午前8時。学校へ向かう時間だ。
 解けた靴紐に気づいてしゃがんだ真琴を特に気にかけず、玄関の扉を開いて――即座に閉めると、水希は今しがた履いたばかりのローファーを脱いで、ずかずかと家にあがった。
「えっ。水希?」
 頓狂な声を出した真琴にも振り返らず、水希は2階の部屋に消えた。
 真琴は首をかしげる。突然、どうしたのだろう。
 とりあえず靴紐を結び直して立ち上がる。
 水希はまだ戻ってこない。
 腕時計に目を遣る。……先に遙のところに行ったほうがいいだろうか。
 真琴は少し考えて、遙を呼びに行くことにした。
 扉を押すとやや重い。やっと開いた隙間から、びゅおっと勢いよく冷風が真琴の頬を撫で前髪を吹いた。
「さむっ」
 思わず肩を縮めて扉を閉める。
「え、ええー……」
 なんだ今の。引くほど寒かった。
「真琴」
 あまりの寒さに真琴が呆然としていると、後ろから彼を呼ぶ声がした。
 振り返ると同時に、カーキのモッズコートが投げつけられた。いきなりすぎる。
 真琴は、わぷ、と変な声を出して顔で受け取った。
「水希っ」
 非難しようと口を開いたが、戻ってきた水希の完全防備に真琴はその勢いを殺がれた。
 黒のPコート、手袋、口元まで覆ったマフラー。多分ブレザーの下にはカーディガン、カッターシャツの下にはヒートテックを着ているに違いない。
 水希は、真琴に負けず劣らず寒がりだ。


 学校までの道のりがいつもよりずいぶん長く見える。
 海風は一段と冷たい。
 視界の隅っこに映る海が波を立てるのを見ると、ぶるりと身震いしてしまう。
 いつもはこの道に3人並ぶが、今日は肩2つ。1人ここにいないわけではない。
 遙は歩調の遅い水希を振り返る。
 思いの外離れていた。
 肩を上げて白い息を吐く水希の歩みは今にでも止まってしまいそうだ。
「水希。遅い」
「……先行っていいよ」
 返事の声でさえか細いのに、彼らの方へ駆け寄る気力などあるわけがない。
 水希の萎れ具合に遙が眉を顰めた。
 2人で打ち合わせをしたわけではないが、真琴の歩みと遙の歩みとが同じタイミングで止まった。
 待ってくれた彼らに、水希がやっと追いつく。
「水希、大丈夫?」
「なんだか眠いんだ……真琴……」
「大丈夫そうだな」
 真琴が大げさな反応を示す前に、遙はばっさりと切り捨てた。有名なかの作品のセリフの応用ができるぐらいなのだから、死にはしないだろう。
 ……とはいっても、水希の目は偽りなくうつろだ。このままでは歩くのも嫌だと言い出しそうだ。
「つか遙、おまえ薄着すぎて、見てるこっちが死にそう……」
「俺は寒くない」
「おまえがよくても、俺のためにこれつけろ……」
 水希は泣きそうな声で言うと、鞄からマフラーを取り出して遙の首に巻いた。
 このマフラーは真琴に渡そうと思っていたものだが、真琴は内側がモコモコとしたモッズコートを着ているので首回りは寂しくない。だからこれは持ったままだった。
 遙の首回りが賑やかになった。
 豊富なバリエーションで、たまに蘭のもきれいに整えてやってるし、水希はマフラーの巻き方がうまいと、真琴は思う。だからなんだって話だ。
「まあ、及第点……」
 遙は縮こまる水希をじ、と見る。
 目の下も鼻先もすっかり赤い。瞳は少し潤んでいる。
 寒がりすぎだ、と呟いて、遙は水希の手を取った。手袋をしてるわりに温もりは感じられないそれを自分のブレザーのポケットに押し込んで、また歩き出す。
「うわ、速いって」
「急がないと遅刻する」
 水希は遙のポケットの中で手袋を外して、素手同士を絡め直した。
 遙は今更ながら照れくさくなったが、顔には出さなかった。
「寒いからゆっくりがいい」
「じゃあ手を離すか?」
「えっ、やだよ。もっと寒い」
「なら我慢しろ」
 水希は不服そうな顔をしていたが、歩調は遙に合わせた。
 そんな2人を横目で見た真琴は、宙を白く染めた。
 大きめのため息。
 まったく、朝っぱらからいちゃつかないでほしい。


 校内といえど廊下は寒い。
 教室を出るときなど、隙あらば、水希は背の高い真琴を盾にして、寒さから身を守っていた。
 昼休みになると真琴が立ち上がった。どうしたのかと尋ねると、今日は他の友人と学食に行く約束をしているんだと。
 水希には、こんな寒い日にわざわざ教室を出て行くなんて、と死人が化けて出たのを見たかのような顔で。遙には、いつもどおりのそっけない態度で、真琴は送り出された。
 遙と真琴は席が隣同士で、遙と水希は席が前後、遙が後ろ、水希が前だ。
 水希はしばらく空席になった斜め後ろを見つめていたが、遙が弁当箱を取り出したので、彼に倣って動き出す。
 水希が取り出したのは、円筒形の保温機能に優れた弁当箱と、サンドイッチ。
「……少なくないか?」
「冬はあんまり食欲がないから」
「……」
 そういうものなんだろうか。
 遙はいまいちピンとこないまま、弁当の蓋を開いた。
 今日も焼きサバが1尾。遙の弁当に抜かりはない。
 水希の開いた弁当箱の蓋には水蒸気がたくさん張り付いていた。ふわっと湯気が上がった。
「……なんだ?」
「クラムチャウダー」
 随分しゃれた昼ご飯だなあと遙はあきれた。
 木製スプーンでスープを掬ってふうふうと軽く冷ましながら口に運ぶ姿は、なんだか幼かった。
「そういえば遙ん家はもうコタツだしてんの?」
「まだ」
「えっさむ……」
 ありえない、という顔で水希が遙を見た。
 別にいいだろ、と遙は思う。遙はまだ炬燵を出す気はないし、むしろ炬燵の存在をすっかり忘れていた。
 彼の意識は暖房器具なんかより、浴槽にあるのだ。水風呂が厳しい季節なので、最近はぬるま湯だ。
「じゃあ今日だそうよ」
「いやだ」
「俺手伝うって」
「めんどくさい」
「じゃあ全部俺がやる」
 遙はジト目で水希を見た。どこに炬燵がしまってあるのかわかるのかなんて、とんだ愚問である。長年の付き合い、それに遙の家には何度も泊まっているのだから。
 水希はもう冷まさなくていい温度になったチャウダーをまた一口呑み込んだ。
 その表情から察するに、遙の家に炬燵を出すことは決定事項であるようだ。
 遙は抵抗する気力がなかったので、そっとため息をついて、箸を動かした。
 天気予報によると今夜は雪が降るそうだ。
 一段と冷え込んだ帰り道を凍えながら帰ってきた後は、昼に言った通り、炬燵配置の開始だ。
 真琴が水希から「今日は遙ん家でコタツ出してくる」と聞いた時、彼はくすくす笑っていた。
「うちじゃ蘭たちが独占するもんなあ」と。どうやら家の炬燵は父親と双子の弟妹でいつも埋まってしまっているらしい。
 遙は夕飯の支度をしながらちらりと居間を見た。
 水希が胡坐を組んで炬燵の足を組み立てている。彼にはついさっき、「手伝わなくていいからメシ作って」と頼まれたばかりだ。多分、泊まるつもりなのだろう。
 遙がまな板に向きなおすと、少し歌を口ずさみながら水希が居間を出て行った。
 妙に機嫌がいい。
 しばらくしてまた戻ってきた彼の方には炬燵布団。
 物の場所を把握しすぎだろう。
「座卓も直しとく」
「ああ」
 水希が寒がっていたから今日は鍋だ。決して手抜きではない。
 遙は切り終えた野菜を皿に移して、カセットコンロをすっかり組み立てられた炬燵の上に置いた。
 電源コードはまだ刺さっていない。
 遙は少しためらって、プラグをコンセントにつないだ。
 一応スイッチをオンにする。
 何気なく布団をめくり上げる。
 炬燵の中にはオレンジの光がともっている。
「えーい」
「うわっ!」
 ずしっと後ろから乗ったそいつに、遙はぐらつきながらも耐えた。伊達に鍛えているわけではない。
 こんなことをするような人物ではないが、こんなことができる人物は一人しかいない。
「水希?」と半信半疑で遙は彼を呼んだ。
 返事はなかった。
 ただひたすら背中があたたかい。
 しばらく水希は遙に引っ付いていた。
「……水希」
「……」
「……? おい、寝るな」
 遙は後ろ手に水希の体をたたく。
 思った通り寝かぶっていた水希はもぞもぞと動いて、遙が布団を持ち上げたままだった炬燵の中へ入っていった。半分猫のようであった。
 炬燵の中にうつ伏せになった水希は口元を緩めて遙を見上げた。
「あったかい」
「……そうか」
「俺の横、今なら空いてるけど?」
 水希がちょっとだけ布団を持ち上げた。
 奥に橙色の光が見える。
「……、いい」
 ふい、とそっぽを向いて遙は台所に戻ろうとした。
 けれど後ろから水希に手を掴まれてしまった。
 驚いた遙は振り返って「なんだ」と。言おうとしたのにぐいぐいと水希が手を引っ張ってくる。
 地味に痛い。
「水希!」
「よーこー」
「わかったから……!」
 そう言うとパッと手を離された。
 遙は水希を一睨みして、しょうがなく彼の横に足だけ入った。
 あったかい。
 なんだかんだ言って遙だって寒さはあった。だから体を温めるこれに、胸がほっと落ち着いた。
 ごそごそと動いた水希が横向きに寝ころび、遙の手をいじる。
 横髪が下がったせいで詳しい表情は窺えないが、どうも水希は笑っているらしい。
「雪、降ってる?」
「……まだ」
「そっか。じゃあまだコタツで丸くなっちゃダメかもね」
 ネコはコタツで丸くなる。そんな童謡になぞらえたのだろうが……。
 遙は驚いて水希を見た。
 水希は目を閉じて、気持ち微笑んでいるように見える。やっぱり、あの無愛想が笑っているのだ。
「……お前、今眠たいだろ」
「んー……」
 曖昧な返事は肯定ととっていい。
 やっぱりな、と遙は思った。
 水希が妙に幼くなったり、甘えたになったりするのは、大体頭の働きが鈍くなっているときだと、遙は知っていた。
「……俺ん家さぁ、蓮たちがコタツ占領するからぜんっぜん入れなくて」
「……」
「多分あれは……わざと俺を入れないようにしてる。あいつら、しょうがなくタオルケットかぶってる俺のこと笑ってるもん」
「……だから俺の家のコタツか」
「ん。……最初はそれだけのつもりだったけど……」
 徐に瞼が持ち上がり、やはりまどろんだ若葉色の瞳が遙を映す。
 起きろ、飯はどうするつもりだ。遙はそう言ってやろうとしたのに不発に終わる。
 不意に水希の目が愛おしそうに細まったから。
「……うちのより、断然いいや」
「……、……」
「あったかいし、安心する」
 水希はいじっていた遙の手を自分の頬にあてた。
「遙がいるから」
 ふふ、とくすぐったそうに笑って、水希はまた目を瞑った。
 遙は呆然と水希を見ていた。
 秒単位で時が進むにつれ、じわじわと顔に熱が集まってくるのがわかる。
 水希に握られているのとは逆の手で口と鼻とを覆って斜め上を向く。鼻血が出たわけではない。多分。
 念のため手を確認した。
 血は付着していなかった。
「……っ」
 ドストライク。むしろデッドボール。重症のため遙は一塁進めない。
 横目で水希を見てみたが、なんとか起きようとしているのか、半目になっていた。
 間抜けな顔だ。
 遙の葛藤なぞ少しも知らない顔だった。
「お前……」
「ん……なに? 雪、降ってきた?」
「そうじゃなくて……ああ、もういい」
 遙はため息をついて水希の手を優しくほどいた。
「鍋」と、追いかけてきた水希の視線にそれだけ告げる。
 理解したのか、単に気力がないのか、水希の手は追ってこなかった。
 うん、と頷かれたような違うような。どちらにせよ、遙は一度も振り返らずに台所へ行った。
 一度炬燵に入ると、出たときがずいぶん肌寒く感じる……はずなのに、遙の顔の熱はなかなかひかない。
 むしろ熱い。炬燵にいたときより、もっと。
 ――うちのより断然いいや。
 ――あったかいし、安心する。
 ――遙がいるから。
 遙は静かに口を手で覆った。
 誰も見ていないだろうが、それでもそうしてしまった。
 にやける口を、彼は多分、自分自身に隠したのだ。
 遙はもはや空腹を感じていなかったが、用意した鍋一式を運ぶ。
「水希、起きろ」と、胎児のように丸くなった水希を軽く蹴った。
 遙が食事を準備する間に、水希はやっと上体を起こし、座り直した。
「……今日ここで寝ていい?」
「電気代がもったいない。……し、風邪ひくだろ」
「おまえ、そんなとってつけたような言い方……」
 横に座った遙を、水希はじとりとした目で見る。守銭奴め、とでも言いたそうだ。
「じゃあおまえの布団で寝る」
「……それいつものことじゃないか? お前、下に布団敷いてやっても毎回俺の横に来るだろ」
「…………遙が寂しそうだから」
「寂しくない」
「……じゃあもう隣にいってやんねー」
「勝手にしろ」
 ム、と口を曲げて水希は遙を睨む。
 我関せず焉。
 遙はあくをすくったり、食材を入れたり、鍋の世話をし始める。
 水希は耐えきれなくなったのか、なにやら唸りながら突っ伏した。
「遙の隣がいい……」
「……」
「遙ぁ」
「……」
 返事のない遙を、水希はこっそり窺った。
 遙は少しもこちらを見ていない。
 寂しい。少しぐらい構えよ。
「遙の横がいい」
「……」
「俺、遙がいないとダメかも」
「……、……」
「はる、むぐっ」
「うるさい」
 遙は水希の口に、真っ赤な大粒の苺を押し込んだ。鍋のあとで食べようと思って別の器に盛り付けていたものだ。
 もぐもぐと口を動かして、水希はそれを味わう。なんら不満のない顔だった。
 遙の思い通り、水希は静かになった。
 なのに、遙は落ち着かなかった。
(早く寝かしつけないと……)
 構ってやらなかったのは、鬱陶しくて辟易していたからなんかじゃない。
 少しでも気を緩めれば、ふっと笑ってしまいそうで。この腕で、らしくもなく水希を閉じ込めてしまいそうだったから。
 それなのに水希は遙を煽る。
 日頃とは打って変わって甘える。
 遙が必死で耐えてるのを、まったく知らないのだ。
 本当、やめてほしい。
 これ以上自分を引き込んで、どうしてほしいんだ。
「……あしたも寒いかな」
「だろうな」
「ん……、じゃあまたマフラー巻いてやる」
 遙はちらりと水希を見た。
「好きにしろ」
 答えた後の水希の反応を、遙はいちいち気にしなかった。どうせ、バカみたいな顔しか拝めないのだから。
 遙は不意に今朝、水希に巻かれたマフラーのことを思い出した。
 泳げない海を眺めるのにうんざりしていたが……目一杯泳げないこの季節も、まあ悪くない。