それは、遙が台所でサバを焼いていた午前のことである。
スパンッ! と激しい音がたち、遙はびくりと肩を跳ね上げた。何度も瞬きしてサバを見てもただただフライパンの上でくたびれているだけだし、縁側を見ても餌待ちの猫が体を伸ばしているだけだ。その音の発生源は遙の周りにはない。
遙が呆然としていると今度は廊下から台所につながる入り口の暖簾があがった。
「遙!」
「……水希?」
遙の名前を呼ぶ水希はどこか切羽詰った様子である。彼の姿を見て、遙は先程の鋭い音が何だったのかを理解した。
水希は、引き戸を勢い良く開けてきたらしい。それこそ渚の家出を聞いて、慌てて遙の家へやってきた怜のように。
息が切れているのは何なのか。水希の家から遙の家までは階段たった数段だというのに。そんなに急いできたのだろうか。
「とりあえず落ち着け」と言いながら近寄って、頭を撫でてやろうとした遙の手はがしりと水希に掴まれる。こればっかりは遙も目を瞠って驚いた。
「水希?」
「買い物」
「……?」
「買い物、行こう」
水希は片方、膝に置いていた手を宙に下げ、曲がった腰を正した。
伸ばした遙の手がゆっくり下りる。それに従って遙の手首をつかむ水希の手はほどけた。
「……急にどうしたんだ」
この言葉以外に思いつかなかった。怪訝な目をして水希を見つめてやること以外、遙にはすることがなかった。
「……ん、まあほら」
「? なんだはっきり言え。いいことも悪いこともきっぱり言えるのがお前の長所だろ」
「喧嘩売ってんの? 買うけど」
「朝から血の気が盛んだな」
遙は肩を竦めた。
それを見た水希はひくりと口をひきつらせたが、すんと鼻をくすぐった芳しい香りに、ぱちぱちと2度瞬き。
「遙、サバ。大丈夫?」
「あ」
まさに今思い出した、といった感じの遙は、少し慌ててフライパンの前に戻る。
焦りながらサバの焼け具合を見る。焦げてはいなかった。むしろいい焼け具合だ。
遙は火を止めてこんがり焼けたサバを皿に移した。
「……で、なんで急に買い物なんだ」
「…………服、見に行きたいなって」
「服?」
しばらく間のあった水希のセリフの後、遙は即座に首を傾げた。
珍しいこともあるもんだ、と思った。水希と遙ははたから見れば主婦のような遙の買い物ばかりを一緒にしていた。服とかは一緒に見に行ったためしがない。
「まあ、別にいいけど」
遙の返事に水希はうっすら頬を紅潮させた。ぐっと拳を握って、腰のあたりで引く。「っし!」と、何か達成した時のガッツポーズはこっそり行ったのだろうが、遙には見えていた。
なんだか奇妙だったが遙は指摘しないでおいた。代わりに壁掛け時計に目をやると、短針は8をさしている。
「店は大体10時からだろ?」
「ん。ゆっくり食べていいよ」
ゆっくり食べたってさすがに2時間はかからない。遙はあきれ顔をしたが、水希が気づくことはなく、彼は縁側で餌を待っている猫の方へと歩いて行った。
遙は遠ざかっていく背中をしばらく見つめていたが、あきらめたように息をついて、皿を片手に居間に向かった。
いつもは電源の入っているいないにかかわらず、とりあえずぼうっとテレビを見つめて箸を進めるが、今日の遙の目線は水希にあった。
水希が寄ってきたことに気付いた猫が、みゃあと鳴いて水希の足に体を寄せる。
水希はほんの少し笑った。
ゆっくりと水希が縁側に座るが否や、猫は当たり前のように水希の膝に乗った。
随分懐いたものだと、遙はぼんやり思う。
「遙、餌やった?」
「……」
「遙?」
「! あ……まだ、だ」
大きめの声で呼ばれて遙ははっとした。
遙がぼうっとしていることはそんなに珍しくはないので、水希は特段気にした様子を見せない。
「にゃあ」
「うん、今持ってくる」
水希が頭を一撫でしてやると、猫は素直に膝を下りた。猫に自分の言葉が通じているようで水希は少しうれしかった。
「あれ。おまえ今日サバだけ?」
座卓の向こうを歩いていた水希は、卓上の食事を見て上ずった声を出す。
遙は徐に目の前を見て、茶碗一杯の白飯、それとお茶を出していないことに気付いた。サバを運んだ後に持ってこようと思っていたのだが、縁側で猫とじゃれる水希につい夢中になっていたようだ。
「トーストは?」
「今日は違う。昨日炊きすぎた飯のあまりを食べる」
「あ、座ってていいよ」
立ち上がる遙を水希は制した。
くずした胡坐をそのまま、遙は不思議そうに水希を見上げる。
「あまりって冷蔵庫? レンジであっためればいいんだよな」
「あ、ああ……」
遙のしどろもどろな返答を背中に、水希は台所に向かってまず手を洗った。
「おまえもやっと魚に白米を合わせるようになったんだな……」
水希のしみじみとした嫌みに、今の遙は言い返す気が起きなかった。
持ってきて、くれるらしい。猫の餌を取りに、立ち上がったついでなのかもしれない、が。
水希は冷蔵庫から白米の入った保存容器を取り出し、レンジに入れる。ピ、とボタンを押した次は、水屋箪笥からお茶碗と湯のみを出す。
急須の茶葉を確認。空だったので新しいのを拝借した。
水希は一度居間に戻ってきた。何用かと思えば、電子ポットのお湯をもらいにきたようだ。
「あれ、おまえお茶もないの」
「……」
遙はふいっと顔を背けた。
こぽこぽと急須にお湯を注ぐ音。少し間をおいて、茶は湯のみに注がれ、湯のみは遙の前に置かれた。
遙が驚いて水希を見る。
ちょうど電子音が鳴った。レンジの音だ。
水希は当たり前のようにそちらへ行ってしまった。
「……」
遙は静かに縁側を見た。猫は相変わらずおとなしく餌を待っていた。
馴染みすぎ、だと思う。水希は、この家に馴染みすぎだ。
自分が率先して動いて、台所事情なんてすっかり理解して、自分のために用意したであろうお茶は遙に譲って。どこの良妻だ。当の本人はなんてない顔をしてやってのけるのがまた、遙は悔しいのだ。
「遙」
「……サンキュ」
受け取ったお茶碗は温かい。
サバ、白米、お茶と並び、野菜が足りないが、やっと座卓の上は朝食らしくなった。
何度目の往復か、水希はまた台所へ戻った。次に遙の前を横切った水希の手には猫缶があった。水屋の一番下に入っているやつだ。
それを持って猫のところに戻って行ったところまでを見送って、遙はやっと箸を手に取った。
すっかり放置されていたサバは冷めてしまっていたが、ご飯は温かかったので、そこまで気にならなかった。
「……どうして服を見に行きたいんだ?」
「んー……なんか春物ほしいなって」
縁側にしゃがみ込んで、目線は餌を食べる猫に向けたまま、水希はそう答えた。
本当に明瞭な目的がないのか、教えたくないだけなのか。遙は水希の曖昧な答えに、無言で咀嚼する。思い返すのは水希が家を訪れた数分前。
「……本当は?」
明瞭な目的なし、はあり得ない。水希はあんなに慌てて家にやってきたのだ。誰よりも先に遙の一日をもぎとろうとしていたのだ。
水希の視線が猫から遙に移った。
「……おまえ絶対顔顰めるし」
「内容による」
「……、……」
ぱく、と白米を口に運ぶ。
水希は困ったように眉間にしわを寄せる。視線はまたも猫に落ち、低回しているようだった。
「……彼女もちの友だちが、この間一緒に出掛けたらしくて」
「ああ」
「服、選んでやったんだって」
「……」
話は読めた。
水希がやおら目を遙に向ける。
「……顔顰めないって言ったじゃん」
「内容による、としか言ってない」
「……」
水希はム、と口をへの字に曲げ、つんと猫の頭をつついた。猫は嫌がらず、むしろちゃんとなでろと言わんばかりに水希の手に頭をすり寄せる。
要するに友人の惚気を聞いて触発されたらしい。遙は小さくため息をついて食事を続ける。
「…………服、一緒に選ぶとかやったことないし。好きな人とそういうデートぐらいしてみたいじゃん」
小さな声だった。
「みゃあ」
「あはは、くすぐったい」
弾かれたように遙が振り返ると、ぺろぺろと手をなめる猫に、水希が笑っていた。
好きな人。デート。
その言葉を反芻する。
つまり、なんだ? 最初のあれはデートの誘い、だったのか?
「……」
遙は水希と休日に出掛けることなんて何度もやってきた。しかしそれは仲のいい友達同士でする「一緒にお出かけ」という感覚であって、恋人どうしのする「デート」ではない。たとえ第三者が「それはデートだろ!」と突っ込もうが、彼ら自身が明確に、デート、と名付けたことがなかった。
好きな人と、デート。
改めて、はっきり、それも水希から言われると、今まで意識していなかった何かを意識せざるを得なかった。
好きな人――。
遙は急に顔を真っ赤にした。さっと水希から目を逸らして、空になった食器を流しに運ぶために立ち上がった。
気を紛らわそうとすると却って、猫に見せていた水希の拗ねた顔や笑顔を思い出してしまう。ぎゅうっと思いっきり胸を握られる。
遙は台所にしゃがみ込んだ。
一緒にいるのが当たり前だった。水希は遙の生活に馴染んでいた。だから、その分。胸が苦しかった。
「…………好きだ」
小さくつぶやいて、遙は膝をぐっとつかんだ。改めて実感した。悔しいけど、自分はあいつが好きだ、と。
水希が不意に部屋の中を振り返った。彼は台所にしゃがみ込む遙を見つけると、不思議そうに首を傾げた。