アパシーがーる。

晴れ晴れとした気分は、そう簡単に長続きしないものだ。ちょっとした事で沈んでしまう人間の気分というのは、一切同じベクトルというものが存在せず、心の問題か脳の問題か。どちらかが関係していると考えられるが、相反する論文を読み解くと脳科学は科学的根拠に基づいて人間の感情や思考を説明しており、心理学は行動的根拠に基づいて感情や思考を説明している。これに関して、私個人の見解としては――というところで、キーボードを叩く指を止めた。

「ねぇ、無理なんですけど。考査免除の代わりに専攻学科の論文書けとか。無理なんですけど」
「定期公演組はそれで免除なのですから、他の生徒より楽をされては困るという事なのでは?」
「だったら考査受ける方が楽だよおおおお。いくつ講義掛け持ちしてると思ってんだよおおおお。時間が無いよおおおお」
「それは完全なる自業自得ですね」
「自習を聖書の好きな箇所を書き写すだけで許してくれた言峰先生が神様に見える。マジ神父」
「クソ神父の事ですからバイト先で無茶振りされると思うのだけれど、友人の為に黙っておく可愛く優しいカレンちゃんなのであった」
「それ、棒読みで言う必要あった?」

考査明けという事もあり、自習になった講義中に提出用論文を完成させていく。オンラインゲーム以外では滅多に使用しないノートパソコンが活躍しているが、画面の隅にゲームの通知やSNSの通知が届くものだから集中もできない。
隣に座るカレンはあたしをいじりながらも参考になりそうな書籍情報を提示してくれるのだから、なんだかんだ面倒見が良いのが見て取れるのだけれど、それ別の学科のやつです。一応専攻は心理学です。あ、やめて。物理はやめて。

「……結局、やる気があるのか無いのか、私には理解できませんね」
「なにがー?」
「貴女の事ですよ、名前。普段はやる気が無く、大学へ来るのも面倒で出不精を自認している。けれどいざ外に出ると行動力が桁外れに発揮されて、普段のやる気の無さはどこへやら。私、どうして貴女なんかと友人でいるのでしょう」
「えっ。いやいや、聞かれても困るんだけどっ? あー、でもね、それ、多分、目的があるからだと思う」
「目的……」
「例えばだけど、物凄く引きこもりで尚且つアニメや漫画が好きな人がいるとします。その人が夏の時期と年末には絶対外に出る。それは同人即売会の為。その確固たる目的があるから出不精であっても外に出る。ただ、そこに精神疾患とかPTSDを抱えていたら難しいと思うけど、あたしは一応健康人間なもんで」
「貴女が過度なオタッキーという事は理解できました。おめでとう」
「なんかよく分からないけどありがとう!」

人に上手く説明するのは難しいな。と、専門外なカレンと話していて実感した。
いくら心理学を専攻していても、その道にはまだ片足の親指程度しか突っ込んでいないので、何も知らないカレンに説明する事があたしにはハードルが高かったようだ。人に何かを教えるって、難しいなぁ。
でも、今カレンに話した内容は提出用論文に使えそうだ。ちょっとアレンジして、もう少し専門用語を使用してみるのもいいかもしれない。例えば――Apathy、とか。いやでも、これは脳科学用語だった気もする。似たり寄ったりで難しいなぁもう!

「――……あなたの全身が明るく、少しも暗いところがなければ、ちょうど、ともし火がその輝きであなたを照らすときのように、全身は輝いている」
「カレンー? 何か言ったー?」
「いいえ、ただ、貴女の事を例えただけです」
「え。あーうん、よくわからないけど、ありがとう?」

珍しくクスリと笑ったカレンは、やっぱり美少女だった。
自習の終了時間が近付いてくる。次は絶対休みにならない講義だ。そして前に座らされるので隠れて論文を製作するなんて無理……アーチボルトめえええ。とか恨み節を心の中で唱えてみれば、タイミング良くスマホの通知ランプが点滅した。
もう休み時間になるからいっか、と完全に指の動きを止め、スマホに視線を移せばウェイバーからのメッセージ。学会のなんたらで講義が休みになったという連絡だった。
……ありがとう、アーチボルト先生。今日限りはとてつもなく感謝しています。





「なるほど。それで本の山に囲まれていたのか」
「不格好ですみません……。とりあえず、今日が提出期限なのでやりきらないと……あ、そこの上から三段目の本を取って貰っても良いですか?」
「あぁ。これかな」
「はい。ありがとうございます。オディナ先輩」

奇跡的に考査の採点やらで休講が多く助かっているのだが、やはり文献が無いと困るのでカレンと別れて図書室で籠っていると、偶然にも本を返却しに来たオディナ先輩に遭遇してしまった。先輩曰く、返却カウンターから見える十数冊積まれた本に囲まれて集中しているあたしがとても珍しくて、邪魔しちゃいけないと理解しつつ声を掛けてしまったとの事。
途切れ途切れの会話で良いのであれば誰かが居てもまだ作業は進むし、一人で黙々と、というのは気分転換が出来なくて少し物足りなかった所だったので声を掛けてくれて嬉しくは思っていた。そう、思ってはいたけれど、如何せん論文が進まないのだ。
本を取る時間も惜しいので、対面に座っているオディナ先輩に積まれた中から渡してもらう、という先輩を顎で使ってしまっている現状。いやぁ、アーチャーが居たら呆れて溜め息しか出ないだろうし、眉間の皴が増えるんだろうな。

「すみません、先輩」
「いや、気にしないでくれ。普段読まないようなものばかりで、とても興味深いよ」
「論文用の参考文献ですしね……。あとは歴史書とか倫理とか、脳科学関係なので、普通の人は読まないと思います」
「全て読んだら、心理学のエキスパートになれそうだな」
「オディナ先輩がエキスパートになっちゃったら、落ちない女性は居ないと思いますよ。多分ですけど。ただしイケメンに限る、っての多いですし」

心理学を恋愛に用いるには、相手の好意次第にもよるし環境に左右されると思う。心を読む事は出来るけど、心を動かすのは難しい。女性が全く興味の無い相手や、タイプじゃない外見の男性に壁ドンされたってときめく事は滅多にないし、何なら恐怖を感じたりする事の方が多いだろう。それと似ているのだ。
それでも、自他共に認めるイケメンが壁ドンしてきたら……少なからず心は動くし、好意が無くても意識し始めてしまうかもしれない。
イケメンが実用的な心理学の使い方を学べば、の話だ。

「でも、先輩みたいに外見が桁違いに良い人って、そういうの学ばなくていいと思うんですよ。だって必要ないですもん」
「……そうかな」
「そうですよ。それだけで勝ち組です。正直言って羨ましいです」

キーボードの上を走る指の速度が加速する。段々と終わりが見えてきた高揚感は、なんともゲームと似ているところがある気がして、一種の麻薬のようだ。ドーパミンが出て、ワクワクするような、気を急くようなうわずった気分。
最後の一文を入力し終わるまで気を抜けないのに、保存をするまで気を抜けないのに、興奮状態が続いていく。
――だから、オディナ先輩があたしの事をずっと見ていたなんて、気付けなかったんだ。

「……えっ、……っと――、?」
「あぁ、すまない。苗字さんの目がとても輝いているから、見惚れてしまっていたよ」
「あっ、と、ごめんなさい。熱中しちゃってて。その、もう少しで終わりだから、その、高揚してたみたいで……」

保存に持っていくカーソルが、画面の中でかすかに震えていた。これは自分の動揺が伝わっているのか、それともパソコンの動作が重いのか。明らかに前者なのだけれど、幸いなのは、自分の心臓の音が目の前でほほ笑む先輩に伝わっていない事だ。
なるべく落ち着いて、データを上書き保存。デスクトップ上にあるファイルをメールに添付して、必要事項を本文に入力。そして心理学科の提出用メールアドレスへと送信。大丈夫、これで提出は終わった。
異様な空気になりだしたこの場を離れたら、きっと自由の身になることを信じて片付けを始める。なるべく目線を先輩に向けないようにしているが、先輩は変わらずあたしを見ているようだ。……何が面白いんだろう。

「……あの、あたし、もう終わったので出ますけど……」

先輩はどうしますか? と聞く前に、オディナ先輩は立ち上がった。

「なら、片付けを手伝おう。この量だと苗字さん一人では何往復もかかってしまうだろう」
「いやいや! 出したのは自分ですし、自業自得ですし、それに――」
「俺が、苗字さんと一緒に居たいから。気にしないでくれ」

異様な空気、再び。
歯の浮くようなセリフもイケメンが言ったら自然になる、という事案を、身を以て体験した気分だ。
そして、誰から見ても分かりやすく、好意を向けられている……そんな気がした。
――オディナ先輩は、誰にでも優しいイメージがある。あの会長とも普通に会話しているところを見るに、本当に分け隔てなく人と接することが出来るんだろうと思う。
だからこそ、これが恋愛感情の好意なのか、それとも後輩に対する慈愛を含んだ好意なのか判断がつかない。後者だと思いたいけど、この先輩はあたしの知識で探り切れないところがあるので難しいものだ。
腹の底が見えない、ミステリアスな先輩。それが、ディルムッド・オディナ先輩。

「そういえば、積まれている本の中に気になるものがあったんだが」
「どれですか?」
「……もう本棚に戻してしまったな。すまない、確認しておけば良かった。タイトルではなく背表紙なら覚えているんだが」
「あー、えっと、どれだろう」

戻してない手元にある数冊ではないとすれば、既に戻した十数冊の内のどれかだろうが……いろんな本棚から取り出していたから既にどの本なのかわからない。むしろ、この大学に収容されている蔵書の数が多過ぎて、探すのがメンド……検討がつかなさ過ぎる。
通ってきた本棚をもう一度巡って探そうとすれば、手首を掴まれた。驚いて振り返ると、少しだけ眉間に皴を寄せ、複雑そうな表情のオディナ先輩と目が合った。

「すまない。苗字さんの都合がもし良ければ、今度の土日に本屋とか一緒に行ってくれないだろうか?」
「えっ……?」
「先程の本以外にも、俺は心理学には疎いから、詳しい苗字さんにおすすめの本を教えてほしいんだ」

自分の得意分野に関して、興味があるから教えて欲しいと言われたらどうしても心は揺らいでしまうものだ。……多分。
そして、普段から知識が豊富な印象を受けていた相手からそれを言われてしまえば、尚更協力したいという気持ちが湧き出てくる。
オディナ先輩のその言葉に、土曜日のバイト終わりで良ければ、と口から出てしまった自分の言葉の真意はなんなのか。心理学的に言えば、きっと、今が黄昏時だからかもしれない。

「ありがとう。じゃあ、来週の土曜日に。……二人だけの秘密だ」

そう言って、人差し指を唇に当てて嬉しそうに微笑まれたものだから、しどろもどろな返事しか出来なかった。
見た事ない無邪気に口角を上げる表情に、昔の純粋な幼馴染を思い出してしまった。

(2022/01/08)