※2人とも大人、病んでる、暗い


 ぱちと目を覚ましてそろりとあたりを伺う。カーテンは開いておらず薄暗い。横の膨らみはまだすうすうと穏やかな寝息を立てており、体温もこどもみたいだ。
 水希はするりと布団から抜け出して、しばらく布団の膨らみを眺めた後、それがどうも動きそうにないことを確認すると、抜き足、差し足、部屋のドアを開ける音すら許さずに、忍び足でそこを後にした。
 まだひやりとした廊下を音を立てずにかけて、襟の高いジャージのジッパーを口許まであげる。素足でスニーカーを履き、玄関の鍵を下ろした、ちょうどそのときだ。
「水希」
 ぽん、と優しく肩に手を置かれたって、声は一瞬にして奪われた。勢い良く振り返るとすっかり目の冴えた遙がいる。さっきはぐっすり眠っていたはずだが、どうやらうまく狸寝入りしていたらしい。
「おはよう」
「……おはよ」
「なにしてるんだ?」
 怒っているのか、読めない表情の遙から逃れたくて後退しようにも肩を掴まれていては身動きが取れない。水希は答えかねて視線を落とした。
「水希」
 もう一度呼ばれて恐る恐る顔をあげる。
 青い目は――寡黙であったが怒ってはいないようだった。
「一人で出かけるのはダメだ」
 子をあやすように言われると拍子抜けだ。これといったきついお咎めがないことに驚いつつも安心した水希はふっと肩の力を抜いて、弱々しく、遙に謝った。
(……失敗だ)
 靴を脱ぐよう促され、従えば腕を掴まれリビングに連れられる。その途中で水希は玄関を振り返り、なんともいえない表情を浮かべた。

 朝食は水希が作った。毎回サバばかりだと胃がおかしくなりそうだからだ。遙は不服そうであったが、特に反抗はしてこないので、曜日ごとに割り振った食事当番制はうまくいっている。
「夕飯は俺が作る」
「……? いいよ、疲れてるだろ」
「いや……俺が作って、水希に食べさせたいんだ」
 ダメか、なんてさみしそうにされてしまえば頼むほかない。
 ダメじゃないと慌てて首を振って「俺もおまえの料理、楽しみにしてるから」と控えめに笑う。そうすれば遙が嬉しそうに目を細めるので、水希も安心するのだ。
 もともと口数の少ない男たちなので、食事の席でそんなに言葉が行き交うことはない。
 今日もぽつりぽつりと昨日話しそびれた職場であったことや真琴たちに出会ったことを、遙がゆっくり聞かせてやった後は、ごちそうさまと手を合わせ、遙がするより先に水希が食器を全部重ねて流しに持って行った。
 きゅっと蛇口をひねって水を流す。まだ洗わないが使用した食器は水につけておきたいのだ。
「水希」
 水に触れる指先がぴくりと震えたのは、水温が原因ではない。
 ばくばくとうるさい心音を無視して、平然を装い返事をする。振り向きざま、さり気なく目をやった壁掛け時計は遙の出勤時間ギリギリを示していた。
 水を止め、手を拭き、誘われるようにふらふら遙のもとに向かう。遙の手には見慣れた“装飾品”があった。
(今日も変わらず……か)
 黒色の足枷。初めてあれを見せられたときは相当混乱した。だけれどもう見慣れた。
 長い紐は刃物を使っても容易に切れるものではなかったし、紐を切ろうとしたことが遙にばれ散々な目にあったことは忘れもしない嫌な記憶なので、2度とはやろうと思わない。だからあれが鈍く光る鎖でないだけ精神的にまだマシなのだ。
 ソファに腰かけた水希の前に跪いて、細い指で何の無駄もなく遙は足枷を水希の左足首につけた。肌と革のゆとりは気持ちだけある。サイドにある小さな鍵は、今、遙のポケットに入れられた。
「……じゃあ、行ってくる」
「ん」
 跪いたままやんわり目を細める遙に、水希は聞き分けのいい、いい子の笑顔を浮かべた。
 立ち上がった遙が水希の手を掴み、同じように立ち上がらせる。玄関まで見送りに行くのはいつものことだ。
 ……左足が重いのも、いつものことだ。
 玄関につくと遙の手が名残惜しそうに離れた。それ以上はついていけない。玄関土間までは紐の長さが足りないのだ。水希は遙が靴を履くのをぼんやりと見つめた。
「いってらっしゃい」
「ああ」
 靴を履き終え玄関の鍵を開けた遙は、そこから当たり前のように外の世界へ足を踏み出し、水希の見送りの言葉に、わかりづらいが嬉しそうに笑った。
 ぱたんとドアがしまる。即座にがちゃんと音を立てて下りた鍵は外から遙が閉めたのだろう。水希が鍵を閉められないのは、しつこいかもしれないが、いつものことだ。
 シンと静まり返ったその場にしばらく佇んで、ずるずる、背中を壁に削らせながら、水希は座り込んだ。
 遙を見送ったときとは似ても似つかぬ疲労困憊した瞳をふっと足元に向ければ、図々しくもそこに腰を下ろす足枷の存在をいやでも認めてしまう。
 舌打ちの代わりに多少のゆとりがあるそれを強く引っ張ったが、びんときつく張っただけで、水希の望む繊維の切れる音は聞こえてこなかった。
 外に出たい。このままだと自分はおかしくなってしまう。
 過った本心を追い出すように頭をぶんぶんと振った。タイミングよくも機械音を鳴らした洗濯機。そうだ、洗濯物を干さなければ。
 足枷のせいで不自由になることはほとんどない。家の中ならば大体歩き回れる。
 カゴに移した洗濯物で両手を塞ぎ、バルコニーに通じる窓の鍵を足で開ける。鍵は上下に動かすものなので、そこまで複雑ではない。
 窓をスライドさせるのも足で行い、水希はバルコニーに出た。新鮮な空気が肺を刺激する。ここからすぐ見える通りではランニングをする人や、通学する学生らで賑わっている。
 自分があんな風にしていたのは、いつまでだっただろう。ますます重たくなった左足を引きずりつつ、洗濯物を干し始めた。
 逃亡を図ったのは何も今日が初めてではない。一番初めなんかは、遙が見ている前で足枷を外そうともがいたものだ。
 外に出られないわけじゃない。遙のレストランでの仕事がない日は外に連れ出してもらえるし、真琴たちとも会える。それに、遙が気まぐれに彼らを家に招くこともある。が、どれも遙がいた。水希は、一人では外に出ることも真琴たちに会うことも許されなかった。
 この部屋には電話がない。固定電話も携帯電話も、加えてパソコン、タブレット……とにかく外の人間と関わる手段は一つもない。外の様子を知ることができる唯一のものはテレビだ。
 軟禁された理由はなんだったか。水気の随分飛んだ洗濯物を干しながら水希は振り返る。
 同居を始めた当時は足にこんなものついていなかったし、四六時中家にいるなんてこともなかった。水希もカフェテリアで働いていた。家事はしているといえど、こんな、収入は専ら遙に頼りっぱなしの――つまりはヒモなんていう――生活はしていなかった。
 いつからだったろう。足枷をはめられるようになったのは。いつだったろう、急にこの部屋に閉じ込められたのは。最近は同じような日常の繰り返しで、どうも物忘れが激しいようだ。なにも思い出せなかった。
 洗濯物を干し終えた水希は室内に戻り、カゴを浴室に戻す。
 遙が帰るまですることはなにもない。ただただソファに横たわってぼうっとしているだけのあれは、ますます自分の気を鬱ぐだけだと気づいたので、最近は適当に家事をして、終われば遙がたまに買ってくる雑誌を読んで、それがなければクッキーを焼いてみたり、ケーキを作ってみたり、とにかく気を紛らわしている。
 そうでもしないと、「外に出たい」と思ってしまうから。「理不尽だ」って叫びたくなるから。「遙が嫌だ」って彼を拒絶してしまうから。
 けれども今日はやる気が起きなかった。今朝の逃亡が失敗したからだろう。
 水希はばたりとカーペットの上に倒れこんだ。
「……どうして」
 ぎゅ、と拳を握る。
 枯れた涙は流れてくれなかった。
 どうして――こうなってしまったのだろう。水希も遙も、想いが通じあったことをひたすら純粋に喜び、お互いを大事にしていたはずだった。
 足枷なんて必要なのか。軟禁する理由はなんなのか。いつからだったか。思い出したいのに思い出せない。
 遙は決して人の嫌がることをするような人間じゃなかった。なのに。
 遙が壊れてしまった。自分のせいで。
「俺は……、……」
 何をしたのだろう。遙に何を言ってしまったのだろう。
 悪いきっかけなしにはこんなことになるはずがない。なのになにも思い出せない。少しも心当たりがない。
「……外に出たい」
 何ヶ月だ? 何ヶ月、俺はこうしている。
 ただ起きて、遙を見送って、遙が帰ってくるまでぼうっとして。なんのために生きているのかわからない。そうだ、わからないことだらけなのだ。
(……死んでるようなものだ)
 水希はゆっくり目を閉じた。
 目を開けた先がいつもの遙のいる日常であれば、そうでないのなら、もう、目覚めなければいい。
 意識と一緒に血の気が引いていくのがわかる。本当に死んでゆくようだった。


 水希が外に出たがっていることを遙は百も承知していた。だけれど遙はどうしてもその願いを叶えてやれなかった。
 高校時代、いや、それ以前から遙は我慢していた。
 水希が自分の手元にいないとひどく不安になる。自分の見えないところで、水希が自分以外の他者と交流しているのだと思うと寒気がした。
 嫌だ。
 遙にあったのはただその一語だけだ。
 好きだと思い通じ合っても心が休まるのはほんの一瞬のことだった。満たされた瓶はすぐ空になり、遙は泣きそうになった。瓶をもう一度潤すことができるのは水希のみだった。
 そして、その瓶の水を干し上げることができるのもまた、水希だけだった。
 遙と似ているように見えるが水希と遙は案外違う。遙は根っからの口下手だが、水希は単に口が悪いだけで、伝えたいことはそれなりにスラスラ言える質だ。真琴と比べればやはり劣るが、遙と比較するなら、水希はわりと人と関わりを持つ方だ。
 だから交友関係も広がりやすかった。
 大人になり同棲を始めてからも、それは当たり前にそのままだった。
 高校まではまだよかったのだ。だって自分も同じ場所にいて、水希は遙の手の届く範囲にいたから。
 遙とは違う職場で働いていた水希は、いつの間にか遙の知らない人と親しくなり、遙の知らないところで相好を崩していた。
 お互いに顔を合わせたときに、水希から、遙の知らない人の話を聞かされるのがひどく苦痛だった。水希は遙に楽しかったことを共有したくて、なんの悪意もなく話していることぐらい理解していた。でも、嫌だった。水希の幸せの根源にあるのはいつだって自分がよかった。
 初めは小さな独占欲だったのかもしれない。それを我慢し続けてしまったが故の。
 夕方。レストランでの仕事を終えて帰宅する。
 家に上がった遙が真っ先に見つけたのは、カーペットの上に倒れている水希だった。遙はぞわりと全身の毛が逆立つような寒気を感じたが、水希が穏やかに胸を上下させているのに気づいてほっとした。
 寝るならソファーで寝ろ。心内文句を言いながら遙は水希を抱え起こす。眠っている人間が重たいというのは本当のようだ。遙は水希を抱えるのに少し苦労した。
 ふっと水希の足枷が目に入った。
 遙が自分の気持ちを表現できていたのならこんなものはいらなかったのかもしれない。
 遙はわからなかった。自分が水希に対して感じる不安をなんと伝えればいいのか。
 泳げない人間の気持ちが遙にはわからない。だから泳げない人間になんと声をかければいいのかわからない。遙が水希になにも言えなかったのはほとんどそれと一緒だった。
 遙はポケットから出した小さな鍵で水希の足枷を外した。ぱたりと枷はカーペットの上に落ちた。
「……水希」
 少し冷たくなった体。水希の背中をさすってやると、まるで血が巡り始めたかのように少しずつあたたかくなっていく。
 苦しんでいるのは知っている。断絶された世界に寂しがり、こうなってしまったのは自分が何かしてしまったからだと自分自身を責めているのも遙は知っているのだ。
 それでもここから出してやれない。ここに水希を閉じ込めることで遙の不安が拭われたのは本当だから。
「……ごめん」
 背中をさすられたあたりからぼんやり目が覚めていた。
 ぎゅ、と水希が遙をきつく抱きしめた。卑怯だ。謝られたら、もう、なにもわからなくなる。
 こんなに近くにいるのにとても遠い。溝を埋めたいのにどうしてうまくいかない。
「……遙」
「……」
 震える水希を遙は優しくあやす。水希が悲しむのは嫌だ。遙も気が鬱ぐ。けれど彼の涙の理由が自分にあると思うと、満たされていく。水希には、自分しかいない。
 遙は静かに目を伏せる。
 次に目を開けるときには、2人っきりの世界であればいい。