「おにいさん」
吐息をはらんだその声は蕩ける蜂蜜によく似ていた。甘く、どこか執拗に鼓膜へまとわりつき、抗う気力を少しずつ奪っていく。
腕にするりと熱が絡む。その滑らかで張りのある肌は、無垢な子供と妖艶な魔性とを兼ね備えているようだ。
「おれと遊ばない?」
相も変わらず言葉の端々に艶っぽい残響を潜ませた声は、僕の耳へと自然と入り込む。
隣にある彼にそ、と視線を向けた。エリュシオンの小麦畑のような琥珀の瞳。僕と視線が絡めば、その誘ういやらしさはどこへ行ったのかキュ、と警戒する猫のように丸くなる。
「あ――」
「逃がさないよ」
ぱ、と離されそうになった腕を逆にからめとり、もう片方の手は腰に回して動きを封じる。
ひく、と口角を引き攣らせた青年はそれでも僕の隙を探すみたいに忙しなく視線を巡らす。
「うう、……しくじった」
「……」
「……おにいさん、一体何を宿らせてるの?」
僕に向けられる心底嫌なものを見た、とでも言いたげに歪んだジールのその表情も、隠しもしない嘆きも、ストレートな質問も、終わりの見えない回帰の中で何度も受けたものだった。
ふ、と笑みを零してジールの身体を抱き寄せる。
「僕と遊ぼうか」
横髪を耳にかけ直して注ぐように囁けば、彼の喉仏がかすかに上下したのが見えた。
どの繰り返しにおいてもジールは必ず僕に声をかける。『おにいさん』と、熱の篭った吐息混じりに。
彼はそういう種族なのだ。人の精気を糧に生き――情事の時に生じるそれは彼にとって極上の馳走なのだという。そしてそれを喰らう食卓において、ジールは強固な支配権を握り、絶対優位が崩れないと信じている。それが僕だけにはひっくり返されるなどとは夢にも思わず、僕と出逢ったばかりのジールは常に驕りが顔に滲んでいた。
ジールが僕を誘い、『げ』と初めて口にしたのは何回目の回帰だっただろうか。彼はいつもの通り『おにいさん』と熱を孕んだ夜風を吹かせて僕に触れ瞳を合わせるなり、急減な嫌悪を琥珀に宿したのだ。
初めてその反応を受けたときはまさか彼にも回帰の記憶が宿ったのかと驚いたが――それが僕の身体に無数に宿した火種に対しての反応だということを追追知った。
気配の正体が火種であることまでは理解していないようだが、さすが悪魔なだけあって、火種を抱えた僕でさえ気づいていない何かを感じ取れるらしい。とはいえ違和感に気がつくのは傍に寄り瞳を重ねてからだ。あまり危機回避としては役に立っておらず、『気づくのが遅い』と呆れる他ないのだが。
その迂闊さと愚かな自信の持ち方が彼らしくて愛おしかった。
出自については魔界を主張するジールは、その故郷がオンパロスに由来しているのかすら曖昧であるとしていたが、何千万回の回帰において彼の形が存在することがひとつの答えであるように思う。しかし彼が、彼曰くの人間界に深く根付こうとすることを世界は拒み、僕が首輪をつけたことで灰燼と帰すジールの姿もまた何千万回と繰り返した。
ならば一夜限りの関係とし、ジールの信じるとおり記憶喪失を演じてその行く末を見守ることだってあったが、彼の消滅の速度が緩やかになるだけで、結局のところ結果は同じだった。
それどころか、あの甘いテノールで獲物を誘う様を幾度と見かける羽目になり、胸中に昏い感情が積もっていった。
あんなにもあけすけに他者へと向けられたジールの甘美な態度に苛立ちが募った。その熱い眼差しも、夜風の匂いを運ぶ唇も、誰とも知らない人間に蜜のような声が聞かされることも、すべてが煩わしい。他でもない嫉妬だった。
幾度か途中で手にかけたことがある。ジールが誰かに向けていた色の気配を断ち切るために彼を殺めたときに流れた血の色は赤。
何回目かのジールから、魔界は常に王の座や地域の支配権を巡る戦争が続いていて、彼も渦中にいたのだと聞いた。だからだろう。崩れ落ちるその時に琥珀の双眸が殺気を纏わせて揺らいだのが印象的だった。
死への絶望よりも、憎悪を強く宿した鋭利な刃先のようになったものが残光になって浮かび上がっていた。
悪魔といえどやはり命の灯は等しく儚いのだ。そんな彼の生きざまさえ欲しいと思った。どうせ世界に殺されるのなら僕の手で最期を与えたい。今でもその時の衝動は鮮明に覚えている。
彼の食卓へと初めて招かれたときはさまざまな反応を試してみた。
たとえば一貫して魅惑されたふりをして徹頭徹尾彼に主導権を握らせておいたり、真逆に完全に主導権を奪い彼を問答無用でベッドに沈めて陵辱したり。あるいは油断させておいて途中でひっくり返したこともある。
僕から主導権を奪われたジールは常に抵抗してきたが、こちらのペースへと引きずり込んでしまえば存外従順になるのはいつも同じだった。
ジールには自分こそが食卓の支配者だと信じて疑わない傲慢な面があったが、一度それを否定された途端に、悔しさや恥ずかしさ、諦めが綯交ぜになったような表情をして、僕の行いを受け入れる。折れる時はとことん弱いらしい。
そして案外、対面においては純粋で慈悲に翻弄されながら素直に愛情を育む健気さがあった。そんなところに憐憫にも似た庇護欲が湧いた。
「おにいさんは、おれが何者で、どういう最期を迎えるのか、全部知ってるみたいだ」
不意に、そんな掠れ声が腕の中から聞こえた。腕に収まる青年――ジールは僕に背を預け、脱力したまま夜を知らないオクヘイマの空を眺めていた。
その琥珀が今にも眠たそうにとろん、としているのはきっと微睡を帯びているせいではない。先程までの行為の余韻でぼんやりとしているのだろう。口調も舌足らずだった。
「……まあ、ね。少なくとも君が魔界出身のインキュバスであることは、初めからわかっているよ」
「なんで?」
「教えない」
そう答えると、彼は頬を膨らまして眉根を寄せた。本人的には不満を前面に出したつもりなのだろうが、その顔は可愛らしくしか見えない。
文句の言いたそうなジールを宥めるように、柔らかな亜麻色の髪を撫でれば、不本意と訴えてくる彼の視線に射抜かれた。
「子ども扱いされてるみたい」
「子供とはこういうことをしないけど?」
指先を肌に這わせその熱を引き出すように撫で上げ、臀部を鷲掴みにする。それだけでほんの少し前まで快楽を得ていたジールの身体はひくりと跳ねて反応した。
同時に非難する視線が僕に刺さる。
「……きみに声をかけるべきじゃなかったかも」
「もう手遅れだよ」
ジールのそれを聞くのももう何万回となる。
腰を強く抱き寄せれば密着する身体。未だに燻る熱を逃がしきれずにいる彼はわかりやすく唇を噛んだ。
紅潮する目尻へ唇を落とす。ジールの肩が小さく震えた。
「いじわる」
「……そうだよ。僕はジールにだけすごく意地悪なんだ」
ジールにとって初対面であっても、僕が彼を知っている以上、彼がどんな態度で接してこようとすべて徒労だ。僕が勝てる戦でしかない。一方的な蹂躙は単なる虐待になり得てしまうが――彼の場合は被虐嗜好を有している節があるので問題はないだろう。
「……おにいさんって、夢とかあるの」
「え? ……」
なんの脈絡もなく、ぽつりとこぼされた言葉は何千万も繰り返したやり取りの中で初めての言葉だった。
思考が停止してしまってつい間の抜けた声を出してしまったが、ジールは気にも留めない様子で視線を遠くへ向けていた。
「……急にどうして?」
「なんとなく」
問いかけにそう返す声はどこか憂いを帯びていた。
何せ初めての流れだ。どう転べばこうなるかわからない。返答せずに黙っていれば、ジールは小さくため息を着いて僕の片手に指を絡めた。
「……おにいさんが抱えてるその存在がなんなのか、おれには検討もつかないけど。いつかきみの身体さえ燃やし尽くしてしまいそうなそれを抱えて、どこを目指しているのか、気になるんだ」
「……僕が燃やし尽くされると思っているのかい?」
「……きっと全身が焼かれて心臓が焦げ落ちてしまっても、おにいさんは歩き続けるんだろうね」
揶揄いの一つもない静かな声音だった。ジールは僕の手を胸元まで運び大切そうに握る。握る手は優しく温かいのに、やけに儚げで、今にも消えてしまいそうだった。
ジールはこちらを見ない。けれど彼の横顔には慈愛に満ちた微笑みがあり、彼はそのまま指先にそっと口付けた。
まるで、祈りを込めるかの如く。
「おれの夢を聞いてくれる?」
「……君の?」
「うん。おにいさんは、おれのことを全部、知っていそうだから。……夢を話したことはないのかな?」
「いや、……」
「おれ、いつか消えちゃうんだ。この世界は、おれの生きる場所じゃないから。……これは話した?」
「……話してくれたこともあるし、実際に君が消えるのも、見たことがある」
「そっか。おれの夢はね、きみのそばにいることだよ。ファイノン」
一瞬呼吸の仕方を忘れた。何千万と繰り返した中で、初めて告げられた言葉だった。
「おれもこの世界に愛されてみたい。……きちんと寿命を迎えて――おれはファイノンよりもきっと長生きだから、きみの遺骸を抱えながら眠りたいな」
ジールはゆったりとした動作で僕の震える指先を慰める。その穏やかな触れ方に縋りたくなって僕から指を絡めれば、彼の方も握り返してきた。
「……なんてね」
「え」
「ふふ、おにいさんがおれのことなんでも知ってますって態度で余裕綽々としてるから生意気なんだもん。仕返し!」
ジールは屈託ない笑みを僕に向け、悪戯が成功したと言わんばかりに得意げだった。つい先程までの空気を突き飛ばすみたいな弾けた声。ついでにふふん、と鼻を鳴らす音が聞こえた気がして、唖然とした。
けれどすぐさま腹の底から湧き上がる感情があった。
「――こら!!」
「あ、怒った」
ジールを押し倒して彼の両手首を拘束すれば、愉快そうに三日月を象る琥珀。こちらは冗談と片付けることができないほど揺さぶられてしまったというのに。当のジールは楽しそうだ。
この上なく憎たらしいが、不思議なことにそれ以上の充足感を得ていて、僕の方が困ってしまった。
「ファイノンの目は、綺麗だね。それにかっこいいし、体もむきむきだし……意地悪なくせに人懐こい犬みたいに寂しがり屋。ふふ、おれ、ファイノンのこと大好きだよ。インキュバスを一目惚れさせるなんて名誉なことだね」
「……君が永遠に僕と共にあるために、手段を探しておくよ」
「ならついでに、墓碑の下に眠れないことも覚悟しておいてね」
いつになく饒舌で陽気なジールにつられて少し苦笑しつつも彼の手首を解放すると、背中に手が回り、ぎゅうと抱きしめられた。
たとえ今回帰においてまた彼の心臓を開き、流れ出す赤を指先に絡めることになろうとも、僕は彼との約束を果たそう。心から愛おしいと思えるこの唯一を未来永劫見失わないために。