※一期終了後
地方大会翌日。休日で学校はなく、大会後、ということで部活も休みだ。
朝からうるさい蝉の鳴き声に眉を顰めつつ、学習机に向かう怜の携帯電話がメールを受信した。
怜は本から視線を外し、点滅する携帯電話をしばらく眺めた。徐に手を伸ばし、相手を確認して――思わず目を疑った。
「水希先輩……?」
新着メール1件、件名はなく、送信者名には橘水希。意外な相手からのメールに怜は少し戸惑った。
あの水希がメールをするほどの用とは一体なんだろうか。
まるで誰かに呼び出されて叱られるのを目前とした人物のようにドキドキしながら怜はメールを確認する。添付ファイルがある。
プールの写真。何度も何度も泳いだ学校のプール。それが件名も本文もないメールに添付されていた。
時刻は午前8時を過ぎたところだ。
怜はしばらく唖然と写真を見ていたが、操作されなくなった携帯が画面を暗くしたのを機に、ゆっくり椅子から立ち上がる。
クローゼットを開き、ハンガーから取ったのは学校の制服。まだ着たばかりの私服からそいつに着替える。
仕上げのタイを歪みなく締めた。
定期を手にとって部屋を出る。親に少し出かけることを伝え、玄関まで行って――ふと。
怜は履きかけた靴を脱ぎ、早足で部屋に戻った。
いつものリュックサックを掴み、その中にジャージと水着、水泳道具一式を詰める。そしてまたバタバタと玄関まで戻り、今度こそ家を出た。
♯
怜が学校のプールで見つけたのは、タイの色の違う制服を着た男子生徒だった。男子生徒はスラックスの裾を膝あたりまで折り曲げ、剥き出しにした足を水に浸していた。
そこにあるのは蝉の声と、ジリジリとした太陽の熱と、光が反射する水面。更衣室とは反対側を見る男子生徒は怜に気づかないまま、微動だにしない。代わりに墨のように黒い影がぼうっと熱を作っていた。
一枚の絵画を目にしているようだった。
怜は暫時声をかけるのを躊躇った。この空間を壊してはいけない気がした。
「……水希先輩」
どれだけ時間が経ったのか怜にはわからない。たった数十秒にも満たなかったかもしれない。口はすっかり乾ききって、水希の名を呼んだ声は頼りなかった。
水希は呼ばれた通り怜の方に振り返った。若葉色の瞳が熱に負けてふやけていた。
「あ……その、遅くなりました」
「別に」
水希は音一つ立てず水中から足を引く。
「俺も今来たところ」
茶番のようなやりとりだ。特に水希のなんて、絶対に嘘だとわかる言葉だった。
水希は濡れた足のままスリッパを履き、ベンチに置いたタオルを掴んで、困惑する怜の方に向かう。
「急がなくてよかったのに」
自分より汗を浮かべる怜にタオルを当てて、水希は苦笑した。
怜が急なことに身をよじった。
「あ、タオル。使ってないやつだから」
「え、はい……」
そんなことを心配したわけじゃないのだが、怜はなんとなく頷いて、水希からタオルを受け取ってしまった。
水希がプールに視線を遣る。
「……水希先輩」
「ん」
「メール、どうされたんですか?」
「……」
水希が返事をしないので怜も何も言えない。
ジリジリと肌を刺す日光が少し痛い。
しばらくお互い黙り込んでいた。怜にとっては苦痛の重い沈黙に、水希が何を思うのか、怜はそればかりが気がかりだった。
「……怜は……俺がおまえを呼んだことによく気づけたな」
急にぽつりと小さくつぶやかれたので、ぼんやりしていればうっかり聞き逃すところだった。
「俺はただおまえに写真を送っただけだったろ。来て欲しいんだって伝えなかった」
「……」
怜は答えかねた。怜自身、あのメールを見て水希がプールに自分を呼んでいると思ったのは直感だった。
理論も推察もなにもない。
行かなければならないと思った。それだけだった。
「日陰に行こう、怜。正直さっきから頭がぼうっとしてるから」
「……いつからここにいたんですか?」
「さあ」
能面のような顔に、水面の模様が映っていた。
水希の表情と声色からは、惚けているのか真面目に答えているのか判断しようがなかった。
日陰になったベンチに腰をかける。2人の間をまたも沈黙が支配するが、今度は怜は負担に思わなかった。
「水希先輩は、僕に何か伝えたいことがあるんですよね」
ぼんやりとプールを見る水希からはどうも話し出すような気がしない。だから怜は自分から切り出した。
水希がピクリと指先を震わせた。波紋のように瞳が僅かに振れた。
「……入部当初、怜はカナヅチだったな」
「は?」
「潜水艦だったっけ」
「……」
相変わらずプールを眺めている水希に言い返す気力がわかない。なんでって、水希は言葉に少しも嫌みを込めていないからだ。口は淡々と、しかし懐かしむように一語一語を紡ぎだす。
「たくさん苦労して、怜はバッタが泳げるようになった」
「……後で水希先輩の専門がフリーとバッタだって知った時は驚きました」
「てっきり真琴あたりが伝えてると思ってたんだけどな。俺は教えられるほどの技量がないし、あのときのおまえは俺のこと怖がってたから願い下げだろうと思って……みんなが怜を特訓したときも、俺だけ教えなかった」
「せ、先輩は放つオーラが近寄り難いんです!」
「はは、よく言われる」
「!」
不愉快とまったく反対の感情が、水希の短な笑い声にこもっていた。だから怜は不意をつかれた。同時、今目の前にいる水希が、怜がいつも見てきた水希とはどこか違うことにも気がついた。
怜は水希が単に思い出話をしているのではないとわかった。これから何の話をしたいのかも。
水面を映す水希の双眸は心なしか泣いていた。
「……怜はあいつらに追いつこうって、人一倍努力した、リレーを泳ぎたいって言った、おまえの決心があったから、みんなも突き動かされた」
「…………水希先輩」
「凛、凛って。過去の話ばっかり。気をひくみたいにちょっと話して、詳細は語らない。正直に言うと俺はあいつらにイライラしてた。もっとおまえを見てやってほしかった」
「先輩、そのことは、もう……」
「俺はおまえに泳いでほしかった」
うるさい蝉がぴたりと黙った。さあっと流れた風が2人の髪を揺らし、肌を撫で、水面には波紋を作る。
水希がやっと怜を見た。怒りと悲しみに濡れた瞳だった。
「怜に泳いでほしかった」
怜は言葉を失った。それだけ水希のすべてが真剣だった。
「あいつらの蟠りが解消したのはおまえのおかげだよ、怜。けど俺は素直におまえを褒めてやれないんだ」
「……あれでよかったんですよ、先輩」
「よかったのはおまえらだけだ」
「、」
「たとえあいつらが前に進めても、どんなにあのリレーがすごかったからといっても、俺は納得してない」
激しく怒鳴られたわけでもないのに、怜は肩を竦めた。静かなその言葉には強い力があった。
「……まあ、怜に文句を言ったってしかたないんだけどさ」
ふ、と水希が相好を崩した。
ミンミンと蝉が再び鳴き始める。
「来年は泳げよ」
立ち上がった水希が怜の頭をくしゃくしゃと撫でる。怜の緊張をほぐしていくかのようだった。
「……水希先輩は、どうしてリレーに立候補しなかったんですか?」
「……」
だからストンとその疑問が外に落っこちてしまったのだろう。けれど怜は慌てることはもちろん、後悔もしなかった。
怜はずっと不思議に思っていた。
怜が見てきた中で、水希はそれなりに泳げていたし、惜しくも次へは進まなかったが、フリーの400メートルで地方大会に出場した。実力はある。それなのにリレーに出ようとはしなかった。
怜の目をジ、と見つめ、水希は徐に口を動かした。
「……競泳は小学校の最後の方で始めた。中学では丸3年間、俺は競泳をしてない。リレーの経験もないし、ちゃんと泳げるって自信がなかったんだ」
「……それなのに個人種目で勝ち進めたんですか?」
「都合上筋トレはしてたし、夏は遙と海に行って泳いでたからひどく落ち込むことはなかったんだろ」
「…………」
怜のじとりとした目が向けられた。水希はそれを見返していたが、唐突にはあと深い息をつくと、困ったみたいに首の後ろに手を回した。
「ごめん嘘」
「やっぱり……で、どこからが嘘だったんですか?」
「どこからっていうか、俺がリレーを泳ぎたくなかった理由が嘘」
水希は不機嫌な声で言う。
「……おまえには話すよ」
すいっと目はプールへ行った。水希が見つめる先にあるのは、怜の目の前にもある学校のプールであるはずなのに、どうも水希の目には違うプールが映っているようだった。
「どこから話そうか」ぽつりと水希が言う。
「全部がいいです」と怜は即座に言った。
水希は驚いたように怜を見て、怜の目が真剣なのを知る。水希の目が穏やかに細められた。
「水泳を始めたきっかけは凛だよ。凛が俺に水泳のことを楽しそうに話すから、それに触発された」
怜は水希の水泳を始めたきっかけは幼馴染の遙か兄弟の真琴にあるだろうと思っていたので、凛に触発されたという意外性に驚きを隠せない。
「つまり凛さんに憧れて?」
「ある種憧れだったのかもね。フリーとバッタを練習してるし」
「え、無意識だったんですか?」
「ん。気にしてなかった」
加えて怜に今指摘されるまで考えたことすらなかったのだが、それを言うと怜が余計に驚愕してしまい話が進まなくなるような気がしたので、水希は黙っておくことにした。
「俺も最初は全然ダメだったよ。だから必死に泳ぐ練習をしてるおまえを見て、懐かしく思ってた」
「そ、そうなんですか……」
「言う気はなかったんだけどね。おまえが全部って言うから」
水希はどこか挙動不審な怜をつつくように付け加える。
「ま、その後の俺の上達記録みたいなのは省くけど」という水希のセリフに、怜は水希が意外と要領がよくいろいろなことをそつなくこなせることを思い出した。きっと早いうちにコツをつかんで、誰かと競えるぐらいには上達したのだ。
「俺はあの4人のリレーを観覧席で見た」
「水希先輩はリレーには、その……」
「誘われなかったよ。俺より早い凛と遙がいるから当然だろ。あとはバックもブレも俺の専門じゃないし」
「……そうですか」
「……? なにその反応……あ、悲しかったとか悔しかったとかそういうの一切ないからそんな顔はやめろ」
水希がわりと本気で嫌がった。あのときのリレーに関しては嫌な思いをしていない、というのが明確だ。とはいっても、彼らを突き放すような印象も受けた。
それはそれでどうなんだろうか、と水希をチームメイトとして捉える彼らのことを浮かべた怜は未だ顔を顰めたままであったが、何も言わずに水希の言葉を飲み込んだ。
「で、昔のリレーの話に戻るけど。すごいリレーだった気がする。多分感動した」
「ところどころ曖昧なんですが……」
「小学生の記憶なんてはっきりしてないって」
「印象深かったらはっきり残ります!」
「じゃあそんなによくなかったのかもな」
「もう! 水希先輩は適当すぎるんですよ!」
「はいはい。ごめんね」
「だからそれが適当なんです!」
まるで渚に怒るように自分に怒ってくる怜には辟易しかけたが、自分の態度と怜の性格とではしかたのないことなのだろうと水希は我慢する。
それでもまだ文句を言い足りない怜の口を、手で塞いだ。むぐっと怜の苦しそうな声がしたが構ってられるものか。水希は話を進めたいのだ。
怜が両手を挙げた。降参のサインだ。
水希はパッと怜から手を離す。
「し、死ぬかと思った……」怜はそう呟いたが、聞こえないふりをして水希は続きを紡ぐ。
「リレーを泳ぎたくなかった理由はそれだよ」
「それ……?」
「怖かったんだ。あいつらの中に入って泳ぐのが。過去と比べられるのが嫌だった」
怜はぱちくりと瞬きした。
「どういう……」言いかけて、やめた。
ああいう風に言った割に、水希は昔のリレーのことをしっかり覚えているのだ。どれほど魅力的であったのか、感動するものだったのか。覚えているからこそ、3人の中に入る気になれなかった。引け目、4人を見たが故の心理的な距離。それが水希がリレーを泳ぎたくなかった理由だ。怜はそう理解した。
「……僕は、水希先輩の泳ぎは美しいと思います」
「入水角度とか?」
「そうじゃありません!」
「は、冗談。そんなに怒るなって」
ひらり。水希が手を振った。
その困り顔を見た怜は、高ぶった気持ちがしゅんとしぼんでいくのを感じた。
そうだ。この人は、素直にありがとうを言うのが苦手な人だ。
「……だから怜に泳いでほしかった」
消えそうな声。
怜はきつく唇をかんだ。
だから。その接続詞が一体どこから導き出されたのかは怜にはよくわからない。
彼らに追いつこうと必死に努力した怜を見ていたからか、泳ぐ勇気のない水希の気持ちを怜に託していたからか、あるいは別の感情からか。
ただ一つだけ言えるのは、水希が心から怜に泳いで欲しいと思っていた、ということだ。
怜は、凛にリレーを譲った後悔はない。しかし今までの自分の努力を強く肯定され、なおかつ、あの場に立つべきはお前だったのだと言われると、胸が苦しく、泣きそうだった。悔しさと嬉しさが混じって、胸は張り裂けそうだった。
「怜」
ぐずりと鳴った鼻に被せるように水希が怜を呼ぶ。
「はい……」
「水着は」
「持って、きました……っ」
「ん。俺たちは暑くてたまらない。そして目の前にはプールがある。わかるな、怜?」
「はい……っ!」
よし、と腕を組んだ状態で、水希が満足げに頷いた。
「着替えよう」
「いい、でしょう……!」
顔を上げて涙をこらえる怜の腕をとって、水希は更衣室へ歩き出す。
「怜、今日の話は全部が俺たちだけの秘密だよ」
「わかり、ました……っ」
「もちろんおまえが泣いたのも、内緒な」
「泣いてませんっ!」
「そう?」
ならば蝉の鳴き声に混じる鼻をすする音は、暑い中ぼうっとしていたせいで頭がいかれた、ということにしておこう。水希はそう心内呟いて、ほんの少し笑った。