1杯:月曜日
「ハァイ、テネシー。1週間後、あなたとライに仕事よ」
組織のアジト、暗く冷たい空気漂うその一室。ノックもせずに美しいプラチナブロンドを靡かせ入るのはベルモット。テネシーでは到底届かない豊かな胸を大胆に、惜しみなく晒す彼女は艶やかな唇を吊り上げる。
手渡された書類をざっと黙読すれば、テネシーは自分の顔が強張るのがはっきりとわかった。
「……ハニトラ、ね」
その様子をベルモットは愉快げに笑い、その耳元に息を吹きかける。それがやけに熱くて、テネシーは身をよじった。
いつかは来るとは思っていたけれど、いざやることになるとどうにも平常心を保つのは難しい。それでも、テネシーの凍った仮面を剥ぐことはできない。今の自分は組織の駒であり、振り分けられた仕事は絶対だ。
「今まで当てられなかったのが不思議なくらいよね。私も貴方の冷たいお顔が赤く乱れる様子が見たいわ。どう?仕事の前に2人で遊ばない?安心して頂戴、跡や傷は付けないわよ」
つつつ、首筋を細く白い指が辿って、鎖骨へ。むんむんと薫るフェロモン、部屋が一気に暑くなって、まるでサウナのようだった。
焦る気持ちを隠して興味ない、とでも言うかのようにテネシーは絡みつくベルモットを振り払う。扉に向かい歩き出せば、後ろに居る自分と同じ米国産ウイスキーから心底不思議そうに投げかけられる言葉。
「貴女そんな貧相な身体でハニートラップなんて出来るんですか?」
思わず立ち止まり、自分の胸元を見下ろした。絶壁とは言わないが、ベルモットを見た後ではどうにも物足りない。口元が引き攣るのを必死に抑えて、後ろのバーボンに振り返る。
「試してみる?…バーボン」
「ああ結構です、僕にも好みがありますので」
射撃場に来たものの、テネシーにはもう銃を扱う気力など無かった。先ほど聞いたバーボンの言葉が頭の中で繰り返される。「僕にも好みがありますので」最悪だ、最悪だ、最悪だ!試すだなんて、あんなこと言わなければ良かった。どうかしてる。ハニトラの仕事を知って思ったことが、初めては、好きな人とが良いなんてーー。
テネシーこと、みょうじなまえはバーボンのことが好きだった。バーボン、いや自分と同じく潜入捜査中の降谷零という上司が。どうせ叶うことのない恋心をテネシーの言葉に込めるのは難しいことではなかったけれど、言ってしまえば後悔しかない。
手に持つ書類をぐちゃぐちゃに丸める。どうしようもないこの感情を落ち着かせたかった。
初めてがそこらのエロ親父だなんて、嫌すぎる。降谷さんとは言わない、言わないけれど、正直なところ、降谷さん以外ではみな同じだとも思う。だいたい、自分は処女であり、男を落とす芸なんてものは持っていない。
自分の恋心はしまい込み、1週間後の仕事に向けて頭を回転させる。
……男を買う。それとも春を売るか。
出来れば手馴れた男が良い。まずは不慣れな自分に添ってくれるような男。
ハニトラで失敗するなんてことはあってはならない、確実に情報を引き出さなければ。組織に自分を売り込まなければ。
「テネシー」
「…ライ。今考え事しているの、用があるなら後にしてくれる」
「バーボンに振られたらしいな」
「ベルモットから聞いたの?あんなの唯の戯言、揶揄うために声掛けたなら帰って」
せっかくしまい込んだものを引き出されれば苛立ちもする。何を考えてるのかさっぱり分からない。バーボンが嫌うこの男を、テネシーも好きになれないでいた。
お揃いの黒い長髪が揺れ、すぐ近くにあの悪い顔。深緑がテネシーを貫いて身動きが出来ない。鼻と鼻がくっ付いて、それでもお互い目を開けたまま。
「…っ、」
重なった唇は熱くて、煙草の臭いが咥内へと伝わった。変わらず見つめて来るその強い瞳を見ていられなくて、瞼を降ろす。
なんで、ライとこんなことしているのか。ちゅ、ちゅ、と繰り返されるバードキス。唇を甘く食まれて、舌でこじ開けられた。
「ん、…ゃ、」
初めての感覚に背筋が震える。分厚い舌が絡まり吸われれば口の端から涎が垂れる。ぞくぞくと鳥肌が立ち、ついには腰が抜けた。まさか、キスだけでこんなことになってしまうなんて。あまりにも経験値が無さすぎた。ライに支えられながらぼんやりと霧がかかる脳内を無理やり働かせる。ハニートラップなんて、出来るわけない…!
テネシーとしての氷の仮面はドロドロに溶けて、顔は真っ赤に染まり瞳には涙の膜さえ張っている。目を細めてその様を眺めるライがやはりなと呟けば、俯くテネシーの顎を骨ばった指で持ち上げる。
「お前の尻拭いなんざするつもりは無い」
「…っ、そう。なら安心して、情報は必ず手に入れるから」
「ホー、キスひとつで腰抜かしたのはどこの誰だ」
未だ一人で立つことの出来ないままの自分が腹立たしい。掴んでいたライの服を離し、その鍛えられた胸を押した。案外素直に遠ざかり、テネシーは冷たいコンクリートに崩れ落ちる。例え無様に座り込む形になっても、これ以上ライに触れていたくなかった。
「経験も無い癖に相手から情報を引き出せると思っているのか?良いように使われてそのまま捨てられるのが目に見えている」
「黙って」
「どうせそこらの男を捕まえるつもりだったんだろう」
「じゃあもう良いでしょ。ちゃんと来週までには、」
「俺を使え」
きっと今自分はテネシーにあるまじきアホ面をこの男に晒している。空いた口が塞がらないとはこの事で、口の中はすっかり乾いてカラカラだ。
「…組織の男と遊ぶ趣味はない」
「テネシー、お前なら仕事を完遂するためにどうするのが1番か分かっているだろう?」
何も知らない男にただ抱かれるのと、事情を知るライに抱かれる。どちらが効率よくその快感を、男を転がす仕草をモノにする事ができるのか、なんて。そんなこと考えるまでもない。
しかし、この男相手にどこまでテネシーを続けられるのか。せっかくコードネームまで貰えたのだ。こんな所で仮面を剥せる訳がない。剥がれればただ黒く冷たい死しか待っていないし、下手すれば二人にも迷惑が掛かる。
それでもーー。
唇を噛み締め、鋭くライを睨みつける。
やるしかない。仕事は絶対にやり遂げなければならない。信用を得るためだ。そのための経験だ、すなわち日本の為になることだ。自分に言い聞かせて漸く機能するようになった足腰に力を入れる。
「…そこまで言うなんて、余程自信があるんだ」
その言葉を了承と取ったライは吸い始めたばかりの煙草を床に落とし、足ですり潰した。フッと吹き掛けられた煙は先ほどのキスとは比べ物にならないくらいに臭い。
ーー降谷さん、この仕事がちゃんと出来たら褒めてくださいね。頑張りますから。でも、やっぱり、初めては貴方が良かったです。
「安心するといい。ベルモットにも劣らない最高の女にしてやる」