アパシーがーる。
どうしてお前は、こんなにも流されやすいのだ。――と、数十分前の自分に説教したい。
だってだって、そんなお誘いっぽくなかったんだもん。というのは自分Aの主張。
そんな事言ったって、あの状況では断りづらいじゃあないか。というのは自分Bの主張。
んー、ノリで? というのは自分Cの主張、だ。
いやもう本当に意味が分からないのだけど、どうしてだかあたしは今、オディナ先輩の住居に足を踏み入れてしまっていた。
シックな色合いとシンプルな家具に囲まれ、フォーマルな服装をしたオディナ先輩が麦茶の入ったグラスを二つ持ってきてくれた。茶色い水面に映る自分が見た事無いほどにとてつもなく不安を帯びた表情をしていたので、改めて今の感情を感じ取ることが出来た。
あたしは今、とんでも展開に戸惑っているのか。と、自分D。――そうです、めちゃくちゃ戸惑っています。
「そんなに構えないでいてくれると嬉しいんだが……」
「えっ? いや、ソッ、そんな事ないですよ……?」
「突然家に招いてしまった俺が悪いのだから、苗字さんにそこまで気構えられると気になってしまうんだ」
「は……はい……」
何度も、誘った自分が悪いと言ってくるオディナ先輩には申し訳ないのだが、マジでド緊張してしまっているのはどうしようもないので先輩も気にしないで下さいお願いします。
男性の家と言ったら、お隣のオカンかクーさんの家にゲームしに行くくらいだったので、何の予定も無くたかが休憩という名目で家に呼ばれるなんて未経験すぎて困ってしまっていた。
異性経験なんてほぼ皆無で知識的には少女漫画や乙女ゲームしかないのがあたしだ。それらでは異性の家にお招きされるなんてもうフラグでしかないわけであって――いや、違う違う。相手はオディナ先輩だ。普通に真夏の気温で外が暑く、喫茶店とかどこも満席で待ち時間があることを見越して、近い自分の家に誘った可能性が一番高い。
そう思い込むんだ、苗字名前――!!
「こんなに暑くなるとは思わなかったな。冷房は大丈夫だろうか? 寒くなったりしたら言って欲しい」
「いえ、大丈夫です。適温です。気持ちいいです」
「そうか。それは良かった」
沈黙。エアコンのモーター音が鳴り響くリビング。自分の呼吸が大きく聞こえてしまう。
居た堪れなくなって目の前にある麦茶で咥内を潤せば、良い音を立てて喉を通過していった。
全ての音が辺りから聞こえてくるのに、オディナ先輩は何も話さないしあたしも何も話せない。
さっきまで汗でじんわりしていた体は冷房のおかげでもう乾ききったはずなのに、首筋から背中に垂れていくこの汗の正体がわからない。
チラリと先輩を横目で見れば、まだ乾ききっていない汗が扇情的に見えて、いやこのイケメン! と、自分が変な思考になるのを防いだ。あたしの視線に気付いた先輩が、ふわっとほほ笑む。
「お茶のおかわりは?」
「あ、いただきます」
「食事の時間まで涼んでいくつもりだいるんだが、名前――おっと、苗字さんはどこか行きたいところとかあるだろうか?」
「いや今日の予定は本屋巡りだけだったので特に無いのですけども、えっと、名前……」
「これは失礼したな……。クーさんが君の事を下の名前で呼んでいるだろう? 流石に普段は気を付けているんだが、家だからかな、少し気が緩んでいるようだ。嫌な気持ちにさせてしまって申し訳ない」
「いやいや全然! むしろ苗字よりも呼ばれ慣れていますし、あだ名とかそんなに無いですし、あの、オディナ先輩が良ければ下で呼んでくれてあたしは大丈夫です、はい」
「そうか、ありがとう」
また微笑まれてしまった。
その前にあたしは何を言ってしまったんだ。下の名前で呼ばれるとか、なんで、――違和感が無かったんだろう。
先輩の心地の良い声色のせいなのだろうか。それとも他に理由……なんてあるわけがないから、もしかしてこれはあたしがまた流されてしまったパターン!?
どうしてこうもペースが乱されてしまうのだろうか。もしくはオディナ先輩がほわほわしているから、ペースも何もないの? もうわかんなーい。
「……名前」
ドクン。と、心臓が、体が、震えた――……いやいや、これは先輩の声色のせいだ。
「氷はどうする?」
「ほし、い……です……」
「わかった」
キッチン側から聞こえてくるすべての声に体が反応してしまっている。心臓がドクドクと鼓動を速めている。
なんだっけ、確か前にも呼び捨てにされた記憶がある。その時は酔ってたんだよね、でも今は酔ってないんだよね。うん、恥ずかしいね。
「先輩、すみません、あの、自分から言っといてアレなんですけど、やっぱりその、呼び捨ては抵抗あるというかなんと言いますか、」
「――そうだな。俺も、少し恥ずかしかったんだ。そう言ってくれてありがとう」
あぁもう、その笑顔に何人もの女がノックアウトされてきたんだ。
大丈夫、あたしは流されないぞ。一瞬のキュンが長続きするわけがないんだから。
□
「……少し寄り道しても良いだろうか?」
「大丈夫ですよー」
大分自分のペースを取り戻してきた中、食事のお店は普通の居酒屋であれと心の中で願いながら少し日が落ちて若干涼しくなってきた時間。道中で隣を歩くオディナ先輩がふと思い出したように口に出してきた提案に、快く了承した。
少し繁華街に近くはなってきているが、週末という事もあって人が多いのでなんとか波をかき分けながら歩んでいたので一旦どこかに寄るのは大賛成だ。
あと、オディナ先輩を見る女性の目が凄い。普通イケメンが歩いてもそこまで見ないだろって第三者としては若干不快に感じる程、女性の視線が歩くたびに突き刺さり、そして隣を歩くあたしには嫌悪の視線が突き刺さってくるのがマジでつらい。
これは将来的にオディナ先輩と付き合う女性は気を付けた方が良いと思うのです。後輩のお気持ちです。
少し路地に入って数分歩いたところに、オディナ先輩の目当てがあったようだ。看板は出ているが点灯していないので開店前なのか? と疑問に思っていたら、ドアにはCLOSEの札がぶら下がっていた。
先輩のお目当てのお店閉まってますね、と口に出す前に、先輩は関係無いと言わんばかりにドアを手前に引いて開けた。
「すみません。まだ開店前……」
「お疲れ様です」
「なんだ、ディルじゃないか」
「忘れ物を取りに来ただけですよ」
「私が聞く前に要件を言うとは釣れないなぁ。おや? 珍しい女性を連れているね」
「えっ、えーっと……?」
ドアの向こうは少しだけ薄暗いバーのような場所だった。というか、バーなのだろう。
カウンター内には薄暗い店内でもライトに照らされて綺麗に輝く金髪長髪の男性が居た。オディナ先輩と仲良く……仲良く? 話しているので知り合いだと思ったが、先輩の笑顔を崩さないにしても少しだけ距離がある話し方に少しだけ違和感を抱いた。
先輩の背中に隠れていたあたしの存在に気付いたその男性は、カウンターから出てくるなり珍しい組み合わせだとばかりに上から下まで凝視してきて少し不快に思ったのだけれど、上手く躱してくれたのは流石先輩だ。
「レディを凝視するのは良くなかったのではないですか?」
「おっと、これは失礼。私はフィン。この店の城主さ。お嬢さん、お名前をお伺いしても?」
「オディナ先輩の後輩の苗字名前です。よろしくお願いします」
「ふむ、どこかで聞いた事のある名前だな。……まぁそれはさておき、開店前だが一杯飲んでいくかい?」
「いいえ、さっきも言った通り忘れ物を取りに来ただけなので今日は……」
「釣れないなぁ」
「名前さん、裏に荷物を取りに行くのでそこのソファーに座って待っててくれないか?」
「あ、立ったままで大丈夫ですよ?」
「何を言っているんだお嬢さん。レディを立たせたままなんて出来ないよ。ほら、座って? 飲み物は……ディルに怒られるのは勘弁だからお水で良いかな?」
「いや……お構いなく……」
あれよあれよとソファー席に座らされ、オディナ先輩はあたしが座ったのを見届けてからカウンター奥のパーテーションの置かれた方へと消えていった。
ここは先輩のバイト先なのだろうか? でも確か、先輩は喫茶店でアルバイトしてなかったか? あれ? あたしの記憶違い?
「不思議そうな顔をしてるね?」
「いや、先輩とフィンさんの関係が分からないと言いますか」
「先輩後輩。雇用主と従業員。主従関係。こんなところだろうか」
「つまりここは先輩のバイト先?」
「ありていに言えばそうだね、うん。金曜と土曜のみの出勤だが、彼はレディ達からの評判は上々だ。私には負けるけどね」
「は、はぁ……」
「おっといけない。こんなこと、彼女さんに伝えるのは失礼だったね」
「彼女じゃないですけどね?」
「なんと」
すかさず否定すれば驚かれた振り。すべて理解していただろうと思った。
このフィンさんは色々見透かしてる気がするし、さっき言っていたのだ。珍しい女性を連れている――と。
「分かってて言ってますよね?」
「これはすまない。パフォーマンスが過ぎたかな」
「いや当たり前ですって。あたし、ただの後輩ですもん」
「後輩か……懐かしい響きだな。ディルも私の後輩だったんだ。君と同じ大学さ」
「えっ」
「君の入学前に卒業してしまったがね。槍術部ではこれでも人気だったんだよ」
「じゃあ槍術部でオディナ先輩と知り合ったんですか?」
昔を懐かしむように頷くフィンさんの横顔は、大学生活を懐かしんでいるような柔らかい表情だった。
そして何かに気付き、再度あたしと視線が交わった。
「失礼なのだが、もう一度名前を伺っても?」
「え? 苗字名前ですけど……」
「名前……――そうか、あの時の」
「え、どの時ですか。やめて下さいよ、あたしが知らないのに知ってるみたいに話すの」
「知ってるも何も、君、入学早々やらかしていただろう?」
「……やらかし…………?」
「後輩達とは今でも連絡を取り合っていてね。今年の新入生で学校行きたくないと大声で叫びながら引っ張られている女子生徒がいる、とね」
「……………若気の至りでした……」
「いやぁ、話を聞く限り実に面白かったさ。ディルムッドさえも君の話をよくしていたものだ」
「悪いお話ばかりでお恥ずかしい限りです……」
「いやいや、そんな事も無いさ」
あっはっはっと笑う姿からはさっきまでの紳士的な表情は無くなっていた。多分、こっちが本当のフィンさんなのだろう。
オディナ先輩がしていたあたしの内容も気になるが、本当に入学当初は大学行きたくなくてニートになりたがってたからなぁ。今もそうなのだけれど、去年よりも学校が楽しいと思える日が増えてきているから引きずられる事はなくなっているはずだ。
それでも朝はアーチャーに起こしてもらわないと登校しなかったりしていたけれど、そういえば最近はちゃんと自分で起きているんだから偉いものだ。本当に、息してるだけで偉いし起床するだけで偉いのだ。
「そう、そんな事も無いんだよ」
一頻り笑い終わったフィンさんが、感慨深く呟いた。
「君のお陰で変われた男も居る事を忘れないで欲しい」
「何のお話でしょう……?」
「そのままの意味さ。ん? そうか、まだ知らないのか」
「えーっと……?」
「これはマズったな。先走ってしまった。私の悪い癖だ。……そういうわけだディルムッド」
「……どういうわけですか」
名前を呼ばれオディナ先輩が、パーテーションの裏から出て来る。少しだけ不機嫌なのかもしれない。眉間に皴が寄っていた。それでも美形である事に変わりはないのが羨ましいところなんだよなぁ。
「忘れ物はありましたか?」
「待たせてしまってすまない。行こうか」
「おいおい、レディの相手をしていた私に礼は無いのかい? 業務前だったんだけどね?」
「……ありがとうございました」
「怒らせてしまったようだ。ははっ、後のフォローは頼むよ」
「頼まれましても困りますよ!?」
「なら、食事終わりに来店してくれたまえ。詫びも兼ねてご馳走させてくれ」
「嫌ですよ」
「連絡を貰えたら貸し切りにしよう」
「はぁ……名前さん、帰宅が遅くなっても大丈夫だろうか? こうなっては人の話を聞かないんだ」
「あ、はい、明日も休みだし大丈夫ですけど」
「すまない。ありがとう」
なんだか今度はフィンさんのペースに流されてしまった気がするが、まぁタダなら良いよねタダなら。
ではまた、と軽やかに手を振るフィンさんと別れてまた視線の突き刺さるやや人の増えた街並みを歩いていく。
――そういえば、
「オディナ先輩が話してたあたしの話って聞いても良いですか?」
「藪から棒だな。そうだな、とりあえず面白い新入生が居るとか……だったような」
後で食事中の話のネタにしようか。と先程とはうって変わった笑顔のオディナ先輩は昔の事を話すのは照れるようで、少しはにかんでいた。
さて、到着したお店は高級じゃないにしても予約必須なちょっと良いお店だったので、今日オシャレをしていて心底良かったと思ったのはここだけの話である。
こんなところであたしの奇行を話されるとか、何の罰ゲームですかね?
(2023/06/01)