style fiveの握手会が当たったと、江がぴょんぴょん跳ねながら俺に報告したのは1週間前の話だ。
 聞くところによると、握手会の抽選券は数ヶ月前発売されたアルバムについていて、江は3つ買ったとか。内2枚は友だちにあげたらしい。抽選券はついてないけど。
 3枚中2枚当てるとかなかなかすごいと思う。style fiveはかなり人気なユニットだし。
 よかったね、って頭を撫でてやったのも1週間前で、今日がその握手会だ。
 仲のいい友達とでも行けばいいのに、何故か俺が連行された。
「はあぁ……人がいっぱいですねぇ……」
 長蛇の列に感動する江に適当に返事をした。
 逃亡防止と掴まれた左手は諦め、右手でスマホを操作する。LINEに明日の件で連絡がきているからそれに返信をしていると列が少し進んだ。
「水希さん」
「ん。なに」
 スマホを下ろして江を見る。
 彼女はジッと俺を見つめるだけで用件を言わない。
「……いえ。……ふふふ」
「……?」
 なぜか嬉しそうに笑う江。結構怖い。
「あ。今気味が悪いって思いましたね!」
「首かしげただけだろ。被害妄想すんな」
「もう! せっかくメガネも似合ってますよって言ってあげようと思ったのに!」
 大きく頬を膨らませた江は、腰に手を当てそっぽを向いた。江の長い髪がふわりと揺れた。
 今日の江はいつもみたいにポニーテールにしていない。髪型だけで随分雰囲気が変わる。可愛い、とは思うのだけれど、いつも引っ張ってやる尻尾がないのは少し物足りない。
「こう」
「水希さんなんて知りませんっ」
「おまえも似合ってる。可愛いよ」
「っ」
 髪を少し掬うが、さらさらとしたそれはすぐに指の間をすり抜けていってしまう。やっぱりポニーテールの方がいい。先の方をくるくる回してやれるし。
 バッと俺の方を振り向いた江は、見慣れないメガネをかけている。ウェリントン型のそれは彼女が雑誌で見て一目惚れした、とかいうやつで、今俺が身につけているのと同じものだ。
「別人みたい」
「〜〜っ! 最低です!」
 江は顔を真っ赤にした。どうやら怒らせてしまったらしい。
 ポカポカと胸板を叩いてくる彼女の好きなようにさせていると、また列が進んだ。黄色い声は一段と大きくなって、先頭の方にテレビの向こうでよく見る男たちの姿を捉えた。
「おまえの兄ちゃんすっげー笑ってる」
「えっえっ! 本当ですか?!」
 依然胸板を叩く(目的が段々変わってきている気がしたので)江に小声で伝えると、江はあからさまに反応して、その場で背伸びを始めた。彼女と同じような背丈の人でたくさんだから、彼女には見えないんだろう。
 そんなに飛ばなくてももうすぐ対面することはできるのだけれど、そうなると「お兄ちゃん」はきっとあの笑みを隠してしまう。
「ううー。見えないー……っ」
「こう。止まって」
「え? 水希さん、うひゃあっ?!」
 江が再び跳ね出す前に、俺はちょっと腰を折って、江の背中を片手で支えもう一方の腕で江の両足をすくい上げた。横抱きってやつだ。
 江が変な声をあげるから周りがざわついた。さっきからざわついてたけど、注目するものが違っている。
 現に一個前の女の子たちはこそこそ話しながら前を向きなおしたし、好奇の眼差しなんてどうせすぐ止むからほっとくことにした。
「いっいいい、いきなり何するんですか!」
「うるさい。ほら、兄ちゃん見えるだろ」
「そそそれどころじゃありません! 下ろしてくださいっ!」
 ほとんど俺と同じ目の高さだから貴重な笑顔が見れるのに、江は早く下ろせと怒るばかりで彼には一瞥すら与えない。
「水希さんは本当に最低ですっ!!」
 とりあえず下ろしてやったらまた胸板を叩かれる。しかも最低だって罵られるし、数分前に戻ってしまった。
「なんで怒ってんの」
「そういう水希さんはなんでそんなに天然なんですか?!」
「はぁ?」
 どこから天然という単語が出る話になったのかさっぱりわからない。かと言って江の様子から聞いたって教えてくれそうになかった。
 顰めっ面で江を見ていたら「最低です! タラシ! ナイス筋肉!」とギュッと上膊を掴まれた。意味がわからない。こいつのテンションはなんなんだろう。
 そうこうしているうちに俺たちは列の先頭についた。整理券をスタッフに渡せば5つある列のうちどこかに並ぶよう指示が出た。
「この場でシングルを買ったら、サインももらえるんですよ!」
 どうやら1枚につき1人、ということらしい。5人分欲しければ5枚買えってか。財布に優しくないな……。というか財布以前に並び直しはできないみたいだから究極の選択、てやつだな。
 江がある列に並んだのを目で追って、俺はどうするか1人悩んだ。いや、本当、どうしよう。
 江が並んだのは「お兄ちゃん」の列だ。俺もあれに並んでしまうと、絶対に睨まれるからヤダ。あいつシスコンだし。
 列はどんどん流れていく。何もなしに帰ってしまおうと思ったけど、やっぱりもったいない気がして、この中では1番妥当だと思われる列に並んだ。
 キラキラとした笑顔を見せる彼を見ているとどんどん気恥ずかしさが増す。俺はキャップを深くかぶりなおした。
 前に来るまでには外に並んでいた時ぐらい待った。
 1つ前の女の子が嬉し泣きしながら去っていく。
 うわ、今更すっごい逃げたい。
「こんにちは! 来てくれてありがとうございます!」
「ん……」
 パッと笑って、エスコートするかのごとく手を差し出された。
 俯きがちに応えたが、戸惑うそぶりも見せずに、ふふ、と優しく笑う怜は俺の手を握った。
「男性のファンの人もいてくれて嬉しいです」
「……あー。うん……」
「……? あっ!」
 勘付いた怜が俺の名前を呼びそうになったので、慌てて顔を上げ、シーッと注意する。
 怜は随分驚いた顔をしている。
「ひ、久しぶりですね。水希さん」
「ん。久しぶり」
 怜がちょっと声を潜めて俺を呼んだ。
「どうしてここに」と聞かれたので「ポニーテール」と答えると、怜はすぐに納得した。彼は察しがいいのですごく助かる。
「バレたら大騒ぎですよ。まったく……」
「だからキャップ被って、メガネつけてるんだろ」
「ふふ、そうですね。全然雰囲気が違うのでわかりませんでした。メガネ、似合ってます」
「どうも」
 相変わらず淡白だ、と怜が苦笑した。
「せっかくだしシングル買ってく。サインももらえるんだろ」
「あ。はいっ! あれ。でも、僕でいいんですか?」
「は?」
 何が言いたいのかわからなくて、若干睨むように怜を見る。
 怜は視線をふっと横にやった。
 つられてそちらを見ると、奥に2人。手前側の人物はちょうど机の下にあるCDを取ろうとしていたようで。
 目があった。
 青目は信じられないものを見たかのように見開かれた。
 俺は慌てて目を逸らした。
「おまえがいい」
「……水希さん、今日も江さんに怒られたんじゃないですか」
「別に」
 怜は俺の答えにも微妙な顔をしていた。
 怜のサイン入りのシングルをもらった後は逃げるように会場の外に出た。
 熱のある会場内とは違って、まだ浮ついてはいるが、この場は大層静かだ。
 隅っこの方でCDのジャケットを見つめている江はすぐに見つけられた。
「こう」
「あ、水希さん」
「ごめん。待たせた」
「いえ。大丈夫ですよ」
 江はCDをカバンになおし、俺に向けてにこりと笑った。
「お兄ちゃんに呆れられちゃいました」
「凛も素直じゃないよな」
「それ、水希さんが言います?」
「は?」
「な、なんでもないです」
 凄んだつもりはなかったが、江は姿勢をピンと伸ばした。
 にしても、あれは絶対にバレた。ちょっとめんどくさいことになるかもしれない。
 見開かれた青目を思い出した俺は深くため息を吐きたかったが、「本当に良かった」と。江が嬉しそうに頬を紅潮させて、大事そうにカバンを抱えていたので、やめた。

 夕食はもうしばらくしてから準備しようと思って先に風呂を沸かした。
 テレビをつけるとちょうど今日のstyle fiveの握手会の話題が出ていた。会場内の様子と、インタビューを受けるファンと。ぼーっとそれを眺めていたら天気予報に切り替わったので風呂に向かった。
 体を洗った後は浴槽に入って体を伸ばす。熱い風呂に浸かってふーっと息を吐いてしまうのはかなり年なのかもしれない。まだ酒を飲めるようになったばっかりなのに。
 湯船に浮かべたイルカのおもちゃは同居人が昔から持っているものだ。それに向かって話しかけるみたいに、「明日は8時に事務所で10時からバラエティ番組」と呟く。と、スパーン! なんて激しい音を立てて浴室のドアが開いた。
 驚きで肩が跳ね上がったが、声なんて出せなかった。かなり不意打ちだった。
「はっ、えっ、いや、え?」
 ズンズンと歩いてきて、果てには仁王立ちで俺を見下ろす遙に向ける言葉がない。
 帰るのはもっと遅くなると思っていたのに予想外だ。まだ、飯を作って……あ、
「ごめん遙、まだ飯作ってない」
「来るなら来るって言え」
 まったく会話になっていない。
「しかも並んだの、俺のところじゃなかったな」
 遙は更に凄みをきかせて俺を睨みつける。
 なんかすっげー怒ってる。
 遙が言っているのがなんのことなのかはわかった。……けど。
 とりあえずドア閉めてほしい。冷たい空気が入ってきて寒い。
「いいじゃん。おまえと握手とかいつだってできるし」
「怜とだってできる」
「…………察せよ。おまえと改めてとか、恥ずかしいじゃん」
 体を滑らせ水中に目の下まで浸す。が、息ができなくて辛いのですぐやめた。
 不思議そうに俺を見ている遙は何もわかっていない。
 静かにため息。
「考えてみろよ、わざわざおまえの握手を求めて俺が並んでるところ。恥ずかしいだろ」
「……そうだな」
 遙は納得したみたいで、どこか気まずそうに目を泳がせた。
「……でも、」
「ん?」
「…………なんでもない。俺も風呂に入る」
「は、ちょっ! 今上がるから待て! ステイ! ステイ遙!! うわあああっ!!」
 必死の叫びも甲斐なく。遙の瞬間脱衣はまた1つ格をあげていたことだけ伝えておく。


 当番では俺の日だったが、遙と2人で料理をすることになった。
 出来上がった料理を机に運び、向かい合って席に着く。いただきます、と手を合わせ、食事を口に運ぶ。
「水希、抽選券出したのか?」
「? いや」
 手の止まった遙の目線の行き先はテレビの横にある棚に入ったCDらしい。そこにあるのはstyle fiveのCDだ。どれも2個以上あるのは、遙がサンプルでもらい、俺が店で買うからだ。
 style five、女性ファンの多い今かなり流行っているアイドルグループ。今更言うまでもないだろうが、遙はそのユニットの1人だ。
「……握手会」
「ああ。こうが2枚当てた」
「すごいな……」
「だよな」
 遙は純粋に驚いている。
 俺は咀嚼しながら頷いた。ちなみにテーブルには相も変わらず鯖料理がある。鯖は大っ嫌いだったけど最近すごく好きだ。遙が作るやつは美味しい。
「…………仲良いよな」
 ぽつりと落ちた言葉に顔を上げた。
 遙はまだ棚の方を見ている。
 仲がいいって、style fiveのメンツが、か? にしては遙の言い方はなんか変っていうか。
「続いては、奇跡の男女ユニット……"our kid"です!」
 遙の視線の先にあるのがCDを収納した棚ではないのだと俺はやっと気づいた。遙と同じようにテレビを見ると、風呂に入っている間に歌番組に変わっていたようで、つい先日見たセットが目に飛び込む。
 右下にユニット名と曲名。ステージには今日とは違ってポニーテールにして、騎士みたいな白の衣装を着た江と、江とお揃いの衣装を着た自分が映っている。
 うわ、すっげーいやだ。
 リモコンに手を伸ばしたが、遙の目は側面にも付いているのか瞬時に奪われた。
「……チャンネル変えよう」
「嫌だ」
「変えろ」
「嫌だ。水希が見なければいい」
 ちっともこっちを見ない遙は頑なだ。こうなればもうどうにもならない。諦めた俺は深いため息をついて鯖の塩焼きを箸でつまんだ。
 style fiveは――今更説明するまでもないだろうが、松岡凛と橘真琴、葉月渚、竜ヶ崎怜、そして今目の前にいる七瀬遙の5人で結成されたアイドルグループだ。顔良し、声良し、体良し。そんなイケメン三拍子(と江が言っていた)をととのえた彼らはデビュー開始から莫大な支持を得ている。
 かくいう俺は――俺と江は、そんなstyle fiveを追うように結成された男女ユニットだ。事務所は同じ。俺は真琴の(双子だからお互いあんまり上下はないんだけど)弟で、江は凛の妹。our kidという名前からわかるように、style fiveのメンバーの弟妹から売りに出せばいけるかも、という事務所の策略だ。
 正直俺は全く乗り気じゃなかったんだけど、兄である凛に憧れを持っていた江に「一緒に頑張りませんか」と強く頼まれたら突っ撥ねるわけにもいかなかった。
 最初はいやいやだったけど、実際やってみるとのめり込んでいるのが現状だったりするわけだが。
「水希、お前こんな顔を地上波で流したらダメだろ」
「は、こんな顔ってなんだよ」
「………………疲れてる顔」
「疲れてる?」
 まさかそんな顔をしてしまったなんて大失態だ。人を楽しませる、元気付けるためにやっているのに。
 焦ってテレビを確認すると、歌い終わったところで、俺はうっすら汗をかいている。が、一応笑っている。……疲れてる、っていうのは汗をかいてるから、か?
「おまえ厳しいな……歌って踊って、バク宙とかアクロバット入ったら汗ぐらいかくだろ……」
 俺と江はツインボーカルで、バックダンサーをつける。自分たちでの踊りも当たり前にする。振りが激しいから基本ブレイクマイクだ。
 バク宙とか、主に俺だけがするそのへんのアクロバットは江希望だ。「せっかくの筋肉なんですよ? 筋肉を生かすようなことをしないと!! その方が見ている方も楽しいです!」と力説された。筋肉云々は正直理解不能だ。やってるけど。
「……とにかく疲れないようにしろ」
「疲れてるつもりはないんだけど……」
 遙が俺を睨んだ。「疲れないようにしろ、わかったな」と2度目はかなりきつく言われたので頷くほかない。なにこいつ。マネージャーより厳しいんだけど。
 テレビの方では軽いインタビューになっている。確か歌のこととか、衣装のこととか。あとは男女ユニットだけど仲良いね、みたいなことを言われたんだっけ。
 俺と江のユニットは男女なのでかなり注目される。みんな揃って聞いてくるのが、お互いに恋愛感情を持たないのか、ということだ。
 そのたびに、江は「水希さんはお兄ちゃんみたいな存在なので」とか、「もうちょっと筋肉のある人がいいです」と答える。どっちも本気だろう。かなり余談だが江の理想は凛の筋肉だ。
 俺も俺で「こうは妹って感じです」とか、「こいつの兄貴に殺されますって」とかおきまりの言葉を返す。どちらも嘘じゃない。
 それに俺は、……。
「……遙ぁ、鯖の塩焼き、最後の一個食べていい?」
「はっ?! 待て、俺は1つも食べてない!」
「おまえがテレビばっかり見てるのが悪いんじゃないの」
「おい! バカ、取るな!」
 本気で慌てる遙が可愛くてクスクス笑う。からかっていた、というのはすぐ遙にバレてしまい、テーブルの下で足を蹴られた。
「遙、飯食い終わったらサインしてよ」
「?」
「今日発売のシングル、CDショップでも買った」
「……同じのは3枚もいらないだろ、バカか」
「同じのじゃないよ、1枚はおまえがサンプルでもらっただろ? もう一枚は怜のサインもらったやつで、最後のはおまえに書いてもらう」
「……嫌だ」
「えー」
「ちゃんと俺の列に並ばない水希が悪い」
 遙はそう言って鯖の塩焼きを口に運び、もぐもぐ口を動かしながらそっぽを向いた。
 その顔が先ほど風呂場で見たものとリンクした。あのときも列が云々言ってたし、つまり、なんだ。こいつ拗ねてるのか。
「……なにニヤニヤしてるんだ。気持ち悪い」
「遙も意外と可愛いところあるんだなって」
「なにを都合よく解釈してるんだ?」
「秘密」
 遙は不愉快そうに俺を睨みつけた。今日はよく睨まれる日だ。いつもそうだけど。
「遙、『おねだり』なら聞いてくれんの?」
「……」
 遙がピクリと眉を動かした。
 青目は怪訝な様子だがその中には不快感はない。止まった遙の手を引き寄せて、手の甲に軽く口付ける。
「なあお願い。してよ、サイン」
 遙の手のひらを俺の頬に持って行き笑いかける。
 暫時呆然としていた遙だったが、急に返ってきたようで「バカ」と変わらない悪口を言って、その片手で俺の顔を掴んだ。
「あんまり調子にのると鳴かせるぞ」
「は、勘弁してよ。明日仕事だし」
 次第にタコみたいな顔にさせられつつ、両手を挙げて降参を示した。
 遙のため息はかなり重たかった。
 解放された頬は結構痛い。あんなに怒ることないじゃないかと心内不満をこぼし、頬をさすった。
「なあ、サインしてくれんの?」
「…………後でだ」
 まずはゆっくり飯を食わせろ、と言って遙は再び箸を動かし始める。
 結局サインはしてくれるんだ。素直じゃないやつ。
 俺と遙の関係は――幼馴染であり、先輩後輩であり、同居人であり、恋人というやつである。先輩後輩というのはユニットの結成時期のズレからで、世間には前者2つ以外のことは公表していない。最後の1つなんて、公表できるわけないし、お互いのユニットメンバー以外知らないトップシークレットだ。
 奇跡の男女ユニット。俺と江はよくそう紹介される。男女なのに恋愛関係にはならず、長らく仲睦まじく続いているかららしい。
 俺が江に恋愛感情を持たないのは、昔から見てきた彼女に家族的目しか向けられないことも理由だが、1番は、遙。彼の存在だ。
 俺は遙が好きだから。
「……なんだ」
「ん、別に?」
 箸を動かさないで遙を見ていたら、そろそろ鬱陶しく思われたみたいで、遙に顰めっ面された。
 遙のファンの子に優越感を覚えてたっていえば、おまえは性格が悪い、と罵ってくれるのだろうか。それとも、くだらないとため息をつくのか。
 いずれにせよ遙が喜ぶことはないだろうから、この気持ちは俺だけの秘密にしておいた。

 ◆

「こうと待ち合わせしてるから」と同居人が早めに家を出たのはつい数分前の話だ。
 水希を見送った後はゆっくり時間が流れる。今日の仕事はオフだ。
 昨日は握手会に来たクソ生意気な同居人に色々問い詰めるために急いで帰ってきたので、帰りにジムに寄って泳ぐことができなかった。なんだか物足りないと思えばそういうことか。
 仕事も休みだし、水希もいないし。そうとわかれば今から行こう。


 ジムのプールでひと泳ぎ。
 喉の渇きを感じて一度休憩室の方に行く。水着の上にパーカーを羽織って、ペットボトル片手にくつろぐ人は何人かいる。
 俺はいつも買うミネラルウォーターを選んだ。
「そういえば昨日のMエン見た?」
「見たーっ! our kid出てたよね」
 俺はプールを見下ろして興味のないふりをしていたが、反して耳はしっかり彼女たちの言葉を拾っていた。
 Mエンというのはmusic enthusiastという歌番組のことで、昨日水希と一緒に見たやつだ。ちなみに俺たちも何度か出演している。
 水分補給は十分。
 our kidというグループ名さえ聞こえなければ、俺は今頃プールに戻っていたのだろう。
「江ちゃんと水希くん、すっごい息ぴったりだよね」
「うんうん! お揃いの衣装もすっごい可愛くて……あの2人がカップルだったらとってもお似合いなのにね〜」
「お互い恋愛感情はないんでしょ?」
「本人たちはそう言ってるけどさぁ、やっぱり男女ユニットだよ? あたしだったらあんな色っぽい男と一緒だったから絶対落ちるよ」
「あはは、水希くん終わったあと不意に見せる顔がすっっごいエロいよねぇ……」
 ピク、と指先が震えた。
「そういえば水希くんはスタファイの真琴くんの双子で、江ちゃんは凛くんの妹なんだよね? our kidとstyle fiveでコラボとかしないかなぁ」
 話はまだ続いているようだったが俺は休憩室を出た。
 気分が悪かった。早く、水の中に飛び込みたかった。
 水希たちのユニットはダンサーをつけて一緒に激しい踊りをすることが多い。水希がよくやるアクロバットは江が提案したファンサービスらしい。
 運動量は並ではないので、肩で息をするまではいかなくても、水希は若干息を乱す。その、呼吸を整えるときの一瞬の顔が、情事の時まったく一緒、だったりする。
 それを俺以外の人間が見るのが俺はすごく嫌だ。
 なるべく直接的に言うのを避けて「疲れた顔を見せるな」と水希本人に注意したがどうせわかってない。あいつはバカだから。
 気に入らないことはそれだけじゃない。いくらユニットメンバーだからといって、水希は江に甘すぎる。
  昨日の俺たちの握手会には2人で一緒に来てたみたいだし、今日だって水希は江を迎えに行った。事務所に集合なんだから別々に行けばいいのに、わざわざ迎えにいって一緒に事務所へ、だ。
 江は危なっかしいところがあるし、もともと凛の妹だから、幼い弟妹を持つ水希が構いたくなるのはわかる。……わかる、けど。
 カップルだったらお似合い――か。
 あの2人は周りから見てもそう思われているのだから救いようがない。
 プールで気持ちを晴らすつもりが余計な心労を負ってしまった。これ以上は泳ぐ気になれなかったので、家に帰ることにした。


 家につくころには時刻は午後2時を過ぎていた。
 自分自身が昼をも抜いて泳ぎ続けていたことには若干驚いた。
 テレビを見る気にはならないが、シンとした部屋は物寂しいのでステレオを操作してラジオをつける。それからエプロンをとって冷蔵庫へ向かった。
 鯖は残り一尾だった。すっかり忘れていた。水希に帰りに買ってきてもらおうか。
 ステレオから流れるのは軽快なメロディー。
 その音は、声は。どこかで聞き覚えがあって、気づけば体ごとステレオの方へ向いていた。
「our kidで"overcome adversity!"でした!」
 そうだ、水希たちの曲だ。
 やっと気づいてすっきりした。
 鯖の載ったフライパンの方に向き直ってコンロの火をつけた。
 アドバーシティーは逆境って意味だと真琴が言っていた気がする。逆境に打ち勝て。そんなタイトルらしい。江はともかく水希には向かない曲名だ。あいつ、熱血キャラじゃないからな。
 真琴も大概ブラコンだから水希たちの曲には詳しい。逆も然り、だけど。
「今回はour kidのお二人に遊びに来てもらいました! こんにちは、松岡さん、橘さん」
「こんにちはー!」
「やー、目の前で見るとますます美男美女ですねえ」
「あはは、そんなことないですよー」
 曲だけ流れたのかと思ったら違ったみたいだ。
 ラジオ、出てるのか。
 水希は昨日、明日はトーク番組の収録とは言ってたけどラジオのことは言ってなかった。やれと言われればできるけどあんまり話が好きじゃない水希のことだ。江とマネージャーにこっそり決められていたんだろう。
 ラジオでは水希の表情やしぐさが見えないけど、内心拗ねてるのがぼんやり想像できた。
「今日は人気絶頂のお二人に、みなさんからの質問へ、ずばり答えてもらおうと思います! 寄せられたハガキの中からどんどんいきますよ〜、では……ペンネーム、のらさんからのお便りです! 『お二人が恋愛関係にないことが驚きです。一体江ちゃんの好みの男性はどんな人なんですか? 今度のライブも楽しみにしてます!』だそうです。松岡さんの好みの男性! 気になりますねえ」
「ええっ!」
「こいつの理想の男はスタファイの凛ですよ」
「ちょっと! なんで水希さんが答えるんですか?!」
「凛ぐらい筋肉がついてないと論外です」
「筋肉だけじゃありませんっ!」
「ふふ、やっぱり仲良しですね〜。そういえばお二人はstyle fiveのメンバーにお兄さんがいるんですよね? 松岡さんのお兄さんは先ほどから話題に上がっている凛さん、橘さんのお兄さんは真琴さんでしたよね?」
「はい!」
「兄って言っても、俺は双子だから同い年ですけどね」
 芳しい香りが鼻をくすぐる。
 菜箸で鯖をひっくり返して焼け具合を確認する。
「ではでは次のおハガキを紹介しまーす! ペンネームあめ玉さんより『水希くんはスタファイのハルくんと幼馴染だそうですが、よく遊びに行ったりするんですか?』だそうです。さあ橘さん!」
「……まあ、食事とかよく一緒にしますね」
「水希さんと遙さんはすごく仲良しですよ〜!」
「松岡さんのお墨付きですか! 七瀬さんとはどんなお店に?」
「遙は鯖が好きなので……、和食店が多いです」
「ふふ、水希さん、遙さんと一緒にご飯を食べられるように日々好き嫌い克服への努力をして……むぐっ」
「ばっ、余計だ!」
 振り返っても誰もいない。ただいつも通りの部屋の風景が広がって、水希がよくstyle fiveの曲をかけているステレオが喋っているだけだ。
「青魚なんてぜんっぜんダメだったのに、遙さんが好きなものだからって」
「江……おまえ後で覚えとけよ」
 賑やかな笑い声。それに混じって言い合う声。
「やー、いつかstyle fiveとour kidのコラボなんかに期待したいですね!」
 焦げ臭さに慌ててフライパンと向き合った。予想を裏切らず鯖は焼け過ぎていた。
 ……水希が食事当番の日は、食卓に、俺が好きで、水希の苦手なものが並ぶ確率が高いのは気のせいじゃなかったのか。
 火を止めてため息。
 顔がどことなく熱い気がした。
 水希が江に気を許している理由がなんとなくわかった。
 俺と水希のユニットのメンバーはみんな、俺と水希の関係を知っている。江は知っている。だから水希は遠慮することがないのだろう。1番問題視されそうなところを理解されているから、気が楽なのだと思う。
 ……にしても、好き嫌いの克服、か。それも、俺が好きって言ったものを好きになりたいから、とか。なんなんだあいつ。
 水希が帰ってきたらどうしてやろうか。俺がラジオを聞いていたことを教えてやるか否か。教えれば絶対水希と喧嘩になるだろう。真琴が呆れながら仲裁してくれないと終わらない喧嘩に。
 考えると勝手に頬が緩むのを感じた。
 俺も大概あいつに夢中らしい。本人には、教えてやらないけど。