デッド・ラインを越えるまでに、


どうしてこうなったんだか、と数時間前の自分の行動を思い返してみたのだが、何が原因だったのかなんて思い出せるわけもなく。私はただお気に入りの柔軟剤の匂いで満たされたシーツに埋まっていくだけだ。
今思えば、私は飢餓状態だったのかもしれない。そっち方面とか、そういうのではなく、リアルの生活で飢餓状態だったのかもしれない。
創作活動を志すようになる前、尊敬していた作家の一人があとがきで書いていた内容を思い出す。
――創作に関するものを仕事にする場合は、一部を除いて日常生活が充実していない方が良い。――
正しくその通りだ、と現在進行形でその意味を理解してしまった。充実してしなかったからこそ官能小説を執筆出来、そして出版できたのだ。しかも売れ行きは好調ときた。
枕へ吸い込まれるように盛大な溜め息が漏れた。身体は満足して、心も満足して、頭だけ蚊帳の外な状態をどうにかしようと思考を巡らす。
ふと隣を見遣れば切れ長の鋭い目と視線が合流してしまい、私の表情が面白かったのか何なのかは分からないが吐息と共に笑われてしまった。

「……後悔、して下さい……。いや、違う。なんだろ。しないで下さい……なのかな。とりあえず、でも、忘れて下さい。本当に。切実です」
「どうして」
「そりゃ、そうでしょうよ。私、歳上ですし。いや、だからそうじゃなくて。……遊びとして、割り切って下さい。ワンナイトラブです。ナイトじゃないけれど、ワンイブニング? デイタイム? とりあえず、気の迷いだったんですよ。割り切って、忘れましょう。お互いその方が、良いです。良い大人ですから、割り切りましょう」
「……、」

そう言いつつ、先程までの情事は私の身体を火照らせたままなのだが、思い出しては溺れてしまうので隅に追いやって考えないように必死に平静を装う。
じんわりと下腹部が揺れたが、気のせいにした。

「……昔の話なんだが」
「えっ。あ、はい、どうぞ……?」

突然の話だった。
突然話を切り出され、途切れさすことも申し訳ないので先を促す。
いきなりだったので話のツナガリが何なのか私の頭では処理出来ず、高杉さんが話す昔のお話を呆けながら聞いていた。十年位前の話で、学生だった高杉さんを変えた人との出会い、らしい。
そんな小説のような話があるんだなぁ、と適当に聞き流していたし、次の連載ネタに使えるかどうかとしか考えてなかったのだが。それが私だったと聞いて、うぇ!? と、変な声が出てしまった。
まさか自分とは思っていないし、そんな記憶が一切無いのだ。覚えていない。そんな事があったのかどうかも怪しい。自分自身の脳みそを疑うべきなのか、目の前の高杉さんを疑うべきなのか。……どちらも疑うことにしようか。

「……失礼ですけど、高校名をお聞きしたいです」

なんとかそれだけ絞り出し、高杉さんに質問する。
そして、聞き覚えのある名前に、脳みそが活性化され、海馬から当時の記憶が取り出されていった。

「……あー……あー……はい。……えっと、多分、私が失恋した時ですね、多分」
「あの時に泣いてた理由はそれだったのか」
「いや、んー? あ、うん、そうです。確かそうですね。失恋してましたね」

コマ送りの記憶が思い出され、ツナガリが繋がっていく。
そして偶然にも出会ったあの生徒が、目の前の高杉さんというのだからこれは偶然なのかどうなのか。
偶然だと言われた方が良かったのかもしれないけれど、高杉さん曰くそうでないらしい。

「著者近影」
「ご存知の通りですけど、私、顔は出してませんよ?」
「雰囲気。後ろ姿でわかった」
「高杉さんってストーカー気質って言われません?」
「言われない」
「えー……俄に信じがたいです」

上体を起こすのは見えてはならないモノが見えてしまうので、うつ伏せになったまま、壁に背を凭れて天井を見上げる高杉さんを見る。
横顔も、何もかも整っていて、スーツ越しではあまり分からなかった腕には男らしい筋肉。きちんと鍛えられていて、仕事上大変だろうにシンプルに凄いと思ってしまう。

「これは偶然なんだが、坂本の勤務先が編集者で、お前の作品を担当してたから入社した」
「ねぇ、ストーカー気質って言われません?」
「言われない」
「絶対そうだと思うんです」

今の話を聞くに、坂本さんは私の事をもっと前から知っていたのかもしれない。そして、高杉さんが入社してきて、経験を積ませてから私の担当を譲ったのかもしれない。……なんて、考え過ぎか。

「でも。でもですよ? 私、本当に忘れてたし、思い出さなかったりしたら、どうしたんです?」
「どうもしねぇ。ペンネーム先生の作品が好きな事実は変わりない。それに、」

完全に私と彼の間にあった壁が壊されてしまったと理解するのに、数秒時間を要した。
うつ伏せの私に覆いかぶさる年下のおとこのこ。
危険を察知しても神経の伝達が遅いのは歳のせいか、それとも本心は嫌がっていないのか。

「思い出してなくても、既成事実を作りゃあ一緒だろ」
「――あ、」

思い出した。どうしてこうなってしまったのかを、思い出してしまった。
私はこの人を意識してしまったから壁を作っていた。この人も私が覚えているか判断しあぐねていたから、距離を作っていたんだ。
それが全て取り払われたら、そりゃあ、こうなってしまうのは必然なのか、どうなのか。高杉さんからの好意を拒否せず受け入れてしまったら、流れのままに流され、気がつけば捕まっていた。
情に絆される感覚は慣れていない私の思考を奪っていく。……どうにでもなれ。

「――これ、大丈夫なんですか?」
「何が」
「私、作家ですよ。使いますよ。ネタになりますよ」
「しねェだろ」
「……なんなんですか。もう。意味わかんない」
「意味わかんねェこと言ってた奴が、何言ってんだか」

揺さぶられる思考の中で、視界の隅に見える窓から差し込む日差しは、あの時と同じオレンジ色だった。――かもしれない。

(2021/07/19)

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