ソーダ……いや、ピーチか?
腕を組んで冷凍庫の前に立ち続けている間に、コンビニのドアが何度開閉したかはわからない。先ほどきた客がビニル袋を揺らして出て行っても、水希は突っ立ったままである。
そろそろレジ打ちの従業員が怪訝な顔をし始めた。
ピローン、と可愛らしい電子音。新たな来客だ。
彼もまた、己の買い物をするかと思えば――、はたと足を止めて、水希に駆け寄った。
「水希?」
水希は冷凍庫からふっと視線を上げ、横に立った人物に首を傾げた。
ふわふわとした桃色の髪、綺麗な紫の瞳。身長は真琴といい勝負なので、水希は彼を見上げなければならない。
「貴澄」と半ばため息のように彼の名前を呼ぶ。
「なにしてんの?」
「スイミングクラブに颯斗が忘れ物をしたんだ。それを取りにちょっとね」
「笹部さんのとこ、今日開いてないよ」
「え」
貴澄がパチパチと瞬きする。
「閉館日なんだよ、今日。はるばるご苦労だったな」
水希はそれだけ言うとまた冷凍庫の中を見つめた。
その横で貴澄ががっくり肩を落とした。
「……そういう水希は何してるの?」
「アイス選んでる」
それは見ればわかる。
貴澄が聞きたかったのは、岩鳶水泳部のものではないジャージを着て、ほんのり髪を湿らせた水希のことだ。
彼はどう考えたって泳いだあとだろう。
しかしまだ屋外プールで泳ぐには厳しい季節。岩鳶には屋内プールはないし、岩鳶SCも休みで、鮫柄学園もここから遠い。はてさてどこで泳いでいたというのか。
いくら待ったって水希からは話を切り出さないことを知っている貴澄は、自分から口を動かす。
「泳いでた?」
「ん、まあ」
「どこで? もうプール開きしたの?」
「まさか。こんな寒い中屋外プールなんて死にに行くようなものだろ。笹部さんのとこだよ」
「……へ?」
貴澄はきょとんとする。
岩鳶SCは今日は閉館日なのだと、水希はついさっき言ったばかりだ。なのに水希はスイミングクラブで泳いだのだと言う。一体どういうことだ?
混乱する貴澄に気づいているのかいないのか、水希は未だ悩ましげに冷凍庫の中のカップアイスを見つめている。
「スイミングクラブは閉館日なんだよね?」
「うん。だから頼み込んで、遙が貸しきってる」
「え、貸切?」
「遙は小学校の頃から笹部さんと知り合いだから」
古くからの付き合いなので無茶な願いを聞いてもらえたんだろう、と水希は言いたいらしい。
貴澄はへえと感嘆しながらも質問を続ける。
「真琴たちもいるの?」
「いや。誘ったけど来なかったよ。だから遙と俺だけ」
「ふうん? じゃあ水希はハルとプールデートしてたんだね」
「ただの付き添いだよ」
水希は面倒くさそうに言った。
なにやら楽しそうにする貴澄を一度だけ睨んで、水希は冷凍庫のふたを開ける。そこから取り出したのは、2つのカップアイス。決められないのでどちらも買うことにしたのだ。
「真冬にアイス?」
「うるさいな。食べたい気分なんだよ」
「それ、片方はハルの分?」
「なわけないだろ。どっちも俺が食べる」
てっきり遙のために買うのだと思っていたので、貴澄は拍子抜けした。
途端に貴澄は思いついて、たくさんの飲料が並ぶ方に向かう水希から、ひょいと水色のカップアイスを取り上げた。
「なに」
「僕がこっちを買うから、半分こしようよ。さすがに2個も食べたら、お腹冷やしちゃうって」
「……」
水希はふいっとそっぽを向いて、レジに向かう。
なにも言わなかったが、貴澄に商品を任せたままなので、賛成なのだろう。
(本当、素直じゃないなあ。結局ハルにも買ってるし)
貴澄は水希が桃のアイスとは別に、ミネラルウォーターを持っているのをこっそり笑いながら、彼のあとを追った。
貴澄も岩鳶SCに来ることになった流れには特になにも言わず、水希は彼と一緒に歩いた。
ポケットに入れていた鍵で入り口をくぐって、内側から施錠する。貴澄のようにここに訪ねてくる人がいた時、開いていたら入ってしまうからだ。
貴澄は軽くスキップをしながら水希の後に続いた。
更衣室に足を運んで、水希はロッカーから水着を取り出す。一度脱水にかけたのでそんなに濡れてはいない。
「あれ? 水着、着てなかったんだ」
「遙たちと一緒にするなよ。外に行くんだから、着替えるに決まってるだろ」
貴澄を不機嫌な様子でねめつけてから、腰にタオルを巻き、水着に着替える。
遙たち、とは。他に誰のことを言うのか気になったが、まあなんとなくわかる。おかしな時期に転校した友人。尖った歯の持ち主のことだろう。
貴澄はカラカラと笑ってズボンの裾を折る。
着替え終わった水希がビニル袋を片手にプールの方へ歩き出す。
貴澄はその少し後ろに続いた。
エントランスからそうだったが、人気のないプールは森閑としておりどこか神秘的なものを感じさせる。
貴澄はプール独特の塩素のにおいにほうと息を吐いた。
「遙」と、水希は姿の見えない幼馴染を呼ぶ。
すぐにぱしゃんと水が跳ねる。
水面に顔を出した遙は、左右に頭を振って額に張り付いた前髪を避ける。しばらくぶりの空気を目一杯吸い込んで、大きく吐き出す。ふっと視線をあげれば、幼馴染と、もう1人。
「弟の忘れ物を取りに来たって」
遙の怪訝な視線に気づいた水希がそう伝える。
貴澄は遙に向かってひらひらと手を振っている。
眉を顰め、遙は水中に戻った。
「ハルは相変わらず冷たいね」
「いちいち気にしてたらきりがないと思うけど」
水希は壁際に移動して、乾いたタイルの上に座る。
かさかさとビニル袋を鳴らして取り出したのは薄桃色のカップアイス。
貴澄も水希の横に腰を下ろして袋を漁る。
「貴澄。ん」
ずいっと貴澄の目の前に差し出されたのは、プラスチックのスプーンに乗せられたアイスクリームだ。
いきなりのことだったので意表を突かれたが、貴澄はぱくりと咥えた。
アイスクリームは口の中ですぐに溶ける。桃の香りと甘い味が広がっていく。
「冷たいね」
「アイスを初めて食べたみたいな反応だな」
水希はほんの少し笑った。
一口二口、口に運んで、水希はゆっくり腰を持ち上げる。右手には食べかけのアイスを、左手には未開封のペットボトルを持って、向かう先はプール。
「遙。水分補給」
パシャパシャ。指先で水面を叩く。
「遙」
もう一度呼ぶと、少し離れたところでクロールをしていた遙がすうと水中に潜り、ゆらゆらと影を揺らしながら水希の方へ泳いできた。
「イルカの飼育をしてるみたいだ」
そっと顔を出した遙に、水希はペットボトルを渡す。
水希の発言に顰め面をしていた遙だったが、差し出されたペットボトルを素直に受け取って、水希に礼を言った。
「水希」
「うわっ」
急に貴澄が乗りかかってきたので、水希は危うくアイスをプールに落とすところだった。
「ほら。あーん」
文句を言おうとした口に、アイスの載ったスプーンが侵入する。
するりとスプーンが抜かれた後に残るのはソーダ味。「もう一口いる?」と聞かれ、水希は頷く。
くすくすと笑いながら貴澄が水希にもう一口、掬って食べさせようとした時だ。
プールの中で渋い顔をしていた遙が、ついに行動に出た。遙はペットボトルをプールサイドに置くと、水希の腕を掴んで、躊躇なく彼をプールに引き摺り落とした。
バシャンと大きな飛沫が舞った。
ぶくぶくと上がる泡。
「ぷはっ! 遙!」
勢いよく顔を突き出し、まず幼馴染に向かって怒鳴る。
遙は悪びれる様子もなくすいーっと泳いで行ってしまう。
濡れた髪をかきあげて、水希は水を吸ってダメになったジャージを脱ぐ。プールは温水なので震え上がることはない。不幸中の幸いだ。
大きくため息。あの魚を追う気などわかない。
すうっと水を分ける。
不機嫌丸出しに、タイルの上に水浸しになったジャージを投げおく。
「あはは。災難だね」
ス、と伸びてきた手を水希はジと見つめる。
「貴澄、おまえ何で笑ってんの」
「ヒミツ」
貴澄は、しぶしぶ手を掴んだ水希を引き上げた。
あの一瞬でなんとかアイスは避難させたので、水希の食べかけだった桃味のそれは貴澄の横にあった。
「相変わらず不器用だよね」
「は?」
濡れたままアイスを食べ始めた水希は、不思議そうに貴澄を見る。
にこにこと笑う貴澄は答える気がない。
わけのわからない行動をとる遙と貴澄に苛立った。水希はやけ食いのごとくアイスをいっぺんにかき込んで、その冷たさに一人悶えた。
「あ。ハル」
「うわっ」
すいーっとこちらへ戻ってきた遙は、手で水鉄砲。水希に向かって水を発射した。
空になったアイスの容器に水が少し入った。
「さっきからなんなのおまえ……」
「別に」
かなり不機嫌な顔で睨まれたって、遙は竦まない。
また水中にもぐって、自由に泳ぎ出す始末だ。
水希は唖然とその姿を目で追う。濡れた顔を拭うのも忘れていた。
「なんなんだよ……」
日ごろから会話はあまり成り立たないが、今日の遙の行動は、そんな日ごろ以上に奇妙すぎる。何がしたいのか、水希にはさっぱりわからない。
「……あ。貴澄おまえ、忘れ物取りに来たんじゃないの?」
「あ。そうだった」
忘れてたのか、とあきれ顔をする水希。
「どこ?」
「多分更衣室にあるよ」
「ふうん、じゃあ俺はここで待ってる。出るとき声かけて」
声かけ云々は、現在の鍵の管理は水希がしているからだろう。
それだけ言うと、水希はプールに体を滑り込ませる。
遙のようにひと泳ぎするらしい。
貴澄はゆっくり立ち上がる。一度だけ泳ぐ遙を見て、更衣室に向かった。
ひた、と響いたのは貴澄以外の足音だ。
貸し切りのプールにいるのは、水希と遙と、それと貴澄。彼の後をついてくるのはどちらか2人なわけだが、貴澄をついさきほど送り出した水希なわけがない。
貴澄はさして驚かずに振り返った。
「ハル」
彼が自分の後をついてくるだろうというのは十分、予想の範囲内だ。
遙は貴澄の笑顔が気に食わない、とでもいうかのように顔を顰めている。
「そんなにしわを寄せてると、取れなくなるよ?」
「水希にもよく言われる」
「あ、そうなんだ」
そういう水希だって日ごろから人相悪いのに。
貴澄がくつくつと喉を鳴らすと、それに比例して遙の不機嫌が増す。
「あまり構うな」
遙がぴしゃりといった。
あまりにも足りない言葉だったが、貴澄には十分伝わった。
やっぱり嫉妬していたのだ。
貴澄に餌付けされる水希に苛立って水中に引きずり落としたし、貴澄と仲良く話す水希が嫌で水をかけた。が、水希は遙の気持ちを少しも察すことができないようなので、遙はあきらめて貴澄に言うことにしたのだろう。
どうせ、水希に言ったって、真琴が仲裁に入らなければ埒が明かないケンカになってしまうだけだから。
「なんで? ハルには水希の交友関係に口出すするほどの権利はないと思うけど」
「相手を牽制する権利はある」
てっきり口を噤むとばかり思っていた貴澄は、意外そうに目を瞠る。
遙は貴澄の返事を待っているのか――返事と言ってもイエス以外は求めていない――それっきり黙って、貴澄を見据えている。
「……随分強くなったね」
「……」
何が、とは言わなかったが、遙には伝わったようだ。
「中学の時はそんなに興味なさそうだったのに」
「ほっとけ」
「水希が僕としゃべってても、気にしてなかったよね?」
「気にしてなかったわけじゃない」
「ふーん」
「とにかく、あまり構うな」
本当、この友人はいつからこんなに夢中になってしまったのか。
遙の綺麗な青目の中に、めらめらと燃える炎が見える。
貴澄は小さくため息をつく。
勝負事には無関心な振りばかりだ。本当は、いつだってそうやって、負けず嫌いなくせに。
「イヤって言ったら?」
「そんな返事は聞かない」
「わがままだね」
貴澄の困ったような表情に、遙はぷいっとそっぽを向く。
その横顔に、ふっと思い出すのは、始終奇妙だと顔を顰めていた水希。
「水希、ハルが嫉妬してること全然気づいてなかったよ」
今度は遙がため息をついた。
遙自身、水希がさっぱり理解していないのをわかっていた。まあ仕方ないと思う。水希にああやっていやがらせするのは日常の些細なケンカと同じことだし、言葉にしなければ伝わりにくい。
「ハルも大変だね」
貴澄はくすりと笑うと、ロッカーを閉めた。
貴澄の手には可愛らしい小物入れがあった。水希がちらっと言っていた、弟の忘れ物とやらだろう。
「苦労人のハルのために、僕は頷いてあげたいんだけどさ」
遙は含みのある貴澄の声に、怪訝そうに目線を彼に戻す。
「ごめんハル。僕、2人をからかうの、好きなんだよね」
「は」
「それに結構、水希のこと気に入ってるんだ」
貴澄がひらりと手を振って「じゃあお先に」と遙の横を通り抜ける。
彼の行く先にあるのはプールだ。遙が笹部に頼み込んで、ゲットした貸し切りのプール。水希と2人きりで、心ゆくまで泳いでいた、水中。
そもそも、帰ってきた水希に貴澄がくっついてきたところから気に入らなかったのだ。真琴だって遠慮して、自分たちについてこなかったというのに。せっかく、好きな場所で、好きな人と。静かな幸せにうずもれていたのに。
チ、と。らしくもなく舌を打って、遙は貴澄の後を追った。
なにがからかうのが好き、だ。遙が嫌がると分かっていてやるなんて、余計質が悪いじゃないか。
「あ。遙」
プールに戻ると、すっかり濡れた水希が貴澄の前に立っていた。
「おまえもあがってたの。気付かなかった」とちょっとだけ驚いている様子の水希を一瞥し、遙は貴澄を睨む。
「貴澄、おまえのアイス結構溶けてるけど」
「あ、忘れてた」
「年? 物忘れ激しいな、おまえ」
「うわひどい。水希と同い年だよ」
「知ってるけど」
真顔で返す水希は、多分貴澄に悪口を言ったつもりはなかったのだ。
口が悪い、口が悪いと罵られるだけあって、そこからさらっと出てしまう嫌みに彼は無自覚らしい。だから遙ともケンカになるのだろう。困ったものだ。
貴澄は水希に手渡されたアイスを見る。
言われた通り、結構溶けてしまっている。
「食べないんならちょうだい」
「え、食べたいの? 溶けてるよ?」
驚いて水希を見るが、貴澄の前の水希にふざけている様子はない。
貴澄は頬をかいて、水希に水色のカップを渡した。
「サンキュ」
「おなか壊さないでね」
「任せろ」
何を任せればいいのかさっぱりわからないが、水希が若干嬉しそうだったのでなんだかどうでもよくなった。
さておき、横からかなり不機嫌なオーラを発する遙には気づいているが、貴澄はそのなだめ方を知らない。
「やっぱり桃よりソーダがうまい」
ぽつりとつぶやいて、水希はプールサイドに置きっぱなしになっているビニル袋とペットボトルを回収に向かう。
すぐ、ごみをまとめて戻ってくると、「何不機嫌になってんの」と水希は遙の顔をのぞき込む。
遙はふいっと顔を背けた。
もとより期待はしていなかったので水希は遙にペットボトルを握らせるだけで、あとは何も言わなかった。
「ちょっと貴澄を外まで送ってくる」
「……俺も行く」
「? うん」
意外だ、といった顔だったが特に理由は聞かない。
「貴澄」と呼んで、水希は更衣室の方に歩いていく。
貴澄は遙を見た。
「……2人きりになってほしくないこと、全然気づいてないみたいだよ?」
別に、水希に己が気持ちを察してもらうことなど、今は求めていない。2人きりになられるのが嫌だからついていくのだ。
「ふん」
遙は機嫌悪そうに鼻を鳴らすと貴澄を置いて歩き出す。
遙の歩調はいささか速いし、先に行った水希はついてこない2人を迎えに来ようともしない。まったく、かなり似た者同士だ。
貴澄は遠く離れた遙の手に握られるペットボトルを一瞥してから、やっと歩き出した。
「……ハルがそんなに焦る必要はないと思うんだけど」
呟いた声は、静かなプールの中に吸い込まれて消えた。