驚いたことにこの一ヶ月間、エアハルトも冒険者ギルドには通っていたらしい。大体まだ日が上がり始めた早朝のうちに仕事を受けにきて、その場でいくつか依頼をもらい、日がとっぷり暮れてしまってからやっと終わった仕事の報告にきてのだという。思えばここ一ヶ月、ヴァレリアンはお店も開き始めるような時間に製作依頼を受けに行き、長い時は3日ほど宿で仕事に浸り、夕暮れ時に納品に向かっていた。会わなかったのは単に2人ですれ違っていたからのようだ。
ところでこの男、やはり頼まれごとを断ることを知らないらしい。何の話かと言うとそれは1時間ほど前。一緒に星を見ながらヴァレリアンが「よかったら今日一緒に泊まりませんか?」と声をかけた時の話だ。ヴァレリアンの提案に、エアハルトはうんうんと悩む様子を見せていたが、ヴァレリアンがふと閃いて「俺と一緒に泊まってくれませんか?」と言い直したところ、エアハルトはうんうん唸るのをやめて「……わかった」と承諾したのである。
「それがヴァレリアンくんがおれにしてほしいことなら……」
言ってはいないが、エアハルトの返事にはこのセリフを続けてもいいだろう。
頼まれごとに弱いのか。お願いしますと言われたらエアハルトはわかりましたと答える。しかも、それに対する見返りは何も求めていない。ヴァレリアンはエアハルトにただの言いなりだと指摘したが、それを訂正する気はなかったし、むしろ今、エアハルトが室内に設置された椅子にちょんと腰掛けている姿を見ていると「本当にあなた、人の言いなりですね」と改めて言ってやりたい気分でもあった。
「シャワー浴びないんですか?」
「え。ん……ヴァレリアンくんが先かなって思って……」
「俺は、どっちでもいいですけど」
「ん……じゃあ、入るね」
いそいそと立ち上がったエアハルトは、とぼとぼと浴室へと消えていった。
ヴァレリアンは引いたままになっている空席を見つめる。かの男。一か月前はあんなにやかましくヴァレリアンくんヴァレリアンくんとまとわりついて来たが、さすがに間をあけて久しぶりに会った当日に泊まりともなると気まずさを覚えているらしかった。
まあ。別れ方もあんなんだったし……。ヴァレリアンは一人胸の内で呟く。つっけんどんな自分の対応を思い起こして、思わず苦虫を噛み潰したような顔になった。一か月間をあけて、以前と変わらずヴァレリアンくん! と肩を寄せられては、この人のメンタルは鋼か? と疑うものだ。エアハルトのぎこちない態度は、普通のことだろう。
浴室から聞こえていた水音が消えた。そろそろ出てくる頃合らしい。
「ヴァレリアンくん」
「はい。……あの」
「ご、ごめん。その。多分ベッドのところに……取って欲しくて」
あわあわと指さししてくる腰巻タオルのエアハルトは、替えの服をベッドに置いたままにしていたらしい。
最低限のマナーで腰にタオルは巻いて出てきたらしいがほかはまったくである。ヴァレリアンは大きくため息をして、ベッド上に畳んで置かれた、宿屋備え付けの薄い羽織物を掴んだ。
近づくとぽたぽたと髪から水滴が落ちているのがわかる。
「ちゃんと拭かないと風邪引きますよ」
「うん……着替え、ありがとう」
ヴァレリアンにむけて、へらっと笑うエアハルト。
首を傾げたついでに濡れて伸びた髪に隠れていた首元が少し見えた。
噛み痕。
「……。それ、ちゃんとよく洗いました?」
「え」
「その……」
と、首の歯型のことを指摘しようとして、そこ以外にもところどころ、エアハルトの体の至る所に痕があることにヴァレリアンは気がついた。それこそ、モンスターと戦ってついたのだろうなという擦り傷も多かったが、戦闘ではつかないだろなという鬱血痕や、明らかに人間による噛み痕も。ちらほらと。
「……ヴァレリアンくん?」
「嫌じゃないんですか」
「うん?」
「嫌じゃないんですか? これ」
ヴァレリアンは、エアハルトのへそのあたりにある鬱血痕に指を這わせる。
少し擽ったそうに身をよじり、エアハルトはヴァレリアンの指先の示すところに視線を向ける。それから、困ったように眉を下げた。
「……えっと」
「……」
「……嫌じゃない、と……思う」
「……」
ヴァレリアンは黙って聞いていた。以前であればその答えを聞いてしまえば、そうですかやっぱりそうですか失望しました汚らしい二度と俺に近づかないでくださいと、矢継ぎ早に罵ったに違いない。
ヴァレリアンはじっとエアハルトの瞳を覗く。まだ彼の眉は下がったままだ。
「……ありがとうって、言ってもらえるから……」
「……」
「嫌じゃないと思う。……わからないけど」
ヴァレリアンはおもむろに息をつく。触れていた鬱血痕とは別の鬱血痕を指で撫でた。
「そうですか」
矛盾してますよ、と続けた言葉はヴァレリアンの喉奥に落ち、エアハルトには届いていない。嫌じゃないなら、なんでそんな困った顔をしているんだ。嫌じゃないのなら、いつもみたいに能天気に、屈託なく笑えばいいのだ。嫌なわけないじゃない、ヴァレリアンくん。どこまでも眩しく笑えばいい。この人は、それができる人だ。
脆い人だな、と思う。ありがとうって言ってくれるから――。いくらでも偽れる感謝の言葉で酷いことをされた自分に布をかぶせているのだろう。気づいていないのか気づいているけど知らぬふりをしているのか。
どうせ。気づいてないのだ。バカだから。
「…………エアハルトさん、本当に、バカな人ですね」
「ん……」
エアハルトはややむっとした。ヴァレリアンにバカと言われると、その顔をするらしかった。
「ほら。さっさと服きて髪を拭いてください。はやくしないと俺が拭きますよ」
「えっ。拭いてくれるの、ヴァレリアンくん」
「えっ」
「へへ」
さっとヴァレリアンに背中を見せたエアハルトは腰に巻いたタオルを外し、薄いパジャマを羽織った。どうでもいいが、しりがみえた。タオルを外すのは服を羽織ってからでいいだろう。
足元のしっぽがふりふりと忙しなく動いている。
「あの。下着……」
「洗うから替えがないもん」
「……いや」
「いいじゃん。寝るときぐらい。外にいかないんだから」
「……」
「どこ座ったらいい? むこう?」
ヴァレリアンは呆然とした。
自分は今、薄手の羽織物を1枚羽織ったエアハルトに髪を拭けとせびられている。薄手の羽織物を1枚羽織っただけの、ノーパンの……
さっきは小難しく考えたがそもそもの話だ。もしかすると貞操観念が緩いのか。こいつ。
「………………じゃあそこ、座ってください」
「! うんっ」
ヴァレリアンが折れた。
というか、ヴァレリアンは考えるのをやめた。
お互いに疲れていたのか、布団に横になってからは揃ってすぐに眠ってしまった。ヴァレリアンはもしかするとこのバグ距離奴、自分の布団に潜り込んでくるのではないかと思ったが、それは杞憂に終わった。エアハルトはすうすうと寝息を立てて横のベッドで寝ていたし、ヴァレリアンは、横に、同じ空間に人がいるという状況で、らしくもなくぐっすり熟睡した。
そしてちゅぴちゅぴと鳥がなく優雅な朝に目が覚めたのだ。
ヴァレリアンが目をこすって体を起こすと部屋の中はいくらか綺麗に片付いていた。いつもと違う部屋の様子に、ちょっぴり焦ってから、そういえばエアハルトと泊まったのだと思い出す。
自分がずっと借りている宿では狭いから、昨日はエアハルトを誘って別の宿に一泊したのだ。
そっと横をむく。空になった布団は綺麗に畳まれている。
「……エアハルトさん」
静かな部屋なので、ヴァレリアンの小さな声でもよく通った。けれど、その名前の持ち主からの返事はなかった。
ヴァレリアンはベッドから降りてテーブルの方に向かう。机にはお金が置いてあった。ヴァレリアンが昨日宿の主人に支払ったのと同じ額だった。
それをぼんやりと見て、ぐるりと部屋の中を見渡す。エアハルトの荷物らしきものは卓上のギル以外、何も残っていなかった。
先に出ていったのか。
そういえば、この頃は早朝から冒険者ギルドに赴き仕事を受けていると言っていた。
ヴァレリアンは一通り部屋の中を見終えると、ぼふりとベッドに倒れ込んだ。まだ朝早い。日もやっと眩しくなろうとしかけている頃だ。
二度寝ができる。
宿だってまだ、追い出される時間ではない。まだまだ、ゆっくり眠れる。
…………、
……。
起こして声をかけてくれたって、よかったじゃあないか。何も言わずに、出ていくなんて。意地が悪い。