「大将、おはよう」
「おは、よ……」
柔らかな信濃の声ではっと目を覚ます。朝だ、夢も見ないほどに深く眠っていた。
「どうかな?入ってもいい?」
「うん、寝起きだけど、…いいよ」
いくら監察の仕事がないからと言って、まさかこれ程にリズムが狂うとは思ってもいなかった。基本的に懐刀交代の時間までには起床し布団を畳み、身嗜みも整えている終わっているはずであったのに。
障子を開け、捌宮が座る布団へと信濃が駆け寄る、剥き出しの太股が眩しい。
「目、真っ赤だよ」
「うーん、信濃の髪とお揃いだね」
「あんまり嬉しくないなぁ」
その鮮やかな髪を優しく撫でれば、信濃はむう、と唇を尖らせた。大きな瞳が捌宮を見上げ、遠慮も無く胸に飛び込んで来る。突然の抱擁に少しばかりバランスを崩したものの、しっかりと抱き留めた。こうして信濃が捌宮の懐に入り込んでくることは少なくない。短刀年長組と称されながらも甘え上手であざとい彼は、どこか危うく今にも消えてしまいそうな主の心音に耳を傾ける。とくん、とくん。
「何があったかなんて分かんないけど、俺たちがいつでも一緒にいるよ、大将と一番近いところに。1人じゃないってこと、忘れないでね」
「………うん、ありがとう」
何も聞かず、けれど決して無関心という訳ではない。捌宮は誰にも踏み込まれたくないと、そう思っていると知っているからの距離感。長く人間と寄り添ってきた刀はその感情の起伏に敏感で、そんな彼らに助けられている。
ーー情けない、近頃は彼等に心配ばかり掛けている。こんなことではいけない、分かっている、分かっているけれどざわざわと胸が騒いで心が落ち着かない。少しずつ自分が嫌いになっていく。友人1人救えなかった自分、残された彼のその心情を読み取れず引っ掻き回した自分、刀剣男士達に要らぬ心配を掛け、感情の制御ができない自分。素直に言ってしまえば良い。そうすれば彼等は自分を慰め励まし、また前を向かせてくれるだろう。それでも何も言えないのは、やはりまだ認められていないからだ。彼等が死んだ事を。爆発死、自決、交通事故。降谷から聞いたのはどれも耳を塞ぎたくなるような言葉ばかりだった。爆弾に呑まれてしまったならまともに身体も残らなかっただろうし、犯罪組織相手に遺体を返して貰えるとも思えない。
あの男審神者は自分だ。捌宮として重い役に就いていなければ自分だってああなっていた。友が死に、自分は時を遡る術を持っている。
そうして、きっと国永が殺してくれるのだろう。
暗く沈む心と同調したように厚い雲が太陽を隠していく。いまにも降り出しそうだ。
今日は畑の水やりをやらなくてもいいな、と。ただ、そんなくだらない事をぼんやり考えていた。
審神者がどれだけ気を落としていても日々の任務がなくなることは無い。他の審神者がそれを嫌がろうと、捌宮にとっては幸いだった。
仕事に打ち込めば、余計なことを考えずに済むからだ。部隊を組み出陣、遠征に送り出し刀装を作り貯め鍛刀する。資材や札の残量の確認、本部へ提出する書類の作成。
「主、お茶のご用意を致します。少し休んでは如何でしょう?」
「んー、今は良いかなぁ。ありがとね、平野」
集中してるから、と断ってしまえばすぐに頭へと軽い衝撃。
「懐刀の気遣いは素直に貰っておけ」
「……国永」
「平野、頼む」
「はい。お待ち下さい」
国永の言葉に平野が立ち上がり、勤務室から静かに出ていく。恐ろしい程の集中力はすっかり切れてしまい、捌宮は机に頬杖をついた。
「まだやれたんだけどなぁ」
「今にも倒れそうな顔して言う言葉じゃないぜ。今日だってまともに食べちゃいないだろ」
「でも本当のことだよ。ご飯は…ん、まぁ食欲がなくて」
歯切れ悪く、だんだんと萎んでいく声に自分でも情けなく思う。まるで親に叱られる子供だ。顔色の悪さを隠す濃い化粧も、無理して張り付けた笑顔も国永の前ではその意味を成さない。
はぁ。わざとらしく溜息を吐かれれば、捌宮は視線をあちらこちらにさ迷わせ、終いには俯き耳を塞いだ。
自分の不甲斐なさは充分に自覚している、どうかこれ以上は勘弁して欲しい。
「……29にもなって童のような真似はよせ」
呆れたようなその言葉は思いの外、優しい声だった。馬鹿な妹を仕方ないと笑うような、そんな声。説教の暴雨を覚悟していた捌宮はつい顔を上げ、国永へと振り返る。
「審神者就任からの付き合いだからな、君がどれだけ友を大事に思っていたかは分かっているつもりさ」
「……ん」
「だ、が、食事はしっかり摂れ。腹が減っては戦が出来んと言うだろう、光坊達も君のために栄養を考えて作っているんだぞ」
「んー、……わ、わかった」
じとりと諌めるような視線。濁してやり過ごすという作戦はあっさりと砕け散る。もとより、この初期刀に勝てる訳も無かったけれど。国永の言うことはいつだって正しくて、捌宮の為になり導いてくれるのだ。
「お茶のご用意が出来ました。今日のお八つはかすていらです」
「平野、いつもありがとうね。いただきます…」
カステラの優しい甘さと、二人の温かな想いが体の隅まで染み込んでいった。
「ん?なんだろ、本部からの連絡が入ってる。……え、」
「これは…」
厨番が気を使ってくれたようで、捌宮の膳はいつもより少なめに用意されていた。昼間国永に注意されたこともあり、時間を掛けながらも全て平らげれば広間の男士がほっと目元を緩ませる。
しかし外はまだ土砂降りの大雨で、捌宮が問題を乗り越えられていないのは一目瞭然だ。本丸は審神者の影響を多分に受ける。どれだけ頑張って隠そうとも、結局はその心の奥底までお見通しで雨が降ったり嵐が来たり。
夏の雨は嫌いだ、じっとりと嫌に暑い。
湯浴みで汗を流し、乾いた喉を潤すために厨へ向かう捌宮を呼び止めたのは今剣だった。
「あっ!あるじさまー、さんじょうのものでのんでいるのですが、いっしょにどうですか?」
「おお、主。よく来たな、はっはっは、近う寄れ」
「ぬしさま、三日月ではなくどうかこの小狐の隣へ」
酒も入り気分良く笑う三日月と小狐丸。捌宮は誘われるままに彼らの間へと座り、空いている御猪口をひとつ手に取った。小狐丸が注ぎ、ふわりと強い酒の香りが鼻を擽る。
「まさか主を連れてくるとはね。お手柄じゃないか、今剣」
「えっへん!もっとほめてもいいんですよ」
「がはははは!調子に乗りおって!ほうら、飲め飲めっ」
国永からは今日の仕事は終わりだと言われてしまい、しかし私室で一人になるのも気が滅入る。まだ寝れるほどの睡魔も無く、今剣の誘いがありがたかった。
ひとくち、ひとくち。ゆっくと味わいながら飲み進める。お酒には強くない、そう時間を掛けることなく潰れてしまうかもしれない。
「そういえば、近々新しい刀が実装されると聞いたけれど」
「ああ、確かに燭台切がなにやら騒いでおったな」
「うん。太鼓鐘貞宗、燭台切が言う貞ちゃんとの交渉が上手くいったみたい。まだ鍛刀かドロップか、どうなるかは分からないけど」
まだ見ぬ伊達の短刀、太鼓鐘貞宗。
しかし短刀と言っても伊達の刀だ、想像するに難しくない。
「また たんとうですか…」
「うん?どうした今剣、仲間が増えるのは良い事ではないか」
「なに、主の懐に入る順番がまた遅まるのを憂いておるだけよ。なあ?」
笑う岩融に今剣が飛びかかり、酒の席には笑い声が響く。
慕われるのは嬉しいことだ、こんなどうしようもない主だけれど。アルコールが脳まで届き、彼らの声も、自分の思考も夢のように感覚が遠い。
「また一段と降ってきたな………笑い事ではないか」
つらい、かなしい、さみしい、あいたい。
箍は外れ大粒の涙と共に感情が溢れ出して、もう止まらない。どうして死んじゃったんだろう。こんなことってない。
「ああ、ぬしさま、そう泣いてしまっては目が溶けてしまいまする」
溶けてなくなってしまえばいい。目も、鼻も、口も、何の役にも立たない体の全てが溶けてなくなってしまえば。
「あるじさま」
「主」
温かな手のひらが背を擦り、白檀の香る手ぬぐいが涙を吸う。
「主よ、人は何を持って死、と捉えるのだと思う」
死。命を失うこと、呼吸は止まり心臓がその機能を果たせなくなったこと。死んでしまえば永遠に会うことも、話すことも出来なくなってしまう。
「そうだね、その通りだよ。でも、」
「人が本当に死ぬのは、関わってきた人々から忘れ去られてしまうことだと聞いたことはないか?」
「ぼくたち、あるじさまのためにおれることはちっともこわくありません。でも、あるじさまにわすれられてしまうのはとてもこわいことです。それに、にんげんがぼくたちのいつわを、なを、わすれてしまえば もうただのてつのかたまりとおなじ。ひとびとがなんねんも かたりついでくれているおかげで ぼくたちはここにあるのです」
存在を忘れられ、自分が居たことを誰も知らず、ただ膨大な歴史の一粒として消滅する。命を奪われ、さらには存在が消え迎えるのは二度目の死。
捌宮は確かに覚えている。彼等と過ごした短くも熱い日々、下らない笑い話、あの笑顔を。勿論、これまで第0008本丸で折れた刀達のことだって、一振りも忘れてなどいない。
ーーみんな、私の中で生きている。
「人も刀も同じ、大事な人に忘れられると言うことは恐ろしいものです。ぬしさまは何も出来ないと申されましたが、とんでもない」
「うむ、主は友が生きた歴史を守れているのだから胸を張って誇ればよいのだぞ?」
「本当に、よくやっているよ」
心に張られていた氷が少しずつ溶けていく。悪い憑き物が落ちたように体が軽くなり、暗闇のなか、一筋の光が差し込んだ。
そっか、私はまだ彼等を守れているのか。ならばこれからも、彼等が忘れられないように、その生きた歴史を変えられないように、戦えばいい。警察官の彼等に救われた人々は少なくないだろう、それら全てを無かった事にされるなど許せるはずもない。
膨大な歴史のなかでは小さな小さな一粒だけど、尊い信念と命を燃やして紡いで今この時があるのだから。
いつの間にか、屋根を叩く雨音は聞こえなくなっていた。比喩でも何でもなく、黒く分厚い雲を退けた捌宮は微かに頬を染めた。自分の精神状態がそのまま反映されるのは、非常に恥ずかしくもある。
「雨が止んだな」
「みてください、きれいなみかづきですよ」
月の光を背に浴びて今剣が笑う。まだ視界はぼんやりと霧が掛かっているため小さく細い月を見ることは叶わない。
「ははは、そうも潤んだ瞳では遠くは見えぬだろう。主の月は此処にあるぞ、存分に見るといい」
残念がる捌宮の心を読んだかのように三日月がその顔を覗き込み、瞳の打ちのけを煌めかせた。深い藍の泉に揺れる三日月がふたつ。
いつもと同じ、うつくしいその月をもっと眺めていたいけれどどうにも瞼が重い。けれども体は綿かと思うほどに軽く、宙に浮かんでいる気さえする。
三分ほど夢とうつつをさ迷うも、やはり酒に蕩けた脳は眠気には耐えることができなかった。
「ええい三日月、離れんか。ぬしさまが困っておられる」
「何を言う小狐丸。主は俺の美しさにめろめろだぞ。見よ、この幸せそうな微笑みを」
「ああおいたわしや、ぬしさま…。狡獪な月に惑わされてしまうなど、」
「せっかくの良い月夜だと言うにどうも獣が煩くて敵わん。どれ、狐狩でもするか」
捌宮が三日月の膝を枕に眠りに落ちても、刀たちの舌戦は止まらない。
「みっともないですよ みかづき、こぎつねまる。いしきりまる あるじさまをおねがいします」
「わかったよ、さぁ三日月」
「待て、俺が連れて行く」
「いいえここは私が」
雲は去ったと言っても、未だ雨の匂いが微かに残っている。言うなれば捌宮の、涙の匂いだ。完璧な人間などいない。傷つきながらもひとつ、またひとつと学び成長する、人の子のなんと愛らしいことよ。
岩融は隣へ寄った今剣の頭を荒く撫で付けた。
「今剣よ、明日はよく晴れそうだな」
「きっと とーーってもあつくなりますよ!」