ヴァレリーは教師だ。務めている共学進学校で古典を教えている。3年生のクラス担任もしていて、受け持つ部活は文芸部。体育教師と間違われるルックスは女子ウケがよく、ノリと気前の良さは男子からも人気。気が利く性格なので教師同士でも上手くいっている。仕事量は多いけれどヴァレリーは順調な教師ライフを送っていた。
 去年までは。
 今年ヴァレリーは頭を悩ませていた。なぜなら彼の順風満帆な教師ライフを脅かす存在が現れたからである。
 進路指導の評判を買われ、今年もヴァレリーは3年生のクラス担任を任された。部活の方は教員の異動などがあり、文芸部から変わって軽音部に配置された。新たな3年生クラスと受け持った軽音部。やつは、そのどちらにもいたのだ。
 眉目秀麗、成績優秀、スポーツ万能。
 夢の三拍子を備えた生徒がいるという噂話自体はヴァレリーも聞いたことがあった。噂自体は2年前、つまりその子が1年生のとき耳にした。けれどヴァレリーの受け持ち学年ではないので、生徒の母数が多い高校の中で関わりもなければ目にすることもなかった。
 その子が2年生の時も同じだ。名前は相変わらず耳にしたが本人に会うことはなく。
 そして、その子にとっての3年目。ヴァレリーが軽音部の受け持ちに変わったその年。
 ヴァレリーは放課後の音楽室の扉を開く。ギターの音。ベースの音。ドラムの音。シンセサイザーの音。様々な楽器の音が混ざってヴァレリーを迎えた。
 部員たちがヴァレリーを見てお疲れ様ですと声を上げる。まるで軍隊である。ヴァレリーも持っているバインダーを振りながらそれに応えた。
「せーんせ」
「おっ。……こら」
 ずしりと背中にかかった重み。
 鼻をくすぐる甘い匂い。
「学校でお菓子は食べちゃダメですよね? エルアくん」
「えー?」
 ガリ。飴を噛み砕く音がした。
「真面目だねぇ。せんせ」
「あと教師に抱きつかない」
「はぁ。せんせーつれない」
「部長ー!」
「んー?」
 ヴァレリーの背中から温もりが離れる。部長、と呼びかけられたその生徒は手招きする生徒の所へフラフラと歩いていった。
 その様子を見ていたヴァレリーが大きなため息をつく。
 軽音部部長の3年生。ジグルフ・エルア。彼こそが、眉目秀麗、成績優秀、スポーツ万能の三拍子を揃える噂の生徒であり、ヴァレリーの順風満帆な教師生活に突如荒波を立て始めた存在である。
 確かに噂通り顔立ちのいい子。アイドルやってますと言われてもやっぱりねなんて思ってしまうような。
 クラス担任になってから知ったが成績も上位。というかトップ。しかも全科目。
 別の高校からスポーツ推薦がきていたという話通り体育の授業ではヒーロー。
 そんな恐るべき完璧人間とヴァレリーのファーストコンタクトは新学期初日の3年2組。クラス全体が担任の登場に沸き立つ中、そいつは両手で頬杖をついていた。眠たそうに黒板を見ていた瞳は挨拶をするヴァレリーに向き、ヴァレリーも教室の生徒を見渡していて、そのうち、お互いに目が合った。
 あれが噂の子だな。と、ヴァレリーは一瞬で理解した。綺麗な顔立ちの子だな。そんなふうに思った。
 目が合った時のジグルフは、眠たそうに細めていた瞳をゆっくりと瞬きし、それからまさに――
 からかいがいのあるやつがきた。そういわんばかりに口角を上げてヴァレリーに向けて微笑んだのだ。
 噂の生徒ジグルフ・エルアはなかなか自由な生徒だった。授業中に居眠りしていたり、持ち込み禁止とされているお菓子を持ってきていたり。しまいには学校に着けてくることはないけれど、校則で禁止されているピアスが空いているときた。
 それに関してヴァレリーは本人を注意したことがあるし、学年主任にも相談したのだけれど。本人は直す気を見せないどころか学年主任までも「まあでもエルアくん優秀だからなぁ」と。
 あのユルユルな学校生活態度、学年首位の成績で許されているのである。
 まあそれなら目を瞑れる。なんだかんだ生徒間でも仲良くしているようだし、揉め事を起こさないし成績もいいときたら指導はしにくいし。
 しかし。
「ヴァレリーせんせ」
「はいはい。抱きつかない」
 部長と呼びかけてきた生徒とのやり取りが終わったらしく、ジグルフはまたヴァレリーのところにフラフラと戻ってきて、背中にのしかかった。
 ヴァレリーが注意するも離れる様子はもちろんない。
「文化祭の企画書どーぞ」
「どうも、……」
 眼前に垂らされる紙を取ろうとしたらひょいと持ち上げられた。
「……エルアくん」
「んー」
「抱きつかない。教師で遊ばない」
「コミュニケーションなのに」
 つまらなそうな声の後に、企画書とやらはぺらりとヴァレリーの前に置かれた。
「俺せんせーの匂い好き」
「人の匂い嗅がない」
「けち」
「けちじゃないです。ほら、完全下校時間になるから部員集めてください」
「はーい」
 ヴァレリーから離れてジグルフは部員に呼びかけた。各々楽器を片付け、下げていた机も元の配置に戻していく。
 こんな態度なのに部長が務まっているのは、やはり彼が根本的にできる人間だからなのだろう。
 ヴァレリーがいつも通り生徒をまとめ、完全下校時間に間に合うように生徒を帰路につかせる。ガヤガヤとざわめきながら去っていく背中を眺めながら明日の授業の準備をしておかないとなとぼんやり思う中、「せんせ」と聞きなれた声がした。
「またあした」
「……。はいはい」
 ヒラヒラと手を振ってくるのをしっしと追い払った。
「ジグー! 帰りにマック寄ろうぜ!」
「んー。いいよー」
 へにゃりと笑って友人の輪に加わる様子は至って普通の男子高生である。ヴァレリーはその背中を見送ってから小さなため息をついて、校舎に戻った。
 語るまでもないだろうが、ヴァレリーの順風満帆な教師生活を脅かすのは一生徒ジグルフ・エルアによるヴァレリーへの過激スキンシップである。
 再び遡ること桜の舞う4月。
 ヴァレリーが新担任となったその日の放課後。教室から出て職員室に向かって歩いているヴァレリーを、ジグルフが追いかけてきて、「ヴァレリーせんせ」と。今と変わらない甘い声で呼びかけてきた。
「どうしました?」ジグルフを特別視することもなく日頃他の生徒と接するのと変わらない様子で返事をし振り返った。
「せんせー俺のこと知ってる?」
「え? 知ってますよ。学年首位の天才くんでしょ?」
「うん。俺のこと気になってた?」
「? 気になってた、ていうのは?」
「俺は1年の時も2年の時もヴァレリーせんせのことずっと見てたよ」
「えっと? わっ……」
 ふに。と唇に柔らかい感触。
「俺せんせーのこと好き」
「…………」
「ジグー!」
 遠くから声がした。彼の友人がジグルフを探しているようだ。
「またね。せんせ」
 ひらひら。ジグルフが手を振って踵を返す。
 ネクタイを引っ張られキスをされたのだと気づいたのはジグルフが去ってからだった。はっとしたヴァレリーは慌てて周りを確認した。いまは誰もいない。多分、人に見られていない。はず。
 それが始まりだった。
 ジグルフはヴァレリーが教室に来ると人目を気にせずヴァレリーに抱きつく。兄弟みたいだねと誰かが言った。あんなに懐かれてて羨ましいなあ。そんな声も聞こえた。
「テイラー先生。変な気を起こしちゃあダメですよ」
「起こしませんよっ! というか、注意するならエルアくんにもしてくださいよ!」
「いやぁ。エルアくんはねえ……」
 と教師陣も成績優秀スポーツ万能なジグルフには物申せず、なぜかヴァレリーだけが責められる日々である。
 せんせ。
 せんせ。
 注意しても抱きつかれ、やめなさいと言っても抱きつかれ。ことある事にせんせ。せんせ。教室でも構われ、部活でも構われ。
 気づけば桜も散って、そろそろ蝉が鳴き始めそうな季節。まるでそれが当たり前のようになってきた。
「せーんせ」
「……」
 ヴァレリーが廊下を歩いていると後ろから声がかかった。間延びしたその呼び方。その声の持ち主は今更振り返って確認するまでもない。
「なんですか。エルアくん」
「んー」
 ヴァレリーはやっと振り返った。
 ジグルフが、飛び込んでこいと言わんばかりに手を開いている。
「……。そんな手をひろげたって、俺は君に抱きつきませんよ」
「いじわる」
「わっ。……もう」
 たたっと駆け寄ってきたジグルフがお決まりのようにヴァレリーに抱きついた。「離れなさい」注意しても聞かないのは知っている。
「ねー。なんでせんせーってそんなにつれないの? 彼女いないでしょ?」
「なんでそんなこと知ってんです」
「やっぱいないんだ」
「……」
 かまをかけられたらしい。
「俺が可愛い女子生徒だったら落ちてた?」
「落ちてません。生徒のことはそんな目で見てません」
「はー。つまんない男」
「つまらなくて結構です」
「……」
 むす。そんな効果音が似合いそうなふくれっ面になった。
「……。せんせ」
「はい」
「ちゅーしよ」
「しません」
「……。けち」
「けちじゃないです」
「ねー」
「……」
「ちゅーしてよ」
 ちゅー。と何回も繰り返される。ぐりぐりとヴァレリーのお腹に頭を押し付けて、やめる様子がない。
「ちゅーして」
「しません」
「好きな人にちゅーされたい」
「しません」
「せんせー」
「あのね。教師をからかうのもいい加減にしなさい」
 駄々っ子のようなジグルフを宥めていたヴァレリーだったが、あまりのわがままっぷりについにぷちんと堪忍袋の緒がきれた。
 初めて聞いたヴァレリーのドスの効いた声に、さすがのジグルフもピタリと黙る。抱きつくのをやめてヴァレリーを見上げ、「先生」と。小さく呟くのが早かったか、肩を掴まれ押されるのが先だったか。
「俺は大人ですよ。ジグルフ」
「っ」
 ジグルフの背中がドッと壁にあたる。
 追い打ちをかけるようにヴァレリーはジグルフの顎をつかみグイと上を向かせた。
「前みたいな、子どものキスじゃあ済みませんよ?」
 どうせヘラヘラと笑われるんだと思っていた。何本気になってんのせんせ? そんな軽口を叩きながらバカにされるんだと。
 けれどその予測は外れた。
「……、……」
 悩ましげに寄った眉。きゅっと結ばれた唇。
 うるうるとヴァレリーを見つめていた瞳は、逃げるように床を向いた。
 は。と小さな吐息はどちらのものだったのか。
「テイラー先生ー」
「!」
 第三者の声。
 ジグルフは弾かれたかのようにヴァレリーの元から抜け出し駆けて行った。
 ヴァレリーは突然のことに呆けていたが、「テイラー先生」ともう一度呼びかけられ、現実に戻る。
 近寄ってきた生徒は、クラス分のノートを持っている。課題をヴァレリーに届けに来たようだ。
「またエルアくんにからかわれてたんですか?」
「……、まあ。そんなとこです。ノートもらいますね」
「はい」
 流石に何十冊とあるノートはずしりと重い。
「? 先生、なんかにやけてませんか?」
「えっ……。そんなことないですよ」
 ヴァレリーはぱっと口元を手で隠した。隠した時に、口角が上がっていたのに気がついた。
 これはちょっと、まずいかもしれない。