「どうしようかなあ……」
「……」
どうしようかなあ、というのが真琴のすべてであり、正直なところなんの策も思い浮かばないというのが現実であった。そもそも目の前の“少年”がかの幼馴染であるということが、受け入れられていないのかもしれない。夢ではないのかと頬を抓るのでせいいっぱいだ。
「痛い」
「あ……ごめん」
無意識に頬を抓っていたらしい。少年は苛ついた様子で真琴の手を叩いた。自分の頬を抓ればいいものの、ここで少年の頬を抓ってしまうあたり、真琴は動揺している。
ともかく少年は痛いと訴えた。それに叩かれた手はなかなか痛かった。痛覚がある。夢ではないらしい。
「どうしようかなあ……」
そしてまた冒頭のセリフを真琴は口にするのである。
はあ、と大きく遙がため息をついた。
「とにかく、服をどうにかしたい」
「あ、そっか……それじゃダボダボだもんね」
――ひょんなことから小学生まで戻ってしまった遙(怪しい黒ずくめを追いかけたわけではない)の格好は、青いシャツとベージュのズボン、お決まりのエプロンだった。
ここで水着でなかったのは不幸中の幸いかもしれない。真琴はシーツをかぶっているんじゃなかろうかと、二度見だけでは間に合わない遙の姿に生暖かい視線を送り、「ハルの子どもの頃の服って残してあるの?」と聞いた。
遙は少し考え――首を横に振る。どこかにあるのは確かだが、それがどこなのかはいまいちピンとこない。
「それなら蓮の服、持ってこようか?」
「……ああ、そうだな」
真琴にしてはすばらしい提案じゃあないかとか、そんな蔑みはゴクリと飲み込んでおいた。
じゃあちょっと行ってくるねと、遙に背を向けた真琴を見送った後は、静寂が訪れる。どうしてこうなったのかと、自分の小さな手を見つめて、遙はため息をついた。
至っていつも通りを過ごしていた。
遙の家の日めくりカレンダーの数字は朱色、ものによって異なることもあるが、大体は日曜日だ。特に用事はなく、遙は昼食の準備に取り掛かろうとしていた。
遙がエプロンを着用したとき――ピンポン、と呼び鈴が鳴った。誰だろうかと、返事をしながら戸を開けると、そこにはいかにも関わってはいけない雰囲気の、スキンヘッドの男たちが――――
「ハルー、来週の合同練習の話なんだけど」
――いるわけもなく。
ラフな格好をした真琴が、手にキャンパスノート(真琴が持つと妙にノートが小さく見えたことはさておき)を持って、困ったように眉を八の字に下げていた。
とりあえずあがれと、真琴に背を向けたときに事件は起きた。
真琴が玄関に足を踏み入れるや否や、ぼんっと破裂音。ひいっと情けなく声を上げる前で煙に包まれる幼馴染。意図せずとも煙を吸い込んでしまい、えほえほと噎せながらも、真琴は遙の無事を確認しようと声を上げた。
「ハル! ハル、大丈夫?!」
「大丈夫、げほっ……」
そこで真琴の胸に妙な違和感が掠める。なんか今、声が高くなかったか、と。
しかしそんなことはあるまいと、真琴は違和感を振り払い、遙の無事を視覚的に理解するために煙を払い――そこから現れた幼馴染に、驚き声をあげることすらできなかった。
多分、真琴の驚きは腰を抜かす直前だった。
つまり何がどうしてこうなったのかは、遙自体わかっていない。昼食を作ろうとしていたら真琴がやってきて、それを家にあげようとしたら、煙幕。敵襲かと思った。
煙が引いたときに見たのは、唖然とする真琴で、どうしたんだと聞けば「早く鏡!」とわけもわからぬまま洗面所まで連れて行かれた。それで遙も潔くご対面したのだ。
まさか真琴が後ろから魔法をかけたのではないか、なんて。それなんてファンタジー、頭が疲れている。
(どうしてこうなった……)
見た目は子供、頭脳は大人! なんていう、某バーロー状態である。遙は頭を抱えた。
♯
真琴が蓮の服を持って戻ってきて、遙のファッションショーは早速始まった。ちょっときつい気もするが、まあ許容範囲かな。そんな遙の表情を見た真琴が苦笑いしたことはさておき。
これからどうしよう、というのが当然の議題だった。といってもその会議は1も進んでいない。
もう耳にタコができるほど聞いた真琴の「どうしよう」にうんざりする。彼と話していても永遠とどうしようで結論に至らない気がした。
とは言っても真琴を罵声することなぞ遙にはできない。ため息を飲み込んで、肩をすくめた。
「そうなった理由も、戻る方法もわからないもんなあ……」
と、真琴が行き詰まるのも無理はない。彼の言った通り、子供に戻った原因も、元に戻る方法も、何もわからないのだ。
遙も次は隠さずため息をついた。
「……とりあえず、今日はこのまま過ごす。何かの拍子で戻るかもしれない」
「……うん。うん、そうだね」
真琴はこくこくと力なく頷いた。自分が少しも戦力になれなかったことがひどくもどかしいらしい。
まあそんなに気にするなと遙が彼をなだめようとした時に――「いとこ?」と、慣れ親しんだ声がした。
真琴のものではない。まして遙のものでもない。明らかに第三者のものだ。
さあっと真琴たちの顔から血の気が引く。
不思議そうに遙を見つめる水希が、立っていた。
一体いつからそこにいたのか。
「インターフォン鳴らしたけど」
あまりにも真琴が幽霊を見たかのような顔をするので、不愉快になった水希が低い声で言う。
真琴は慌てた。慌てた末に頼るところは幼馴染であり、うっかり呼んでしまったのだ。「ハル」と。横の少年に向かって。
「ばっ……!」
「あ! うわ、ごめん!!」
遙の非難が皆まで言われる前に失態に気づき真琴は口を押さえる、が、今更すぎる。そんなことをして、前言撤回できると思っているのか。
思った通り、水希は不機嫌な顔をいくらか柔らかくした、怪訝な顔になった。
「ハル?」いつもより高い位置から自分を見下ろす視線に、遙は唾を飲み込む。ばれて困ることはあまりない、ないけれども、なんとなく自分の弱みを水希に握られるようで、いやなのだ。
「うわ、おまえガキに戻ったの? そんな体験二度とないから楽しめよ」とか「その年のころから生意気なツラさげてたんだ」とか、嘲笑しながら言ってくるに違いない。
とんだ被害妄想だったが、遙のめまぐるしい思考など誰も読めやしなかった。
「おまえ――」
万事休す。
「ハルっていうの?」
しん、と(真琴と遙の)空気が静まり返った。
背の縮んだ遙に合わせるためか、水希が腰を曲げて膝に手をつき、遙に聞いた。そこには何の疑いもない。
遙と真琴は顔を見合わせる。
まさか――気づいていない?
「おまえ、遙の従弟かなんか?」
「え、あ……」
「そ、そうそう! その子、ハルの従弟なんだ!!」
遙は慌てて真琴の洋服を引っ張った。そんな適当なことを言ってどうする気なんだと。「へえ、似てる」とか、完全に水希は信じてしまったじゃあないか。
「おいっ、真琴!」
「とりあえず合わせて!!」
コソコソ話す声は水希には聞こえていない。加えて、2人が内緒話する様子は、遙の従弟(ではなく他ならぬ遙本人)が急に知らない男に声をかけられ、恥ずかしくなり、真琴に助けを求めているようにしか見えていなかった。親戚のおじさんなんかに話しかけられて、母親の後ろに引っ込む子どもみたいなものだ。
「恥ずかしがり?」
「う、うん! ハルは人見知りだから!」
「なんか、おまえ紛らわしいな。遙のこともハルだし、遙の従弟のこともハルだし」
ハルでゲシュタルト崩壊しそう……とつぶやく水希。
「あははは! ほんとに! ね、紛らわしい! ね!」と口を引きつらせて、苦しい笑い声をあげる真琴。
こいつに任せて大丈夫なのだろうかと、遙はひどく不安になる他ない。
「で、遙は? 俺、あいつに用事があるんだけど」
「え、えーっと、ハルは、ほら、あれ……」
「……遙兄ちゃんは出かけた」
「えっ?! あっ、そうそう! ハルは出かけちゃって!」
見兼ねた遙は真琴をフォローした。
真琴がこの世のものでないものを見る目をしてきたが、自分だって鳥肌が立って久しいのだ。自分のことを、「遙兄ちゃん」だなんて。
「は? なにやってんのあいつ」
「えっと……」
「従弟を置いて? どっかいったわけ? クズだな」
「……」
冷めた目をしてぽんぽんと遙の悪口を言う水希に、真琴は内心震え上がっている。
いるよ! 超目の前にいる! そこで今にも人を殺しそうな目をしている子どもがハルだよ! 七瀬遙だよ!!
冷や汗ダラダラ。真琴の悲痛な胸の叫びなどつゆ知らず、水希は続ける。
「まあ、あいつ子どもの世話とか無理そうだし。ほったらかしてどっか行くのは普通か」
「……」
(耐えてハル!!)
「あいつが心を通わせられるのって水だけだもんな。人とは仲良くなれなくて、そのうち壁に話しかけてそうっていうか」
「…………」
(頑張ってハル!!)
「あ、かろうじて真琴はいけるか。ん、でも自発的じゃない……な。どっちみち自分からは歩み寄れてないから根本は解決してないのか?」
(ハルがんばっ……ああー!!! ダメだ! あの顔はもうダメだあぁ! 水希もうやめてえええええ!!!)
遙の目から光が消えている。やる気だ。彼は水希を殺す気だ。
遙の手が、ゆっくりとあがる。
水希を殴る気なのだ。
「でも、根は優しいし、人のこともよく見てる」
遙の腕をつかもうとした真琴の手も、水希を殴ろうとした遙の手も、ピタリと、宙に留まる。
口元に手を当て、目は遠く。ずっと何かを振り返るように斜め上を見て言葉を連ねていた水希が、ふっと笑った。
「素敵な人だよ」
本当に、しんから、思っていること。優しい、なんて言葉じゃたとえられないぐらい甘い瞳を今にも蕩け出しそうなほど柔らかく細めて。嘘は一つもない。
聞いていた真琴も、そして遙も、顔に火がついた。ボッ、と。そんな音が鳴ったかもしれない。
「遙に用事があってきただけだから、いないなら帰るよ。その様子じゃハルの世話は真琴がするみたいだし」
2人が固まってしまったことにも気づかずに、水希は背を向けて歩き出した。
遙は急に弾かれて水希の元に駆け寄った。
「……何の用、だったんだ?」
「ん? いや、大したことじゃないよ。ちょっとコンビニまで一緒いかないかって聞きに来ただけ」
留守番頑張れよ、と水希は遙の頭をくしゃくしゃと撫でて今度こそこの場を後にした。
またもその場で固まる遙を我に返った真琴が見て思うことは1つ。
(ハルのこと蘭たちと同じ扱いだった……)
あんな優しい笑み、弟妹たちにしか見せないし、わしゃわしゃ頭を撫でるのだってそうだ。
真琴は家でよく見かけるから慣れているが、さて遙はどうだろう。「お兄ちゃん」な水希のことなど、ほとんど知らなかったはずだ。
「……ハル大丈夫?」
「あ、ああ……」
遙は真琴に声をかけられて正気に戻った。とはいっても、目をあっちにキョロキョロ、こっちにキョロキョロ。少しも落ち着いていなかったが。
そんなこともあったが、1日子供で過ごした遙は、翌朝目覚めるとすっかり元に戻っていた。あまりにもあっけなかったのでもしや夢だったのか? と思ってしまった。
けれど外の石段まで行くと、待っていた真琴は遙を見て、心底安心していた。戻ったんだね、と。つまり、夢オチではない。
学校には3人で行く。だから真琴の横には水希がいるわけで。
「なに、おまえさっきからなんで露骨に俺を視界から外すわけ」
「……気のせいだ」
「言いつつかなり目ぇ逸らしてんじゃん」
不愉快極まりない、といった顔をする水希と、仏頂面の下に動揺を隠している遙を見て、真琴はこっそり笑った。