その日もいつも通りの時間に目が覚めた。布団の中でグッと伸びをして「うー……」と長く唸り、はあっと一気に脱力する。
 今日もピュエロスで番台業務をしなければ。起きて支度をしよう。
 ころ、と横に転がって布団から出した足を床につける。そうして立ち上がるつもりだったのだ。どてん! と。間抜けな音を立てて床に落ちるまでは。
「あうっ! ……??」
 いた! と叫んだつもりだった。が、己の口から出たのは少し高い悲鳴――というより、鳴き声だ。一体どういうことだ。寝ぼけてる? 身体を起こしたところでまた違和感。視界はいつも以上に低くて床を這いつくばっているよう。しかもなんか、四つん這いが安定する。
「アウゥ……?」
 また自分の口から間抜けな鳴き声が出た。一体何事か、と短い手足を(短い手足……?)動かし、チャッチャッチャッと音を立てて、姿見の前に急ぐ。
 そこに映った姿に、おれは絶句した。
 小さすぎず大きすぎない可愛い耳。二頭身ほどしかない体躯。大きな瞳に、ふわふわの首周りの毛。魚の尾びれのような尻尾に、自身としては馴染み深い――けれどいつもよりは小さい黒の羽。
(き、キメラだ!!)
 そう叫んだのに、口から出たのはやっぱり「アウーー!?」なんていう間抜けな鳴き声だった。


 寝て起きたらキメラになっていた。そんな話を誰が信じてくれるだろう。しかし実際おれはオクヘイマのマスコット的存在(と、おれが勝手に思っている)キメラの姿に成り果てていて、家具はいつも以上にバカでかく、窓から見える景色は遥か遠くにある。
 キメラは可愛い。可愛いけれど自分がそうなりたかったわけではない。結構焦るが姿見に映るキメラのおれは、とてもキュートだ。なんならこのままピュエロスに行けないだろうか。大好評間違いなし! などと呑気なことも考えつつ、時間だけが過ぎていく。
 まずい。こう見えておれは、無断欠勤はしたことがないのだ。なんとか職場に伝えなければと石板のもとに近寄るが、チャーミングなキメラフェイス、そして短く丸いあんよではロック解除に至らない。終わった……
 こうなったら直接職場にいって『こんなことになってしまいました』と訴える他ない。チャッチャッと床に爪が当たる音を立てながら玄関に向かった――のだが、ドアノブにすら届かない。いやまて、背中の羽で飛べるのでは?
「アウ……ウゥ、……!」
 筋力がない人がする腹筋というものをご存知だろうか。ぱたぱたと小さな羽をはためかせ、自分のチャーミングボディを浮かせようとするキメラのおれは、まさにそれだ。
 キメラのおれは思っているよりも重いのかはたまた飛び方のコツがわかっていないせいなのか、高く飛ぼうとするとなかなかにしんどい。ぷるぷるとしながら、それでもまるい前足で錠を下ろし、ドアノブを下げ懸命に体を押し付けて扉を開ける。もうすでにおれは満身創痍である。
「ゥ、」
 家を出てぼて、と地面に落ちた。寝起きと同じ情けなさだ。ひとまずは外に出られたのでクリア。ピュエロスに向かわなければ!
 歩幅が、少ないというか小さすぎて本当にこれで歩いて行けるのか、という不安が募る。えっちらおっちら歩くキメラを見たオクヘイマ民たちが、ニコニコしているのがたまに見えた。仕事に向かっていなければ気分が上がったかもしれないけど今はそれどころじゃないんだ。このままでは遅刻してしまう。
 急げ! と気持ち足を早めて走り出す。そして急に視界に入ったなにかにどむっ! と盛大にぶつかった。「アウ!」と悲鳴をあげて後ろにすっ転んだ。どうやら誰かの足にぶつかったらしい。
「おっと……。…………。大丈夫かい?」
「アウゥ……」
 勢いよく転んだせいでクルクルと目が回っている。もうピュエロスには辿り着けない。おれはここで終了だ……アーメン。心の中で祈りを捧げて眩しいミハニを浴びていると、なにかにひょいと持ち上げられる。
 おそらくおれは、伸びきった猫のようにぶらーん……と抱えられていた。
「おーい」
「ウウ……アウ〜……、……?」
 ゆさゆさ、と軽く揺らされて未だ少しくらくらする頭痛を我慢しながらも瞼を持ち上げる。瞬きを数回。そうして視界に飛び込んできたのは、ぴょこんと頭に双葉のアホ毛を立てた顔の良い男。
「アウアウー!?」
「お。元気そうでよかったよ」
 ファイノン! と叫んだおれの声は例外なく鳴き声と化した。
 ファイノンはそのまま「はい」と言いながら丁寧にも両手でおれを地面に置く。しゃがんでくれているとはいえど、おれから見たファイノンの顔は結構上にある。
「アウ、アウウー!」
 おれだよジール! 助けてファイノン! 大変なことになったんだ!
 必死に訴える。頼れる者に会えた、と思った矢先のことだった。ファイノンはぽむ、とおれの頭を撫でたかと思えば「落ち着いて歩くんだよ」と笑うと、すたすたと歩き出してしまう。
(え! え!? 全然気づいてもらえてない!)
 こんなに可愛いのに! 人の形をしていたおれとそっくりな、チャーミングさなのに!
 必死になってファイノンを追いかける。先ほどの疲労が蓄積していたおれは、体力があまりなかった。
 ただでさえこの姿になったことに混乱しているというのに、床に落ちるわ地面に落ちるわ、さらにはピュエロスへ向かう途中でファイノンとぶつかり転んでしまってボロボロだ。
 そんな中、ぶつかった相手がファイノンだったという不幸中の幸い、一縷の望みに縋るように手を伸ばしたというのに、神は酷すぎる。
 その大きな背中を夢中になって追いかけた。
「アウアウ!! アウーー!!」
 懸命にファイノンを呼ぶが、ファイノンはこちらを振り返ることなく、その長い足を使ってどんどんと進んでいくではないか。
 ふざけるなよ、こっちはきみの百分の一くらいしかない短いあんよの四足歩行で一生懸命なんだぞ。それなのにファイノンときたら、涼しい顔で去っていくではないか!
(うう……! ひどい〜……!)
 ついには息があがってきた。
 ぽてぽてと動かしていた足が進まなくなって、ぺしょ、と地面に腹這いになる。もうここまでなのだろうか……。はあー……はあー……と深く呼吸をする。
(朝からもうへとへとだ……)
 空から降り注ぐ陽光が今の自分には憎らしく感じた。
 目の端に滲む涙を感じてぎゅっと目を閉じる。すると瞼を覆う影ができた。次に感じるふわりとした浮遊感。
「こんなところにいたのか」
「……ウ?」
 しかしおれを抱き上げたのはファイノンではない。中年の男。オクヘイマ市民であることは確かだけれど、おれの知っている職場の人でもなかった。
「なかなか出てこないと思ったら迷子だったのか? みんな待ってるんだからな。ほら、行くぞ」
「???」
 男は何やらトンチンカンなことを言っておれを抱えたまま歩き出す。困った。おれはファイノンの後を追わないと! というかピュエロスに行かないと! このおじさん誰なんだ。
 腕の中で藻掻くけど使い果たした体力では全然抜け出せない。「困ったやつだな。暴れないでくれ」と苦笑される。誘拐だ……! キメラの誘拐! おれに意思はないのか。うーうー唸るけど伝わるわけもなく男はてくてくと進む。
 途方にくれて遠くを見やるといつの間にか足を止めてこちらを振り返っているファイノンと目があった。彼はなんだか妙な顔をしていて――なんというかこう、ほんの少し心配そうにしつつもニヤけているというか、そういう不審な挙動でただじっとおれをみて、助ける様子は無さそうだった。
 うう、おれに気がつかないどころか攫われるいたいけなキメラを助けないなんて、ファイノンの薄情者……。


 おれは働いていた。横になっている人間の背中に乗り、まるいあんよでふみふみと筋肉を解している。
 図らずもここはピュエロスだった。初めはあの中年の男に生命の花園まで連れていかれたのだが、そのあと他のキメラと合流させられて、その他のキメラたちとなぞに、ピュエロスで、人間のマッサージをしている。
「ううーん……もうちょっと下の方……」
「アウウ……」
「そうそうっ! あーっ、そこそこぉ〜……」
 言われた通りに背中の上で移動するとおじさんは嬉しそうに声をあげる。なんか、複雑な気持ちだ。おれはむきむきのむちむちな逞しい男が気持ちよさそうに喘ぐのが大好きだけど、これは違う。全然この人はむきむきのむちむちでもないし、リラックスしてる喘ぎだし……。
 一体どうしてこんなことに……なんかずっとふみふみ、ふみふみ……してるんですけど……。
 それにしても、このおじさんの背中はひどく凝り固まっている。脂肪でぶにぶにしてるタイプじゃなくて明らかに固まっちゃってますみたいな感触だった。
「アウ……」
「は〜〜……ありがとね〜……楽になったよ」
 なんとなしに労りの念を込めて背中を一発強く押してから降りてあげた。おじさんはどこかほっこりした表情をしながら「ありがとうねぇ……」と言い残し、大浴場に入っていく。
「アウウ……」
 おれは項垂れて溜息を吐いた。
 キメラがオクヘイマ市民を手伝うために働いていることは知っていたけど、まさか自分がその職場体験をするはめになるとは。こうなってしまった以上他のキメラ達に置いていかれまいと懸命についていってるけれど、どう思われているかはなぞである。キメラになったからキメラの言葉がわかるのかと思ったのにそういうわけでもなく、彼らの鳴き声はやっぱりおれにとっては何言ってるかわからない「アウアウ」なのだった。
「頑張ってるね。僕もお願いしていいかい?」
 人間ともキメラとも言葉を交わせないそんな哀れな存在になってしまったおれに言葉をかけたのはファイノンだった。
 黄金裔であるといえどここは公衆浴場。だれがきたって不思議ではなく、ファイノンの存在は浮いている様子はない。ただ――おれとしてはなんでいるんだ! とびっくりしてしまったのだが。
「アウ……」
「どうしたんだい? 乗ってくれないのか?」
 ファイノンがきょとんとおれを見つめている。
 おれは一応仮にもファイノンの恋人なのである。こんなことになったら真っ先に気がついて欲しいのに。いくら姿かたちが変わろうとも、ファイノンはおれのことが大大大大好きなはずなのだ。本当にどうしておれだってわからないんだろう。
 ファイノンなんか時々すごくニヤけながらこっちをみてる。このひと、そんなにキメラが好きだったのか。知らなかったな……。
 仕方がないので渋々、横になっているファイノンの背中に乗った。
「アウ……アウ〜……」
「はは、こそばゆいよ……」
 他の客と違って当然鍛え抜かれているファイノンの背中は筋肉の凹凸があって、踏み心地がいい。あんよを柔らかく沈ませて、圧をかける。
 本当はぐりぐりとめちゃくちゃ押してやって筋繊維に刺激を与えたいところだけれど、おれの体重だとあまり効果はないみたいだった。
「もっと力を入れてくれてもいいよ」
「アウ」
 頑張って体重をかければ、筋肉が押し返してくる。その弾力に胸がときめいてしまう。……やっぱり、こうなると興奮するな……。おれはむきむきのむちむちが大好き。普段ファイノンと戯れ合いをするように何度も揉む。……かなり、熱くなってきた。ファイノンでなく、おれの方が。羽の付け根辺りがむず痒くて、鼻がツーンとしてきた。
「ゥ……」
 と、不意にほかの筋肉質な男の姿が見えた。ファイノンの背に載って小さな手足を動かしたまま、視線はそちらに釘付けになる。鍛え上げられた広背筋! 丸太みたいな太もも! なんておいしそうなんだろう!
 自分の尻尾がふりふりと左右に揺れる。ぽーっと見惚れているうちに、急に足元がうねり上がって、すってんころりんとおれは無情にも落っこちていく。
「ウ!」
「余所見してるだろ? 感心しないな」
 床に落ちるかと思いきや、大きな手にがしっと握られた。びーん! と尻尾が伸びる。
 おれが背中に乗っていたのに起き上がったのも、転落しかけたおれの尻尾を掴んで釣り上げた魚みたいに掲げているのもファイノンである。
 この体勢だとまるでおれがファイノンに捕まった獲物みたいに見えてしまう。不遜だ! 手に力を籠めるな。尻尾が伸びちゃう。
「アウー!!」
「はは。小さい羽がぱたぱたしてるね。それって飛べたりするのかい?」
 違う! これは怒ってる時の動きであって、威嚇してるんだ。ちゃんと見てほしい。
 一生懸命鳴いて抗議していたら、何を思ったかファイノンはおれの胴体を片手でわしっと掴んで持ち直し、――尻尾で宙ぶらりんにされるよりマシだけどなんだこの、部屋のクッションみたいな扱い――スタスタと浴槽の前に歩いていた。
「アウー!?」
「バニオに付き合ってくれるだろ?」
「ウゥー!」
 おれも入るの!? 仕事中なのに!
 プルプルと首を振る。おれは仕事をこなさねばならない。湯に浸かるのはその後だ。だけどファイノンは嫌がるおれを無視、というか何も伝っていないのか「ははは、やっぱり君は元気だね」と呑気に笑いながら浴槽の中にずかずかと入り込んでいった。
 ちゃぷ、と水音が聞こえて肩まで浸かったファイノンの膝の上で抱かれる。
「はあ〜……あったかいね」
「ウゥ……」
 呑気な……。完全にくつろいでる。肩までしっかり浸かって、キメラをお供にして、のんびりしている。
 いまのおれからしてみるとこの深さのバルネアは足がつかない。つまり、ファイノンがおれを手放してしまうとアウアウもがいて犬かきでもしないと沈んで溺れてしまうのだ。ファイノンがおれを離すわけない、と安心できないのが今の状況だったので、おれは羽と尻尾をしゅんと下げ、大人しく抱かれ続けるしかできなかった。
 しばらく浸かっていると、自然と緊張していた体が緩まってくる。なんだかとても眠たくなってきて、欠伸が漏れた。あふ……と可愛らしい鳴き声を出してしまう。
 ファイノンがそんなおれを見て微笑んで頭を撫でてきた。「かわいいね」ってその甘ったるい声までセット。正直、むかつく。だけどおれの意識は暖かく心地よいバルネアに浸かったことでじわじわと溶けていってしまっている。
「ウ〜……」
「眠そうだね? バニオはこの辺にして休もうか」
 言うが早いか、ファイノンはゆっくりと立ち上がってピュエロスから出た。一歩ずつが波紋となる。
 おれはまだぼんやりとした思考のまま、されるがままに運ばれていく。タオルで包まれて拭かれてしまえば、もうほとんど抵抗する気力もない。
 濡れていた羽毛は徐々に乾き始め、あっという間にふわふわに戻った。もちろん、その過程もすべてファイノンが甲斐甲斐しく世話してくれる。どこまでも親切で丁寧。うとうとする身体を抱っこしてくれるこの逞しい腕が心地よい。
 それにしても……。おれはこのまるい頭に血を集め、一生懸命思考を巡らせていた。どうしたら元の姿に戻れるのか、と。
 このままキメラとして一生を終えることになるのは非常に困る。だっておれにはむちむちでむきむきの男を求める人生設計があるから! この姿じゃあファイノンに気づいてもらうことはおろか、さらにはファイノンと触れ合えないどころか、ファイノン以外のむきむきむちむちを得ることもできない。死活問題だ。この身体で人間の精気が不要だとしても、アイデンティティの喪失だ。
 なんとかしようと策を巡らせようとしてみるけれど、ぼんやりと半分眠りに落ちそうな意識はすぐにでも身体を横にしたいと要求を続ける。
「ウ……?」
 そんな最中、温もりが離れる気配があった。
 そ、となにか硬いものの上に置かれ、目を開ける。目の前には、おれと同じ目の高さのファイノンが、その綺麗な蒼穹の瞳を細めてこちらを見ているではないか。
「よしよし。それじゃあまたね」
「……? …………??」
 ファイノンはおれを一撫でして背中を向ける。
 ファイノンがおれと同じ目の高さだったのではなく、おれが、ファイノンと同じ目線の位置に置かれていたのだと今気がついた。おれがいるのは積み上げられた木箱の上。よく見ればここは、雲石市場のあたりだった。ここに置いていくって、え、まさかおれを置いて帰ってしまうのか。
(ファイノン!?)
 一生懸命背中に向かって叫ぶけど出てくるのは「アウアウー」という虚しい鳴き声だ。こんな時に限ってあのイケメンは振り向いてくれない。
(え!? ええぇ〜〜〜〜〜!?)
 混乱のままキョロキョロと辺りを見渡すが、おれがいる場所はさすがファイノンの背丈分あるだけあって、結構高い位置だ。都合よく段差になって積み上がっているような木箱は他にはない。
 と、飛び降りることって、できるのかな。恐る恐る眼下を見る。ものすごい高さだった。
「……!」
 羽を使えばなんとかなる? 飛び上がることはしたけど、高いところから滑空するなんてやってない。万が一を考えると恐怖に震えてしまい、丸い背中がさらにまるくなる。降りられない。だけどずっとここに留まっているわけにはいかないのだ。
 こうもモタモタしているとまたファイノンがいなくなってしまう。おっかなびっくり慎重に立ち上がった。
「アウ、アウ、アウゥ……」
 木箱の上で仁王立ちするキメラの図である。
 相変わらず短い前足を水平に広げてバランスを取り、そろりそろりと端まで歩を進めると、ひゅう、と風が吹いた。怖すぎて目を閉じる。
「ア〜ウ〜……」
 飛び降りる。おれはいまから、この高さを、ジャンプするのだ。きっとできるはずだ。おれならやれる。
 ――この身体なら、しなやかな猫のように四足で前傾になり踏み出すのが最適であったのだろうが、そんなことを考える余裕もなく、おれはすっかり人間(人間でもなく悪魔なのだけれど)の気持ちだった。
 何度か、木箱の端に立ち上がっては引き返す行為を繰り返したのちにようやく決心をつけた。ぎゅう、と木箱の縁で踏ん張る。そして翼を大きく広げて、ぴょん、と。
「ウーーーーーー!」
 思い切り跳躍した。空中を泳ぐ。
 だけどそれは一瞬で終わりを迎える。身体は弧を描き、落下していく。羽ばたけば上昇できるのではないかと思い、羽と短い腕をパタパタとさせたが案の定ほとんど役に立たなかった。
「アウアーーーー!!」
 死んだ……。その思いで絶叫して来るべき衝撃に備える。
 しかし来たのは重力に引っ張られて石畳にぶつかる強烈な痛みではなく、ぽふっとした、衝撃を和らげるような抱擁。おそるおそる、そーっと目を開く。
「アウ……」
 なんと、ファイノンがしっかりと抱き留めてくれていた。危なげなく、ぎゅうっと抱えられていて傷ひとつない。
 戻ってきてくれたのだ。ホッと安堵する。よかった〜〜!! よかったよかった……! 目が勝手にうるうるしてきて、感情に合わせて耳の先がぴるぴると震えた。尻尾はちぎれそうなくらい激しく振れている。
「はあ……怪我してないかい? まさか飛び降りるなんて思わなくて、びっくりしたよ」
 ファイノンがおれの羽や全身のあちこちを触って確認してくる。なでなでされているようで嬉しい。
 そもそもなんであんな高いところに放置されたのかはなぞだが、今度は置いていかれないようにと必死でファイノンにしがみつく。短い手足だから力不足だが、爪を出して彼の装飾の多い服にひっかけてなんとか逃亡を阻止した。
「どうしたんだい? そんなにくっついちゃって」
「ウー!」
「ははは。ジール、君はそんなに僕のことが好きなのかい?」
 ファイノンが嬉しそうに微笑みかけてきた。
 そりゃ大好きに決まっている。本人には絶対、そう簡単にはきみにベタ惚れだとか、大好きで大好きで堪らないだとか教えてやらないけど、おれはファイノンのその笑顔も、綺麗な空色の瞳も、光を透かす白髪も、逞しい筋肉も、鼓膜を揺らす低い声も、気遣えるんだか気が利かないんだかよくわからない無邪気な性格も、全部、全部が愛おしい。この人の魂が大好きだ。
 たとえその身が太陽に焦げてしまっても、形が変わってしまっても、心が磨り減ってしまっても、ファイノンだとわかる自信もあるし、どうかどこにも行かないでとこの人を抱きしめたいと思う。
 おれは貪欲で傲慢なインキュバスだから。ファイノンの全てを永遠に味わいたいのだ。
 だからファイノンにも、おれと同じようにおれを思ってとまでは押し付けないけれど、おれがキメラになったぐらい、ちゃんとおれだと判別してほしくて――うん? あれ。ファイノン、さっきおれの名前を呼んだ、ような。
 聞き間違えじゃなければ、『ジール、君はそんなに僕のことが好きなのかい?』と、そう言っていたのでは。
「アウウ……?」
「はは……実は、最初からわかってたんだ。君がジールだって。最初にこのあたりで、君にぶつかった時からね」
「アウ!?」
 えっ!? と言ったつもりだ。
 最初から……? ファイノンはその逞しい脚でおれを蹴飛ばした(誇張)ときからこの愛くるしいキメラがおれだとわかっていたと? あんな素っ気なかったじゃん!
「アウー!? アウアウー!!」
「はは、そんなに怒らないでくれよ」
 なんてやつだ! 許せない!
 ぷりぷり怒って彼の胸倉を叩くようにパンチするけどファイノンは涼しい顔でのけ反りもしない。まったくもって悔しい。こんな身体じゃあなかったら、よろめかせるくらいできるのに。たぶん。
「アウウウー!」
「ちょっとだけ意地悪をしようかなって思っちゃったんだ。君、すぐしょんぼりするし、泣きそうになるだろ? こういうのをキュートアグレッションって言うんだって。知ってたかい? 可愛い顔しちゃってさ……ちょっとくらいからかってもいいかなって」
「アウアウ!!」
「ははは。悪魔は君だろ」
 なんか言葉が伝わっていてビビる。なんだこいつ! ほんとは最初から、おれだとわかっていて、おれの「アウアウー」なんて間抜けな鳴き声も、ファイノンにはきちんと人語として伝わっていて、それでおれを弄んで楽しんでいたというのか。……ひどすぎる……! あんまりだ。
 あんなに必死で追いかけたのに、まったく気づいていない素振りを見せたくせに、ほんとうはおれだと認識した上での行動だったなんて! なにより酷いのは、それで楽しんでたっていうこと。おれはすごく心細かったのに!
「アウ……アウウゥ!」
「うーん、ジールがなんて言ってるのか、正確にわかってるわけじゃないんだ。なんとなく、こうかなあって思うだけで」
「ウー……」
「拗ねてしまったかい? かわいいなあ……まあほら、ちゃんと一緒に君が元に戻れる方法を探すから、許してくれないかな」
 にこにこにこにこ……。ファイノンがずっと楽しそうである。
 くそう。いつもこうだ。おれはファイノンに弄ばれている。なにがキュートアグレッションだ。確かにおれはすごく可愛いし、ファイノンがそれに魅了されるのは当然かもしれないけれど、いじめるのは絶対に良くない。
 ファイノンをどうにか懲らしめることができないかと考えてみるが、いまのおれでは到底敵わないだろうなという結論に至って、ますます意気消沈する。
「まあまあ。元に戻ったら君が大好きな『むきむきのむちむち』で癒してあげるからさ」
「アウ」
「うわ。現金だね?」
 むきむきのむちむち、と言葉が聞こえて反射的に尻尾がピンと垂直に伸び、耳は三角形を描いた。どんな姿形であろうとも筋肉に興奮する。それは紛れもない真実であり、おれの本能だ。 
 ファイノンは面白おかしそうに笑いながら、おれをぷらーんと伸びた猫みたいに垂らすと、若干呆れたように肩をすくめておれを覗き込む。
 彼の青い瞳の奥には慈愛と苛虐の色が同居していて、どこか愉快げに煌めいているのだった。

 ところでおれの勤務先のピュエロスには(健気な出勤中におれを蹴飛ばした)ファイノンから欠勤の連絡を入れてくれていたらしい。ついでに見知らぬ男におれが連れ去られそうになった時は、その男が生命の花園で働くキメラを管理する人間だと知っていて、おれがオクヘイマ市民の手助けをするはたらくキメラとしてこき使われる様子を見るためにあえてスルーしたとか。
 キメラ化した翌日には目が覚めればいつもの姿に戻っていたおれは、ファイノンから「ははは」と笑われながらそんな話を暴露された。
 欠勤連絡はともかくあまりにおれに対して愉快犯すぎるファイノンに腹が立ち、「きみなあ!」と渾身のパンチをその鍛え上げられた胸筋にぶつけてやったのだが、ファイノンはふらりともよろめかず、「半泣きになりながら僕を追いかけてくるジールは可愛かったなあ」と尚も嬉しそうに笑うのだった。あくまだ!