が聞こえる前に、遙は電話を切ってやった。
彼にしては珍しく、2度も出た冗談は、寝ぼけ野郎に引き起こされた穏やかな気持ちゆえだったのかもしれない。