バッグからうっかり水泳ゴーグルが飛び出たのは昨日の帰りのこと。
「あ」と振り返った先で、車が横切った。
ばきん、とものが割れた音に、遙と水希はしばらくなにも言えなかった。
水泳ゴーグル、昇天。
そういうわけで、遙は新しいものを買いに来た水希の、付き添いだ。
水着を買いに来たわけではないので、遙による「締め付けコール」はなかった。
水希は昨日のうちに凛に連絡をとって、オススメのメーカーとタイプとを聞いていたようだ。売り場でまごつくことはなく、その素早さといえば遙が水着を見る暇がなかったぐらいだ。
さて帰ろうか、とスポーツショップの自動ドアをくぐったところで、遙たちはそれを見つけた。
目に涙をいっぱいにして、拳を握り、不安そうに辺りを見渡す女の子。見た目から見て、10,11歳あたりだ。
「迷子?」と首を傾げた水希は、つぶやいただけで、遙に聞いたわけではなかった。
躊躇なく女の子に近づいて行って、しゃがんで、目線を合わせた。
女の子は身を縮めて、わずかに下がった。
怖がっていた。
まああれなら怖がられるよな、といつもの喧嘩上等な雰囲気の幼なじみを考えて、遙は遠い目をした。
だが、血は争えない。
水希はあの、大らかな真琴の双子の弟だ。幼い弟妹だっている。
「大丈夫?」
そう言って眉を下げ、女の子に声をかける水希ならば、保育士になれるんじゃないかと。遙はそう思った。
遙は、ぼうっと。迷子の相手をしている水希を眺めていた。
休日の大型ショッピングモールは人でごった返す。
迷子の親は、しばらくかかって見つかった。
水希と別れてから、家の縁側で、遙は特に何かするわけでもなく座っていた。
その瞼には今日の水希がひっついていた。
父親のようであった。と、思う。
泣きじゃくる子をなだめ、笑いかけ、頭を撫でてやる姿なんて、平生の彼からは考えられない。
幼い子と向き合った水希は、いつも遙が接している彼とは別人物だった。
大人だった。
女の子を肩車してやった背中が眩しかった。
遙と身長は大差ないはずなのに、大きく見えた。
(……子供、か)
家庭を持つことを深く考えたことはなかった。遙には、水希といる未来が見えているだけだった。
しかし今日の出来事が、胸に引っかかった。
水希は幸せそうだった。似合っていたとも思う。だけれど。
自分たちでは望めないものだ。
ぐっと拳を握り、遙は目を瞑った。
却って、あの「父親」の顔が鮮明に浮かび上がるだけだった。
♯
夕方になった。
水風呂に入ったり、食事をとったりしていた間はそうでもなかったが、ふとした拍子に胃がむかついた。
余計なことを考えたくなかった。
遙はランニングウェアに着替えて、家を出た。
いつもの道を駆ける。
今日は横に真琴がいない。声をかけていないので、当たり前だが。
アスファルトを蹴る音と、鋭い呼吸音のみが聴覚を支配する。
景色は流れるようだった。
公園に差し掛かった。普段真琴と一緒に通り過ぎる公園だ。
そこのブランコに1人の女の子が腰かけていた。
遙は怪訝な顔をした。
歩調を緩め、腕時計を覗く。
もう、6時を過ぎている。
公園には女の子のほかに人影はない。
このあたりは人通りが少ないので、公園の外にいるのも、遙ぐらいだ。
遙は足を止めると、少し考えて、女の子へ近寄った。
昼の迷子とあまり差のない年齢に見えた。
夕日に伸ばされた影に気づいたのだろう。女の子の顔が上がる。
遙は女の子と少し距離を置いたところに立った。
夕日で金赤に染まった大きな瞳が、遙を見つめる。
「……何してるんだ?」
「…………」
遙の問いに、女の子は無言であった。
警戒している。
それもそうか。いきなり知らない男に声をかけられたのだ。
遙は困ったように頬をかき、自分の少ない表情と、語彙の中から、どうにか彼女の警戒を解くものを探し始める。
「……パパに、大嫌いって言っちゃった」
と、不意にぽつりと女の子が言った。
ぼうっとしていれば、聞き逃しそうな声だった。
女の子は、依然その目で遙を見つめている。
遙は女の子の横のブランコに腰掛けた。
女の子が動じる気配はない。
「……どうしてだ?」
「パパたち、すごく仲がいいの」
「それが、嫌だったから……か?」
遙の周りには、お互いを愛しすぎて子を忘れるような親はそういない。
彼自身の母親は、一人息子を置いて単身赴任の父親についていったので――例に挙げても問題はなさそうだが、常々目の前でハートを投げ飛ばすやり取りを見せられているわけではないので、合致しない。
遙の質問に、女の子はまたも黙った。
しばらく無言が続いた。
「……いやなんかじゃないの。わたしのことをパパたちが大切にしてくれてるのもわかるの」
「……」
「でもね、寂しいの。わたしのパパなのって、思っちゃう」
女の子はそれだけ言うと、口を噤んだ。
遙は何も返さずに黙っていた。
彼女の気持ちはなんとなくわかることができた。だが、それは言葉にするのが難しい感情だ。
「お前のお父さんは……どんな人だ?」
「2人とも、料理が上手」
「……2人?」
遙は眉を顰めた。
聞き間違いか。疑ってはみたが、横の少女を見ても、彼女が撤回する様子はない。
一体どんな家庭なんだ。
唖然とする遙を、少女はちらと見た。
「変だと思うんでしょ? パパが2人いるなんて」
「あ……いや……」
「みんな、直接は言ってこないけど。『男2人の両親で、お母さんがいないなんてかわいそう』って、陰で言ってるの。わたし、知ってるわ」
「…………」
女の子の視線が落ちた。彼女は靴のつま先を見つめている。
上手い言葉が出てこない。
可哀想だと思ったわけではない。初めて聞く家庭環境に、遙は驚いたのだ。
その誤解だけは解きたい。けれど、言葉が浮かばない。
「わたし、パパたちとは血がつながってないの。でも、パパはわたしの本当のパパよ」
「……、……」
「みんなみんな、わたしを可哀想って言うの。でもね、わたしはそんなこと思わない」
「……」
「パパは2人とも、優しいもの。わたしはいつも幸せなの。きっとわたしの方が幸せよ、誰かをばかにして、陰でコソコソ言うような親に愛される人たちより、何千倍」
遙はじ、と少女を見つめ続けた。
見た目からは考えられないほど、彼女の言葉は大人だ。
「幸せなの」
きい、と錆びた音がたった。
女の子がブランコからぴょんと降りて、遙に向かって大きく手を広げて見せた。
「わたし、すごく、幸せ!」
顔を綻ばせた少女は、まるで絵画の一部のようであった。
「あなたは少しパパに似てるわ。全然おしゃべりじゃないところと、その、優しい青の目」
「、」
「なんて言ったら、男と結婚するようなやつと似てるなんて言われたくないって、思うかしら?」
少女は1人で怒った顔をして、次に困ったように笑った。
表情豊かだ。
「パパたちは、幸せそうよ。わたしに負けないぐらいね」
しんからの笑顔だった。
さあ、と木々が囁いた。
まるで少女に同調しているようだった。
「――、――」
不意に遠くから声がして、遙はハッと我に返った。
声のした先を、少女と同じように振り返る。
公園の入り口に長い影が2つ。
「パパ!」
お互いに同じぐらいの背丈の、黒髪と、茶髪の男性。
少女が駆け出した。
かがんで、大きく腕を広げた男に飛びついた。
男性は少女を抱え上げた。
少女は目線が同じになった、黒髪の男性に、なにやら文句を言っていた。
黒髪の男性は困ったように口を曲げて、少女と茶髪の男性に笑われた。
驚きで声が出ないどころか、動けないし、息もできない。
どちらの男も、いくらか大人びていたが、遙は知っていた。
徐に少女が遙を指差す。
天色と若葉色の瞳が遙へと、ゆっくり、向けられる。
――ありがとう。
少女と若葉色はそう言った。
天色は遙を、手に負えない子を見るような目であった。子をあやすような優しい目だった。
3人は遙に背を向けて歩き出す。
「――、」
遙はとっさに立ち上がった。
黒髪の男性だけが振り返った。
――大丈夫。
彼は、遙に向けて口を動かした。
――俺はあいつを幸せにできるから。
♯
すん、と芳ばしいかおりが鼻をくすぐった。
ゆっくり瞼を持ち上げて、ぱちぱち、まばたき。
見慣れた部屋の景色。目線は座卓の足と同じ高さだ。
タオルケットをかぶっている。
遙は起き上がって、ニュースキャスターが原稿を読み上げるのを見た。
画面左上の数字は17。
「あ。起きた?」
皿にサバを一尾。きつね色の焼き目も完璧につけたものを、水希が持ってきた。
「食う?」
「……、……」
「はは、眠そー」
水希は座卓に皿を置くと、また台所に戻っていった。
その背中をぼんやり見つめ、遙は机の上の皿を見る。
きゅうと腹が鳴る。正直な腹だ。
水希にも聞こえていたのだろう。湯のみ2つと、急須を持って戻ってきた彼は、「食べなよ」と笑った。
水希は座卓の前に正座した。電子ポットのボタンを押して、湯気の立つ湯を急須に注ぐ。
いくらか意識がはっきりしてきた。
「はい」
遙の前にはこんがり焼けたサバと、揃ったお箸、今しがたやってきた緑茶。
「買い物の後、おまえ、なんか沈んでたから」
「……、……」
「お節介したくなって」
遙が聞かずとも、水希は自分がここにいる経緯を語りだす。
水希は自分の分の湯のみを持って、口許まで運び、そっと胸元まで下ろした。
湯のみは湯気を立てている。
水希は猫舌だと、遙は随分昔に聞いたことがある。
「おまえ、縁側で寝てたよ」
「……」
「声かけても起きないから、居間まで運んで寝かせといた」
「……そうか」
「ん。で、おまえは寝てるし、俺はお腹すいたし。なんか食べようと思って冷蔵庫開けたらサバしかないから」
「……そういえば今朝切れた」
「今日買えばよかったのに」
水希は呆れ顔をして、湯のみを傾けた。
温度はちょうど良かったようだ。
「まだ夕方だし。買い物、もう一回行こうよ。遙もよく寝ただろ?」
「……ん」
「遙がそれ、食い終わったら」
遙も湯のみを持ち上げて、喉を潤した。
胸から広がる熱に、体がポカポカする。
「……水希」
「なに?」
「泊まれ」
「……」
水希はきょとんとしたが、すぐにジト目で遙を睨んだ。
「今日したら、水希が孕みそうな気がする」
「……おまえも大概ストレートだよな」
はあ、とわざとらしいため息をついて、水希は立ち上がった。
遙はそれを目で追う。
「リンゴでも剥こーっと」
座卓のお盆の上に置いてあったそれは、近所の老夫婦からもらったやつだ。多分、真琴たちにも配られただろう。
水希はそれを持って、また台所に立った。
遙への返事はない。
「……つれない」
遙は口を尖らせてつぶやいた。
水希に負けないぐらいのため息をついて、箸を手に取り、サバの身をほぐす。
外は夕暮れ。
空は茜色。
あれは夢。
身をつまみ、口に運ぶ。
「……うまい」
2人とも料理が上手。
少女はそう言った。
「……水希」
「ん」
リンゴを剥く手を止めて、水希が振り返った。
「……お前、子育て似合いそうだな」
「……おまえ、それで不機嫌だったんだ?」
遙の何気ない一言で、水希はほとんど察したようだ。
「いきなり機嫌悪くするし、孕みそうとか言ってくるし。とうとう詰んだなって思ったけど……なるほどね」
皮肉も忘れずに言った。
リンゴを皿に盛って、座卓の前に座り直した水希は、もぐもぐとサバを食べる遙をしばらく見つめた。
「……まあ、もともと子供は好きだけど」
リンゴをひとつフォークに刺して、やおら夕日に目を向ける。
「遙と一緒なら、もっと幸せかもね」
しゃく、と一口。
果汁が唇を濡らした。
金赤に染まる目。あの少女の目だった。
「……、」
「待て。どうして戦闘態勢になった」
「今やらないと男が廃れる気がする」
「相変わらず湧いてるな、おまえ……」
少し腰を上げてじ、と見てくる遙なんかは、フェンスに前足をかけて牙を向けてくる動物園のライオンのようだ。
「買い物。行くんだろ」
「……」
「行かなかったらおまえ、明日の朝ごはんも弁当も抜きになるよ」
「ぐ……」
「今、一時的に腹を満たすのと、明日空腹で悶えるのと、どっちがいいわけ」
「……一時的に腹を満たす」
「だよな……ん? いや、どうしてそうなるんだよ、おまえ、さっき唸ったろ?!」
「俺の中の男が廃れるから」
「そんなくだらない男なんか廃らせとけよ!」
これはのんびり見物している場合じゃない。
フェンスを越えてきたライオンに、水希は慌てて立ち上がった。
逃げるように台所に向かっても、目線がついてくる。
「ああもう! 泊まってやるから! 買い物は行く!」
「……」
「返事!」
「…………わかった」
ほとんど強引にもぎ取った返答に、遙は不満そうな声色で頷いたが、内心満足していた。
そっと目を閉じても、夢の続きは見られない。
幸せそうよ。
今なら、当たり前だろ、と。言ってやれるのに。