鮫柄は全寮制だ。毎日が友人とのお泊りのような生活ができる代わりに、学校帰りにコンビニに寄るとか、そういう青春の1ページはない。
「外出許可取って、食べに行かねえか」と、提案したのは意外にも宗介の方だった。
 その言葉は宗介の口から出るにはあまりに馴染みのないもので、凛は返事をするのを忘れてしまった。
 近くで聞いていた百太郎が、「俺も行きたいっす!!」とがなって、宗介が「お前は誘ってねえ」とか、意地悪に言うものだから、百太郎が凛に泣きついて――やっと凛は我に返った。
「どうしたんだ急に」と、不思議で尋ねると、宗介は「気分転換」とだけ答えて、肩を回した。最近は調子がいいらしい。
 凛は鮫柄の寮生活が嫌いなわけではないが、日常化しすぎたというのも否定できない。
「ま。確かにな」
 凛の返答はそんな言葉だったが、肯定だとわかった宗介は、どこか嬉しそうに笑った。
 彼らは早速外出許可を取ると、制服から私服に着替え、久しぶりに敷地外の土を踏んだ。並ぶ肩は4人分。提案者の宗介と、誘われた凛、話を聞いて自分も行きたいとひっついてきた百太郎、凛が行くと聞いた途端自分もと名乗り出た愛一郎だ。
 どこで食べるかは歩きながら決めようや、なんていう、ほとんど学校帰りにコンビニに寄るのと同じノリだった。鮫柄学園だって、辺境に位置するわけではないので、ちょっと足を伸ばせば、ファミレスなり、それなりにいろいろある。
 頓に百太郎が電車に乗りたいと言った。
 凛たちは特に異論なかった。彼らだってたまには遠出したいのだ。
 駅に出て、そこでふと、百太郎がここがいいと言ったのだ。揚げ物のいい匂いがする、居酒屋だった。
 まあどこでもいいや、と思っていた宗介は、特に否定せずその居酒屋に入る。引き戸はカラカラと来客を告げた。
「いらっしゃい……げっ」
 なんだその出迎えは、と宗介が怪訝に思ったのも一瞬だ。
 臙脂の頭巾を被り、黒いTシャツにグレーのジーパン、これまた黒のギャルソンエプロン――とにかくこの居酒屋の制服を着る店員は、見覚えのある人間だった。
「……マジか」宗介は思わず呟く。世間は狭いな、と思った瞬間であった。
「あー! 水希さん!」
「水希?」
 わあっと飛びついてくる百太郎を避ける暇もなく。
 きょとんと目を丸くする凛に、同じような顔の愛一郎。
 水泳部行動か。なんとなく既視感を覚えるメンバーを一瞥して、水希はため息をついた。
「おまえら全寮制じゃないの。ま、いいけど。4名様入りまーす」
「ウース!」
 遠回しになんでいるんだよとは言われたが、帰れとまでは言わないらしい。
 腰に張り付いた百太郎をそのまま、水希はスタスタと先を歩く。宗介たちもそのあとを追った。
 ついたのは座敷だ。まさかあの、横一列に並ぶカウンター席に連れて行かれるんじゃないかと、密かに愛一郎が懸念していたが杞憂で済んだ。
「靴そっち、メニューそこ。決まったら店員呼んで。はい、ごゆっくり」
 が、その後の対応はあまりに雑であった。
 絶対にマニュアルに沿っていない対応をすると、水希はさっさと踵を返して戻っていった。
 よもや他の客にもあんな対応をしてはいるまいな。愛一郎にさらなる不信が舞い降りた。
「水希、ここでバイトしてんだな」
「接客業……」
 感心したように言う凛と、なんだか心配そうに言う宗介は対照的だ。
 真っ先に愛一郎が座布団の上に正座をし、「凛先輩!」ぽんぽんと自分の隣をたたく。相変わらずの松岡凛信者だ。
 凛は特に拒否せずに愛一郎の隣に落ち着いたので、残った百太郎と宗介は、必然的に隣となった。
「……百、落ち着いて食えよ」
 要は、食べ散らかすなよ、ということだ。
「? 任せてください! 宗介先輩!」
 よくわかっていない様子を隠しもせずに百太郎は胸をどんと張って見せた。
 彼の心中など安易に読めたが宗介は何も言わなかった。
 座り方は、奥から時計回りに追うと、愛一郎、凛、宗介、百太郎だ。百太郎に続いて、最後に腰を下ろした宗介に、向かいにいる凛がメニューを手渡す。
 そいつを開くと百太郎がぐいぐいと寄ってきたので、宗介はメニューを真ん中にずらしてやった。
「失礼します。お冷、お持ちしました」
 コトンコトン、コトンコトン。卓上に4つコップが並ぶ。
 宗介は初めてきいた声に、自然とメニューから顔を上げ、やはりやってきた店員が無愛想な店員とは別であることを確認すると、なんとなく「水希じゃねえのか」と呟いた。
 それが聞こえたらしい店員が、意外そうに宗介を見た。
「水希の友人さん?」
「……まあ」
「なんだ、あいつ七瀬以外にも友達いたのか」
 安堵と揶揄の入り混じった笑みを浮かべ、おおよそ20代後半とみられる男は言った。
 ぽかんとする宗介をよそに、「じゃあ食事はあいつに運ばせますわ」と言って店員は去っていく。
 残されたのは、お冷と不思議な空気だった。
「水希さんと仲いいんすかね?」百太郎がその背中を追いながら言った。
「水希に聞いてみりゃわかるだろ。とりあえず唐揚げでも頼もうぜ。水希ー!」
 凛は名指しして呼んだ。
 ちょうど他のテーブルを片付けている水希はちらりと凛たちを見たが、台拭きと食器とを持って、暖簾をくぐってしまう。
「水希ー、水希ーっ、水希ー!」
 あちらに聞こえるようにと、凛が大声で名前を呼び続けると、思ったより早く水希は再び暖簾をくぐり、ズカズカと歩み寄ってきた。
「大声出すな、指名すんな、ご注文をお伺いしてやるから早く言え」
 この店員やばい。
「んー」
 決まっているのにわざとはぐらかす凛は、この状況を楽しんでいるらしい。
 イラつきで水希が足を揺する。
「早くしないとビール50本頼むけど」
「そんなにいらねえし、まだ20歳過ぎてねえよ」
「未成年飲酒で逮捕されてしまえ」
「飲酒を唆した水希も責任が問われるんじゃねえの、それ」
「はーい。ビールですねー」
 ガリガリと水希が伝票に書き込む。凛が慌てて待ったをかけて伝票を奪うと、本当に生ビールと書かれていた。
「おまっ、マジかよ!」凛の驚きように水希はふんと鼻を鳴らす。
 愛想の悪い店員だなあと、文句を言いながら水希からペンも奪ったが、親しいゆえの粗雑な扱いだろう。凛にはそれがわかっているから、頬の緩みを隠せないのだ。
「お前、接客ちゃんとできてるのか?」
「あ?」
 凛が伝票の間違いを二重線で消す最中、不意に問いかけた宗介には、唸るような返事が来た。
 あっ、これ聞くまでもない。接客業とか向いてないやつだ。
「まあ。接客もやる日はあるけど、普段は厨房だから」
「ああ……確か料理だけはできるんだったな」
「おまえなあ、唯一の取り柄みたいに――」
 と、しかめっ面の水希が文句を言いかけたところで「お兄ちゃーん」水希に声がかかった。
 その次の瞬間、宗介は信じられないものを見ることになる。
「はーい!」
「ジョッキ2本、追加!」
「すぐ持っていきます! 少々お待ちください!」
 効果音をつけるなら、きらきら。あのにべもない男が、何かのCM、特に制汗剤ので見かけるような、爽やかな笑顔を作ったのだ。
 誰だ今の。
 宗介の心情はそれに尽きたし、自分の目がおかしくなったのではないかと疑った。
「凛、注文注文。伝票貸して」
 こちらを向き直した水希は然らぬ顔なのだから、いよいよ白昼夢だったのかもしれないと疑ってしまう。
 貸して、と言いつつ、水希は凛から伝票をひょいと取り上げた。注文を促すように彼は、とんとん、ペンで紙を叩く。
 唐揚げ、お刺身、餃子、コーラ、云々。それぞれの口からぴょんぴょん無秩序に飛び出てくるそれを、水希はさながら聖徳太子のように聞き取って、「それはまだ頼まなくていいだろ」とか「ぜってぇ食いきれねえだろ」とか、そんな非難は右から左。全てを伝票に書き込むと、
「終わり?」
 そう言って返事も聞かずにさっさと行ってしまった。
「宗介? お前何変な顔してんだよ?」
「……いや」
 不愉快を表す顔以外、ほとんど能面かと思っていたが、案外。
 脳裏をちらつく爽然たる顔は、しばらく消えてくれそうにない。



 横から入ったビールの注文を忘れずに届けた水希は、ずいっと突き出されたお盆に首をかしげる他なかった。
 水希以外にだって手の空いている従業員はいる。それなのに又従兄弟は、今しがた接客をしてきた水希に、それを押し付けるのだ。
「えっ、ちょっ……」
「水希のオトモダチの注文やろ?」
 ぴしり、と水希の表情が凍てつく。ちょっぴり関西混じりの又従兄弟は、今なんと言ったのだろう。
「別に俺じゃなくても」
「あのガタイいい子はお前がいいんやって。はよ行けや」
「いってぇ!」
 ごつんと拳をくらい、あまりの激痛に水希はその場にうずくまる。容赦がないのだ、この男は。
「冷めないうちに」と一言そえて差し出されたお盆を拒むすべはない。この居酒屋の店主は従伯父がやっており、目前の又従兄弟は2代目となる人だからだ。かなり水希より目上なのだ。
 従伯父は好きだが、この、又従兄弟は意地が悪いし威圧をかけてくるので水希は好きではない、が。――バイトを探してるのならうちでどうだ。と声をかけてもらえたのも親戚のよしみだろう。あまり態度悪くするわけにもいかない。
「今は落ち着いてるし、ちょっともてなしてきーや」
「……」
「ただ食事出して戻ってくるなんておもんないことしたら、いてこますぞ」
 にこにこといけ好かない笑みを浮かべる又従兄弟を恨みがましい目で睨み、水希はお盆を受け取って、あの男たちの待つテーブルへ向かった。
 3度目ほどになるテーブルでは、知り合いが談笑していた。それに一声かけ、注文の品を並べていく。それでまたすっかり腹を空かせていたらしい凛たちが賑やかになった。
 多少適当に置いたって、振り分けは彼らが勝手にしてくれるだろう。
「おまえ、なんか言ったの」
 宗介の前に置かれたコーラが、ころんと高い音を鳴らした。
 身に覚えのない言葉と、水希から声をかけてきた意外性に、宗介はぱちくりと瞬きした。
「あの人に、なんか言った?」
 くいっと顎で指す。
 その先を目で追えば、先程お冷を持ってきた男が、こちらに向かってひらひらと手を振っている。
「あの手ぇ振ってる?」と宗介が聞き返す。
 水希は慌てて振り返って、又従兄弟があの気にくわない笑い顔をしているのに気づくやいなや、げんなりした。
「仲がいいのか?」
「仲がいいっていうか、又従兄弟」
「又従兄弟?」
 別にそんなに面白い話ではないだろうが、この話題を切り上げて戻ったら、あのえげつない暴力を喰らうに違いない。
 いてこます、なんてほとんど脅し文句だろうが、水希はたびたびあの又従兄弟に殴られているので強ち否定はできないのだ。
「又従兄弟って、親のいとこの子供……か?」
「そ」
「そんなやつと同じ職場なのか?」
 世間は狭いな、と宗介が再び感嘆するが、水希は首を横に振った。
「偶然とかじゃなくて、ここが又従兄弟の親父の店だから」
 水希の言葉に、宗介はなんとなく合点した。
 話に一段落ついて、水希が緩んだバンダナを結び直す。
 宗介もコーラを口に含んだ。
 又従兄弟に宗介たちとしばらく喋ってこいと言われた通りにしても、従業員はみんな又従兄弟の水希に対する扱いを知っているので、何サボっているんだとどやされることはないだろう。
 とは言え、ほとんどは酔っ払いといえど、他にも客がいる中で宗介たちに混じってくつろぐのは気がひける。
 それでもあそこで監視していた又従兄弟の言葉は強制力があって。ああ、のっぴきならない。
 誰か注文に呼んでくれないだろうか。そしたらなんやかんやと言い訳してやれるのに。
「水希」
「ん……むぐっ」
 まさに胸中を読んだかのようなタイミングで名前を呼ばれそちらを見ると、宗介によってため息をつこうと半開きになっていた口に唐揚げを押し付けられた。
 吐き出すわけにはいかず、まだ熱いそれに涙目になりながらもぐもぐと口を動かす。なにやら満足そうにしている宗介には、片した後に文句を言ってやるつもりだ。
「……なんだかんだでお前ら仲良いよなぁ」
 一連の様子を見守っていたらしい凛が、しみじみと言った。
 こいつと俺の、どこがどう仲良しだと言うのだ。水希は猛反論したい衝動にかられ、ごくんと、いっぺんに唐揚げを飲み込む。
 とりあえずは、
「鳥肌が立つこと言うな」
「はは、悪ぃ悪ぃ」
 凛がカラカラと笑う。
「でもよ、なんか水希と宗介って、なんかほとんど水希とハルみてぇじゃねえか」
「あっ、それ、わはりまふ!」
 口をもぐもぐ動かしながら、百太郎が身を乗り出して会話に参加する。
「百くん汚いよ」と愛一郎が眉を顰めるのと、「口にものを入れてしゃべるな」と宗介が百太郎を注意したのは同時だ。
 いつもの水希であったなら、ここにもう一つ罵詈雑言があっただろう。しかし水希の興味はそんなところにはなかった。
「宗介が遙に似てるって?」
「んー、宗介がハルに似てるっつうか、お前の心の許し具合が、近いって感じだな」
「は?」
 水希は、ぽかんと口を開ける。よほど不意をつかれたらしい。
 宗介も水希と似たような顔をしていた。
「それって――」
 もっと簡潔に言うとどういうことなんだ、と問い詰めようとしたところで、ぽんっと肩を叩かれた。
 予想もしていなかったので驚いて振り向くと、そこには又従兄弟と、見慣れた幼なじみと、後輩2人。
「え?」
 水希は混乱するしかなかった。
「わー! ほんとに水希ちゃんバイトしてるんだ!」
「それに、凛さんたちも……奇遇ですね」
 渚はぴょんぴょんと跳ね、怜はメガネのブリッジを押し上げる。
「ほら、七瀬」と又従兄弟が遙の背中を押して、水希に押し付けた。
 ちなみに遙はよくここに来るので、又従兄弟にすっかり顔を覚えられてしまっているし、水希とイコールで結ばれている。
「え、遙? は?」
「……渚たちが来たいって言うから連れてきた」
「真琴は?」
「笹部コーチの手伝いだ」
 保護者代表(臨時)、七瀬遙。この場に無事辿り着けただけでも拍手喝采ものだ。
「……怒ったのか?」黙り込んだ水希の機嫌を伺うように遙が聞く。
 呆然としていた水希ははっとして、「びっくりしただけだよ」と首を振った。
「水希、お前今日はあがれ」
「え」
「せっかくオトモダチがいっぱい来てくれたみたいやし、仲良く親睦を深めな」
 それだけ言うと又従兄弟は背を向け歩き出す。「ちょっと」と、水希は急いでその後を追った。
 遙も宗介、凛も――みんながぽかんとそれを目で追う中、ぽんと渚が手を叩いた。
「せっかくだし、岩鳶鮫柄親睦会でもしようよ!」
「おお! おもしろそうっすね!」
「ほらほら、愛ちゃん席替えだよ! 最上級生の凛ちゃんたちがそっちで、僕たちはこっち!」
「ええ!」
 半ば強引に愛一郎を立ち上がらせ、渚は横の座敷に向かった。その後を怜、取り皿に乗った食べ物を持って百太郎が続く。
 急にがらんとなった席になんとなくあっけにとられながらも、凛は遙を呼んだ。
「水希もすぐ来るだろ」
 凛が席を詰めたので、遙は自然とそちらに座る。
 社交的なのは凛ぐらいのもので、もともと宗介も遙も口数の多い男ではない。最上級生席は、愛一郎たちが食器を取りに来て以来、静かだった。
「ハル、なんか頼むだろ」
「ああ」
「ほらよ」
「サンキュ」
 メニューを渡してやったりお礼を言ったり、一応遙と宗介のコミュニケーションは成り立つようだが。
 ここにもう一人寡黙な男が来ると、いったいどうなるのだろうかと凛はこっそり笑った。



 遙がメニューを眺めていると、すっかり私服に着替えた水希が、お冷2つとおしぼり2つを持って戻ってきた。
 又従兄弟にまだ時間が云々、さすがに気がひけることを必死に伝えたのだけれど、また脳天にゴンと。一発で黙らされてしまった。
 水希はよく人の脛を蹴るが、又従兄弟はゲンコツを食らわすのが癖のようだ。
「なに? 席替え?」
「渚提案」
「ふうん」
 凛の返事に水希は興味なさそうに頷いた。渚の突拍子もない提案も、そんな水希の反応も、いつものことだ。
 遙の前にお冷とおしぼりを置いて、水希は何も躊躇わず、宗介の隣、先ほど百太郎が腰を下ろしていたところに座る。
 殴られた頭はまだ痛い。
「サバがある……!」
 冷たい水で喉を潤していると、急に上ずった声が聞こえた。
 愛想のない彼とは思えない遙の変貌っぷりに、凛と宗介がぶっとふきだした。
「ああ、遙があんまりにも毎回『サバはないのか』って言うから、見かねた又従兄弟が追加した」
「紳士だな……!」
 遙が焼きサバを注文する気満々なのを見て、水希が立ち上がる――のを、宗介はその腕を掴んで引き止めた。
 おかげで水希は宗介の胡座の上に倒れる。勢いはあまりなかった。
 水希は目を丸くして真上の宗介を見る。先に罵声が飛ばないあたり、よほど驚いたらしい。
「水希、今は客だろ」
 宗介は短く言った。
 水希はゆっくりと宗介から視線を外し、自分の格好を見る。エプロンがない。
「そうだった……」力の抜けた様子で呟いた。やっとオンオフが切り替わったらしい。
 注文の気配を感じ動き出すなんて、随分訓練された従業員根性だなと内心苦笑しつつ、宗介はすっかり脱力しきった水希の額をペシペシとたたく。
「お疲れさん」宗介の優しい言葉に、水希は口をへの字に曲げ、そっぽを向いた。
「やっぱ仲良いよなぁ」
 ふっと、遙の意識がメニューから遠退く。彼は凛の瞳を窺い見た。
 凛の目は、穏やかであった。
 その行き先に従って、遙は一瞬あっけにとられ、途端にムッと眉を寄せる。
 何度瞬きしたって見えるものは変わらない。宗介が水希に膝枕をしてやって、無防備に横たわった水希の頭を、子を寝かすように撫でているのだ。
 ずんと遙に黒い影が落ちる。
 おもしろくない。なんか、不愉快だ。
「ハル、お前サバ頼むんだよな? 俺も焼き鳥追加するし、ついでに頼むか?」
「……ああ」
「……? 何拗ねてんだよ」
 凛が首をかしげたと同時、何かを察したのか宗介が不意に視線を上げた。
 ――仏頂面が、ますます仏頂面だ。
 宗介は遙が何を思いそんなに気を悪くしているのか瞬時に理解した。しかし、理解したから遙の気をなだめるのかと思えば、真逆であった。宗介はハンと鼻で笑ったのだ。
「……っ」
 ピシッと遙の表情が凍ったのを、宗介にあやされる水希もはもちろん、注文するために従業員を呼んでいた凛も見ていない。
 宗介だけが見ていた。静かに、2人の間で火蓋が切られたのだ。
「おまえさぁ」
 真上で飛び散る火花などつゆ知らず、唐突に水希が自分の頭を撫でる宗介の手を両手で持ち上げる。
「どうした?」と宗介は返事をしながらも未だ遙と視線の応酬を続けている。
「手ぇおっきいよなぁ……」
 水希は宗介の右手と自分の左手とを重ね合わせて、しみじみとつぶやいた。
「真琴みたいだ」
 そこで親父みたい、と言わないあたり水希の真琴っ子がにじみ出ている。
 宗介はやっと水希を見た。目があった先で、へらりと水希が笑った。
「……ガキ」
 宗介にぺしんと額を叩かれても、水希は何も文句を言わない。
 遙は積もり積もって我慢ならなくなり、斜め前の水希に向かって座卓の下から足を伸ばす。げしげしと蹴りを入れると、ひょいと上がった向かい側の腕が中指を立てた。
 むかっ。
(なんだその態度の違い……)
 宗介には腹を仰向けにしてるくせに、遙には喧嘩上等の中指だ。
「水希、お前なんか頼むか?」
 ちょっとまどろんでいたところに凛の声がかかり、水希はゆっくりと上体を持ち上げた。
 ぐーっと机に伸びた彼は上目遣い。意図してない。
「フライドポテト」
「飲み物は?」
「オレンジジュース」
「……お前ほんとそれ好きだよな」
 凛が呆れたように言うので、水希はムッとして、まず遙を指差した。
「遙だってサバばっかりだろ」
「まあ……」
「宗介だってコーラばっかりだ」
「わかった、わかった。拗ねんなって」
 拗ねているわけじゃないのだと主張する口は尖っている。
 比較に挙げられた遙と宗介は、揃ってそればかりじゃないと否定したが、声を揃えて言うなんて仲良しめ、と水希に皮肉られただけだった。
 遙はチラリと宗介を窺う。
 彼は頬杖をついて、水希を見守っていた。
 優しい目だった。
(……仲良しじゃない)
 全然自分の気持ちに気付かない水希が腹立たしいし、宗介は……宗介には、とりあえず、席を替わってほしい。
 遙のもやもやは募るばかりだった。


 からん。溶けた氷がグラスを叩く。
 後輩方の席は随分盛り上がっているので、年上4人が集ったこの机は、どうも寂しさがあった。
 しばらくは4人で談笑していたが、凛が「宗介のおもしろい写真見せてやるよ」と遙にスマートフォンを見せはじめてからは、主に隣人とのやりとりになっていた。
 今もなお写真が尽きることはないのか、凛と遙は小さな長方形の中身を一緒になって覗いている。
 最初の方は宗介も抵抗心があったが、今やどうでもいい。ただ、早々に見終わってほしいとは思っている。
 たまに遙がフ、と笑うのでなんだか癪に触るのだ。あの、大きく笑わないところがまた。
 先ほどから、宗介の隣人さんは静かだ。もとより口数の少ない男だと言えば、それまでだが。それにしても、おとなしい。
 宗介はそっと水希を見た。
 からん。また氷が崩れた。
 眠たそうな目。それがなんにもない宙に漂っていた。
「……お前もハルの写真とか、持ってねえのか?」
「遙の写真……?」
 意識までは失っていなかったようだ。
 宗介の思いつきの言葉に不思議そうに首をかしげて、水希は思案する。
 遙の写真。そんなものを宗介が見たい理由など見当もつかない。水希は凛と遙が宗介の写真を見始めたのに気づいていないのだ。
「俺、そんなに写真撮ったりしないから。家のアルバムに昔のなら、あるんだろうけど……主に真琴と写ってるんじゃない?」
「水希は?」
「俺は小さい頃は、あんまり遙たちと一緒にいなかったから」
 怪訝な顔をする宗介とは対照的に、水希はあくびをこぼした。
「あいつらといなかったなら、誰と一緒にいたんだ?」
「俺」
 過去を振り返るように頬杖をついた途端に、それを遮った男を見る。
 宗介も、ここで凛が口を挟んでくるとは思っていなかった。宗介の顔には不意をつかれたと書いてあった。
 はあ、と大きなため息。
「凛とは小学校で初めて会っただろ」
「あんときの水希、まだ可愛げがあったよな」
「さあね」
 水希はとうとう目を斜め上に向けた。昔話をする気はない、という意思表示でもあった。
 それでも、細められた瞳が見るのは、思い出なのだろう。
「……俺は宗介の小さい頃の方が想像がつかないな」
 ぽつり、つぶやいた。
 宗介が水希を見ると、彼もまた徐に宗介を見返した。
「おまえ、本当に幼少期とかあった?」
「は。んなの当たり前だろ」
「ふうん」
 少々蔑みを込めての返答をされたが、いやしかし、それでも宗介の幼い頃というのは、やはり想像しがたいものだ。
 凛に聞くのはなんとなく癪だ。……そういえば、遙は宗介を知っていただろうか。大会であったことがあると、聞いたような。
 それなら遙に聞いてみよう、と目線を遣るが、そこはもぬけの殻。
 あれ、と思わず声に出たのと、ぎゅっと後ろから抱きしめられたのはほぼ同タイミングだった。
「うわっ、遙?」
「…………」
「あいてて! 筋! 筋が変な方に曲がってる!」
 いつの間に移動したのか。水希の背に乗っかった遙が容赦なく体重をかけてきた。
 さながら前屈のように水希の体は曲がっていったわけが、元の体勢には似合わなかったのか、悲鳴をあげた。
 遙も鬼ではないようで、彼の悲痛な叫びを聞いて、力を緩めた。
「ちょっ、なに?」
 体を起こし、若干涙目になりながら、水希は遙の腕に問いかけた。
 外そうと試みるが動かない。横の男よりも細い腕のくせに、ジェットコースターのバーレベルの固定力だ。
 遙は何も言わない。
 これはあれだ。
「……なんで拗ねてんの?」
「…………別に」
 完全に拗ねている。
 別に、と突っ撥ねるようなことを言ったわりに、遙はまたものしかかってくる。
 水希はそれを、一応鍛えている腕と腹筋とで応戦しながら、遙の不機嫌の理由を考える。
 遙があまり会話に参加していないのには気づいていた。
 もともと寡黙な男だから、気にしていなかった。
 仲間はずれになっていたのだろうか。
 難しい顔をして思案していると、横の宗介がフ、と笑った。
「そろそろ帰らねえとヤバイかもな」
 宗介が掛け時計を見て言った。
「……そういえばおまえら、寮か」
 時計も宗介たちがここにきてから1周半はしている。
 楽しい時間はすぐに過ぎる。
 水希はぼんやりと、氷のすっかり溶けてオレンジ色の薄くなったグラスを眺めた。
「水希」
 ふっと顔を上げると、優しい目をした宗介がいた。
 あまり見る機会のないそれに息苦しさのような、何かを感じて凛をちらと見ると、彼も似たような目をしている。
「また来てやるよ」
「! ……そんなこと頼んでなっ、ぐっ!」
 なぜか遙から腹部を突き上げられた。
 きっと水希が喉にものを詰まらせていたのならば、今の一発で助けてもらえたでたろう、完璧なハイムリック法だ。きまった。
「遙……おまえ殺すぞ」
「脅迫罪だな」
「うっざ……」
 遙と水希のやりとりに凛と宗介が笑った。
 その本当の意味を分かっていたのは、遙だけだ。


 先に会計を済ませたのは遙たちで、後から出てきた凛たちを、居酒屋の外で迎えた。
 合流するや否や、後輩たちはすぐに盛り上がる。百太郎と渚という、最強のタッグが原因だろう。
 怜と愛一郎は巻き込まれ方だ。そこに入らない遙と水希は、躱し方がうまいに違いない。
 宗介は遙が水希の横を陣取っているのを見てこっそり笑った。
 まったく、言葉にすればいいものを。
 凛たちを駅まで送る流れは自然とできた。
 渚と怜も電車に乗るし、遙と水希にとっては帰り道だからだ。
 はしゃぎながらも器用に道の脇に寄る後輩たちを先頭に、凛たちも続く。
 最後尾は遙と水希だ。
「なあ宗介、今度うち来る?」
「?」
 肩をたたくとか、袖を引くとか。なんのアクションもなかったので、「宗介」と名指しされなければ、宗介は振り返らなかっただろう。
 コミュニケーションがどこか足りない水希は、宗介が補足を求めているのに気づかないまま、「きっと真琴も喜ぶよ」と優しく目を細めた。
 宗介はわずかにたじろいだ。
 水希があんまりにも柔らかい表情をして、横の遙がものすごく不機嫌な顔をしたからだ。
「水希、お前言葉が足んねえよ」
 宗介の言いたいことを凛が一語一句違わず言った。
「ああ、ほら。おまえ、遙の写真見たいんだろ?」
「?!」
 あっけらかんと口にした水希。
 遙はあの仏頂面から一転、相当ショックを受けた顔になって、立ち止まって半歩引いた。
 ドン引きとかいうやつだ。
「……悪い。鳥肌がたった」
「ちげえよ」
「好きなやつには素直になれねえってやつか?」
 遙はさておき、ニヤニヤする凛は悪ふざけだ。
 長年の付き合いからわかる。
 宗介は凛をじとりと睨んで、元凶の水希を見下ろした。
「語弊がある言い方すんなよ……」
「はあ?  間違ったことは言ってないだろ」
 露骨に蔑んでいる遙にも腹立ちつつ、水希に文句を言うが、彼は聞かない。
 一言二言言ってやろうと口を動かすが、水希がそれを制した。
「とにかくさ。真琴、喜ぶよ。おまえと遙が仲良くなってくれたって」
「……仲良くなんか、」
 いつの間にやら駅にたどり着いていたらしい。
 ちょうど発車しようとする電車のブザーで、遙の抗議の声は遮られた。
 後輩たちが先に改札口を通った。
 水希は改札口を通らないので足を止めた。
 遙はもちろんだが、この先に用のある宗介と凛も、つられて足を止めてしまった。
「俺がこんなに嬉しいんだから」
 莞爾として笑う姿は、一瞬だった。
「凛せんぱーい! 宗介せんぱーい!」
 百太郎がついてこない凛たちに気づいたようで、向こう側から2人を呼んで、大きく手を振っている。
 その声で凛と宗介は我に返った。
「じゃ、この話はまた」
 ひらひら。あまりにも素っ気なく、いつもの面構えで水希は手を振った。
「早く来ないと電車、来るよー!」次は渚が急かした。
 宗介と凛は顔を見合わせた。
 2人の足がぎこちなく動く。
「……またな」
 ぽつんと落ちた遙の挨拶は、彼らに届いていたようだ。
 凛と宗介は、揃ってひらりと手を振った。
「帰ろう、遙」
 遙はゆっくりと水希を見て、「ああ」と、短く返事をした。
 本当に一瞬だった。
 確かに彼の双子だと思わせる笑みだった。
 あの笑顔の理由には遙が大部分を占めていた。
 水希は、ただひたすらに、遙と宗介との間にあった溝が埋まっていることを喜んでいた。
 それを遙はわかったから、胸のもやもやなんか、すっかり飛んでいってしまったのだろう。
 嫉妬する自分が、幼稚に見えてしまったのだ。
「……ああ、そうだ。遙」
「?」
 海風にあたりながら、水希は遠い空を見ている。
「俺、誰にも負けないと思うよ」
「……、……」
 なにがだ、と言おうとしたのに。つい口を噤んでしまった。
 水希が、するりと指を絡め、首をかしげて、確認するように笑うから。
「遙のことは、俺が1番好きだよ」なんて。続かなかった言葉を、遙は聞いてしまった。
「……凛のは冗談だろ」
 遙が示したのは、好きなやつには素直に云々。宗介に対する、凛の揶揄だ。
 1番言いたかったのはそんなことじゃないのに、そんなどうでもいい言葉が口をついた。
「俺のは冗談じゃないけど」
 水希はふっと笑って、前を見た。
 遙から見える彼の横顔は、心なしか機嫌がいい。
 普段が皮肉の言い合いな分、仄めかされた愛情の威力はすさまじいもので、――ああ、まったく。
 チ、とらしくもなく、遙は舌を打った。
 若干不発だったそれに、水希が肩を揺らして笑った。