『お稽古』と呼ばれるようなものは当然のものだった。社交ダンスやテーブルマナー、絵画にフェンシング、乗馬、弓術……家庭教師がついて厳しく教えられるそれらを、俺は心からは楽しいとは思っていなかった。
けれどもそのつまらないお稽古の中で、弦楽器や管楽器、音楽は好きだった。
一番好きだと思ったのはピアノの音。白と黒の鍵盤を弾ませ音を奏でるのは唯一、血筋をなぞる己が人生の中で自分を表現できる世界だった。
誰かに聞いてもらうために上手くなろうと思ったことはなかった。好きだから譜面を読んで鍵盤に指を躍らせた。街中で聞いた曲をふと思い出したときもぽろ、ぽろと白鍵と黒鍵で弦を打った。
ピアノに夢中でいれば母親は満足そうにしていた。そういう意味でも気が楽だった。それもまた、音楽を良いと思った理由かもしれない。
演奏を聞きに来てくれる人の顔は何となく、覚えている。舞台の中央。交点に立ってお辞儀をするその時に、あの婦人はいつも来ているなとか、あの紳士は今日も何かをメモしているな、とか。広いホールを埋め尽くす人影も案外、舞台側から見えるものだ。
「……」
第一ボタンまできちんと止められたシャツ。丁寧な細工の施されたベスト。それから――長い綺麗な銀の髪。
右目に黒の眼帯をつけた男性は、自身の演奏会では初めて見る存在だった。
演奏を聴きに来てくれる人々は老若男女、様々な人がいるけれど、彼のような雰囲気は今まで見かけたことがない。
鋭く、研ぎ澄まされた剣のような警戒心を持っているのにどこか寂しそうな姿。矛盾したその雰囲気が印象的だった。
フォンテーヌ廷より外に出て、草花の茂る中にある丁度良い岩に腰を下ろし内陸湖の揺らぎを眺めつつ、フルートを鳴らしていた。手入れをしたばかりのそれはよく滑り、よく響いた。
ただ自分で気ままに音を奏でる時間。演奏会が嫌だという話ではないけれど、静かな月夜、心ゆくまで音色と戯れるのも逆に飽きてプツリと音を切ってしまうのも己の好きにできる。そういう自由な時間が好きだった。
不意に月が翳る。風が吹き、前方の木々が大きく揺れた。
ひとつ吹かれただけにしては不自然すぎる乱れ方。フォンテーヌ廷の外に猛獣や凶暴な動物は少ないものの、いないわけではない。
楽器を膝元までおろし木々の奥を眺めていると、後方からぽふ、ぽふと、控えめな手のひらの音がした。
「……」
「すみません……邪魔をする気は、なかったのですが。素敵な演奏でしたのでつい立ち聞きしてしまいました」
振り向いた先に立っていたのは、先日の演奏会で見たあの右目に眼帯をした男だった。
彼はその真面目そうな表情のまま淡く微笑んだ。氷のような薄い、エアリーブルーの瞳にはやはり鋭さと孤独が滲んでいる。
この瞳を見たら多くの者は気圧されるだろう。けれども俺は演奏家の端くれだった。聴衆の目くらいで怯むわけがない。
「別に、いいよ。だけど、こんな夜に一人で外を歩いているなんて危ないんじゃないの? 見たところ、スネージナヤの人だよね」
「……ご安心を。暗闇には、慣れていますから」
男が少し肩を揺らして笑う。
口角を持ち上げて作った笑みは、貼り付けたようにも、苦笑のようにも見えた。
「遥々スネージナヤから来たのに、歩き回るのが郊外の方なのも珍しい」
「今宵は月夜が綺麗でしたから……。だから少し、外に出たかったのです。そうして歩いていたら、涼やかな音が、聞こえたので」
「……ふ、セイレーンに誘われた船人みたいだ」
ずっと昔に読んだ物語のことを思い出してつい、笑ってしまった。俺は別に楽器の音色に誘われてふらりと現れたこの人を、食い殺しやしないけど。
「セイレーン……」
「航行している人を歌で誘って難破させるんだよ。聞いたことない?」
「いえ……ありません。興味深いお話ですね。どうしてわざわざそのようなことをするのでしょうか」
「船人を食べるため……だった気がするけど。昔に読んだだけだし、本の内容をあまり覚えてないや」
夜風がまた吹いた。彼の長い銀髪が空に流れ、寄せて返す波のようにたおやかに靡く。
「……きれい」
「?」
幼い頃はパレットと絵筆を握る時間もあったことをふと思い出す。風景や人物を表現しなさい、と指示されていたのは随分苦痛だったけど、描きたいものを探せと言われたあの頃の俺がこの人を見つけたら、きっと胸を熱くして選ぶのだろうなと思った。
「……すみません、何を言われたのか、よく聞こえませんでした」
「きれい、って言っただけだよ」
「……確かに今晩は、夜空がとても綺麗です」
「いや、あなたが。俺は、星空じゃなくてあなたをきれいだと言ったんだ。今なら絵画の教師が、美しいものは形として残したいでしょう、て言ってた意味がわかる気がする」
「……ああ、その。私は……褒められているのですね」
一瞬遅れて、戸惑いながらも言葉を受け止める様子はややぎこちない。慣れない対応に狼狽えるさまにも見えてしまい、おかしい気持ちになる。
「きれいって、言われたことないの?」
「……社交辞令としては、あるのですが。それに立場上、あまり個人の話を他人としないもので」
「ふうん? 立場って?」
「……先程私を『スネージナヤ人だ』とお気づきになられたようですが、スネージナヤから『来訪』している、といえば大方、察していただけるかと」
「うん? ……あー、ファデュイだ。もしかして、ファデュイの執行官?」
「はい」
彼は驚きもせず、当然のように頷いた。身分を明かしたわりに相変わらず穏やかな態度だし、声の抑揚もない。
ファデュイはよく、噂を聞く。冷酷無慈悲だとか、残忍だとか、異常者だとか、そういう。ただ俺自身としてはそういうものをまだ経験したことがない。ファデュイの関わりといえば――壁炉の家の子供たちが演奏会にたまにくるけど、彼らは礼儀正しく、また無邪気でもあると思う。
だから別に俺も、彼の立場を知ったからと言ってなにか畏怖することはなかった。
「よく知らないけど、外交とかするんでしょ。大変だね」
「……」
「あ。名前は、なんて言うの? ファトゥスのほら、……かっこいいコードネームとかじゃあなくて、あなたの名前を知りたいな」
「私の名前など、お耳に入れても退屈させてしまうだけですよ」
「教えてくれないの?」
「……」
また、風が吹く。今度は夜空に雲がかかってきた。星々の煌めきが少し弱まる。
「……ロスト、です」
短い沈黙の末静かな音が流れる。
風が静まったとき、夜空に星が戻る。隠れていた月も顔を出していて、少し白んで光った。
「ふうん、ロスト……」
「……あなたのお名前も、伺ってもよいですか?」
「え。……内緒」
「……、……」
人差し指を添えて唇を結ぶ。
動揺や喜色の一つも見せなかった彼の――ロストの瞳がきょとんと丸くなった。予想外の返答だったらしい。
俺と同年代のような見た目の割に大人びていると思っていたけれど、ロストのそういう表情をみると、まるで同級生のような親しみを感じる。
「……なぜ、内緒なのでしょうか」
「んー……聞きたい?」
「あなたさえ良ければ」
「じゃあやっぱり内緒」
「……」
今度はほんの少し眉が寄る。わかりにくい変化だけど、よく研がれた剣のようなロストの人間らしい一面を見られて、なんだか気分がいい。
「俺は真名を、名乗ったのですが……」
今度は俺の方が、なにやらぽつりと呟いたロストの声をよく、聞き取れなかった。
聞き返すのは野暮なような気がした。ロストが座れるようにと少しずれて、膝に乗せていたフルートを持ち上げ、そ、ともう一度口元に寄せる。
キーに添えた指先は夜風に晒され続けたせいで少し、悴んでいる。けれどもそれが枷となることはない。己の指は動きを覚えている。
息を吸い、筒へと吐き出した。空気の振動が音になって夜空に消えていく。ゆったりとした音律は決まった名前のない、ただ自分が好きな曲。
空に星々が煌めくように。木々の影に眠る精霊が、風の軌跡に踊るように。笛の音を遊ばせた。
「……」
横に温もりが寄る。
ちらりと横目で見たロストは、瞳を伏せて旋律に耳を傾けていた。
ロストの長い髪が風でふわりと揺れる。長さのある毛先は時折、後ろを向いてはまた正面に戻って、夜風に弄ばれている。
今宵はこの人の飽きるまで、旋律を奏でて遊ぶのもいいだろう。気紛れに吹く風の音色を、伴奏にして。
◇
エピクレシス歌劇場に初めて足を踏み入れたのはまだ親に手を繋がれて歩くような歳の頃。舞台袖の様子を知ったのは時計が読めるような歳の頃。広い、広い舞台の中央で期待と、品定めするような数多の眼差しに突き刺されたときの緊張は、もう、忘れてしまった。
己の道は、すでに敷かれていた。母から引き継いだ優れた聴覚を以て音楽の才能を開花させることこそが己の役目だと幼い頃から諭されてきた。
最初は不安を抱えていたピアノの発表会も回数を重ねると慣れるものだった。演奏を終えて立ち上がり拍手に包まれる時間よりも、ピアノに向かい合っている時間の方が好きだった。
音を奏でているときは俺はきっと自由だから。譜面に記された音楽は、まだ見ぬ世界を教えてくれるから。曲の裏に潜ませたメッセージを拾って、心を踊らせるのが好きだった。
「今日は、ヴァイオリンだったのですね」
「うん?」
「以前の演奏会ではピアノを弾かれていたので。……昨夜はフルート、でしたでしょうか。演奏家は、ひとつの楽器に精通しているイメージでした」
「うーん……俺は別に、ピアニストってわけじゃないんだ。楽器は色々触ってる」
「そうなのですか……」
「オーケストラにも誘ってもらえたけど、人と合わせるのが苦手だし、脱退しちゃった。あはは」
演奏会を終えた後にロストとまた鉢合わせたのは偶然だった。入場チケットの半券を持ってルキナの泉の前でぼうっとしている様子を見かけて、俺の方から声をかけた。
カフェに誘うとロストは二つ返事で頷いてくれた。言ってから、執行官は多忙かもと思ったのだが杞憂に終わり少しホッとした。
フォンテーヌ廷のカフェ・リュテス。昼を過ぎた中途半端な時間だからか混雑はしていない。
「オーケストラっていえば……ロストは指揮者みたいなものなのかな」
「?」
「ふふ。だってファデュイの執行官なんでしょ? いろんな役割を持つ部下を指揮してるのかもなあって」
「……まあ、……そう、ですね。組織内で、そういう上下関係はあります。でも私は、指揮者のように常に優雅であるわけでは、ないですよ」
「指揮者もそうだよ。全然優雅なんかじゃない。俺もまだオーケストラにいたとき一回、ソロ部分の弾き方が気に入らないとかで文句言われて、指揮者と一晩言い合ったもん」
ロストがぱちぱちと睫毛を瞬かせる。
話しながらアイスティーのカップを取り、ガムシロップをスプーンで掻き混ぜていく。溶け残りはない。
「もしかして、意外と思ってる?」
「……少しだけ。私は内情に詳しくありませんので、漠然と、演奏家や指揮者は、お淑やかなものかと」
「はは!」
「違うのですね?」
「ふふ……。まあ、うん、演奏家や指揮者にも人それぞれで癖はあるし。人となりもある」
「そうですか。私もまだ、浅慮ですね」
「実際、俺がちょっと乱暴なだけだよ。他の演奏家はもっと丁寧に接してくれると思う。人によっては、ロストみたいに堅苦しいくらいに」
「……」
ロストは一瞬、困ったように口籠もった。彼との付き合いはまだ浅いが、ロストはきっと揶揄されることには慣れていないのだなと、ここのところ思っている。
ロストはしばらく、フォークを片手に手元のハニーケーキを見つめ黙っていたが、何か意を決したかのように、ほんの少しだけ拗ねた瞳でこちらを見た。
「でも。……そうですね、私は少し堅苦しく、あなたは少しばかり乱暴なのかもしれません」
「ん?」
「先日、私は名乗りました。しかしあなたの名前をまだ、教えていただいていません」
「ん、ふふ! そうだったっけ?」
「……はい」
ロストが僅かに眉を寄せた。こういう少しムッとした顔は、初めて見た。 大人びたロストの子供っぽい態度のギャップが面白くて、つい揶揄ってしまいたくなる。ロストにもし、所属の立場なんてものがなければ、学友のようなやり取りができただろうか。
「俺の名前なんて今日のパンフレットに、記載があったんじゃないかと思うんだけど。それにファデュイだって、情報網はすごいんでしょ?」
「それはそうなのですが、私は、まだ調べてもいません。やはり本人から聞きたいものです」
「……」
「いけませんか?」
「……っく、ふふ……あはは!」
真剣なロストの態度を見て、思わず吹き出してしまった。笑いの波が収まらない。抑えようとするほど震えてしまって、アイスティーのカップを持ち上げることもできない。
「あの……なぜ、そんなに笑われるのでしょう」
「だって、ふふ……ロスト、必死なんだもん」
「必死には、なっていますよ。大事なことですので」
ロストは本当に、素直な人だと思う。素直で、優しい。そして同時に、少し愚かな人だと思う。己の内なる欲求を理性で押し込めて、それが正しい生き方だと信じているんだろう。
アイスティーをひとくち飲む。
ロストは静かに、俺の答えを待っていた。
「ふふ、……じゃあ、ロストが俺と友達になってくれるなら、名前を教えるよ」
「……友達、というのは、どのような」
「お互いの都合が合ったら今日みたいに会って、二人だけで好きな場所に行ったりする。そういう感じの、友達」
「……」
「だめかな」
ロストがやや、戸惑ったような顔をした。それでも拒否の言葉はすぐには出てこない。
少しの逡巡。ロストはおずおずと、小さく頷いた。
「……わかりました。私でよければ、友人になりましょう」
「ふふ、ありがとう。……俺の名前は――」
◇
強力な野心や願望を持ち、それが神のお眼鏡にかかったとき、人は『神の目』を得るのだという。そして俺は、それを有していた。
俺自身に強烈な野心があるのかと問われれば、いまいちピンとこない。『由緒正しき貴族の一人息子』である自分は敷かれた道をただ歩む、そういう生き方しか選べなかった。
唯一、音楽には野心がある。音楽と共に在ることは自分の意思で決めた。けれどもその程度のことであって、大きな野心ではないはずだ。
『神の目』はずっと、楽器ケースとそっくりな小さな革の箱の中に閉まっている。それの使い方など、わからないし、誰かに見せる必要もないものだから。
だけどこの箱の中身を誰かに見せることがあるのならば、ロストに見せようかなと、最近は思う。
彼はきっと、その秘密を他言はしない。ただじっと、何かを考えて、瞳を伏せて――何も聞かずに胸に仕舞ってくれるだろう。
もしロストが何かを願っているなら。この目を使って俺が叶えてあげられたらいいなと、漠然と思うのだ。
ヴァザーリ回廊の泉近く。指定した待ち合わせ場所で、先に到着していたロストは泉を見下ろしていた。
太陽を反射した水面は光を散らし、宝石のように瞬いている。
「ごめん、待たせた?」
「いえ、ここには着いたばかりですよ」
近づいて声をかけるとロストはそう答えたが、本当はどうなのかはわからない。彼は優しい嘘が上手い人だと思うから。
とはいえ深掘りしたところでそれ以上教えてくれるわけではないだろうから、尋ねることはしなかった。
「今日は、どこへ行きますか?」
「前に言ってたベーグルを買おう。そのあとは、イースト・エスス山麓の方で、ヴァイオリンを聞いてほしいな」
「ベーグルに、ヴァイオリンですか。……ふふ、いいですね。楽しみです」
ロストが静かに笑う。
口元をほんの少し緩ませる様子を愛らしいと思ってから、自分がロストと過ごす時間に心地良さを覚えていることをふと自覚する。
肩を並べて歩きながら空いているその右手を繋ぎたいなと密かに思う。ただそれを実現することはなく、黒の手套を纏ったそれに、伸ばそうとした左手は宙を掴むだけだった。
ロストと共に歩いていると、時折、チクチクとした鋭い視線を浴びる。と言ってもそれは個人に向けられたものではなく、恐らくは、『ファデュイの執行官』に注がれる好奇や憎悪、畏怖の視線。そして俺は彼の隣にいることから、その余波を被っているらしい。
しかし、実際にロストと行動をしてみると、彼は『冷酷なファデュイ』という評判とはかけ離れた普通の青年だった。
食事をすれば美味しそうに食べるし、花を見れば目を細める。くだらない話を振ってみれば、彼にも喜怒哀楽の感情は間違いなく存在した。
ベーグルとラテを購入し、イースト・エスス山麓を目指す。こういうのをピクニックというのかもしれない。
街道を通っていると青々と茂った植物が風で揺れた。遠くの海を走る魚群や、それを狙って飛び回る鳥たちが目に入る。
空は快晴。穏やかな風が肌を撫でていく。
「今日もいい天気だね」
「はい。こんな穏やかな日に、シャルルの演奏を聴けるなんて、楽しみです」
「ふふ。期待に沿えるといいけど」
いつもの調子で話しているが、内心、ロストは今日も楽しんでくれるかなと、少しドキドキしてしまう。
演奏会では緊張なんかしないのに、一人に聞かせる演奏には気が張るなんて、我ながらおかしなものだ。
街道から離れ、丘の頂上で、ちょうどよく腰掛けられそうな平たい岩を見つけた。ポケットから取りだしたハンカチを広げて敷く。
「ここに座ろう。こんなところまで来てしまったけど、ロスト、疲れてない?」
「大丈夫ですよ。気にかけてくれて、ありがとうございます」
「この後は、ヴァイオリンを聴いてもらうからね。疲れてちゃ感想が聞けないだろ」
「ご期待に添える感想が述べられるといいのですが……」
「ふふっ! 適当なことは、言わないでよ」
冗談混じりにそう言って、背負っていた楽器ケースを足下に置いた。
ベーグルの入った紙袋を開けて、ペーパーナプキンで包み、中から一つ取り出す。小麦色の柔らかな表面に、艶のあるチョコレートソース。鼻を掠める香ばしさに食欲を刺激される。
「はい、ロスト」
「ありがとうございます。……いただきます」
「うん、……いただきまーす」
ロストが小さく頭を下げる。その育ちの良さを垣間見て少し微笑んでから、俺も一言呟いて、早速ベーグルにかぶりついた。
濃厚なチョコレートの甘みが口いっぱいに広がる。もっちりとした生地は噛むほどに芳醇な小麦の香りを醸し出し、口の中で甘さと風味が絶妙に絡み合う。
「おいしいね」
「はい、……とても」
「ロストはさ、執行官だから、フォンテーヌ以外にも結構、いろんな国に行くの?」
「……そう、ですね。各国に行きますし、国外を長期で任務することも多いです」
「ふうん、いいなあ。俺ももっと有名な演奏家になれば、外国からお呼ばれして、演奏会を口実に、フォンテーヌを出られたりするのかな」
「……シャルルは、フォンテーヌから出たいのですか?」
「うん。いろいろ、行ってみたいんだ。例えばスネージナヤに吹く風の冷たさとか……実際に体験したら、どんな音楽が生まれるんだろう」
「……」
「もちろん、フォンテーヌは好きだよ。だけど俺は、あまり縛られたくない」
「……そうですか」
ロストは小さな声で相槌をくれた。
俺はこのときの、彼の静かな瞳の意味を考えることはなく、やっぱり『おいしいね』なんて繰り返しながら、ベーグルを頬張った。
イースト・エスス山麓の爽やかな風を受けて弦の音が揺蕩う。耳元で風がさらさらと流れる音がする。
ロストがいると音色が通りやすい。心が凪いで、落ち着くからだろうか。
弦の音、鳥の甲高い鳴き声、草木が揺れる微かなざわめき。そして――ロストの穏やかな呼吸の音。
何人かにヴァイオリンを披露してきたが、ロストが聴く時間は、いつも穏やかだ。広いオペラハウスの交点で照明と目を浴びる華やかな時間よりも、ロストという一人の友人を前に奏でる時間の方が幸せ。そう思う。
演奏を終えると、ロストはいつものように拍手をくれた。ゆったりとした動作で、両手を軽く打ち鳴らしている。
「今日も素晴らしかったです」
「ふふ、ありがとう」
「シャルルの演奏は、いつ聞いても、安らぎます」
「……」
ロストの表情は変わらない。淡々と語るような口調で言葉をくれるけれど、その目はどこか柔らかかった。その薄い瞳に自分が映っている。
ロストがこうやって賛辞をくれるのはいつものこと。でも今日はやけに胸が暖かくなる気がした。
「褒め上手だね」照れてしまった己を誤魔化すように笑う。ヴァイオリンを下ろし、ケースに置いた。
「……シャルル」
「うん?」
「俺は、本当に……心から、そう思っています」
「……うん。うん、ありがとう」
真剣な眼差しのロストを前に、視線を彷徨わせる。擽ったさと、妙な動揺。ロストに感じるこれは、なんと呼べばいいのだろう。
柔らかな風が吹いた。ロストの長い銀髪が白く波打ち、月光を零すように靡く。
この髪を掬ってみたい。何の気なしに浮かんだ感覚をそのままに、ロストに手を伸ばして、しかし、静かに下ろす。
不思議そうにするロストに、苦し紛れの笑みだけ返した。