デッド・ラインを越えるまでに、


「おめでとう。ペンネーム先生。いや、名前ちゃんって言ったほうが良いのかな?」
「やだ。もう、やめてくださいよマスター。茶化さないで下さい」
「だって映画化なんて、凄いじゃないですか。しかもお店、使ってくれるんでしょ? 嬉しいなぁ」
「引っ越したから身バレも最小限だろうし。それに、この喫茶店が参考になってるので。もちろん、マスターの事もですけど」
「いやぁ、本当にありがとうございます。ペンネーム先生様様だよ。これからもご贔屓にお願いします」
「勿論ですよ」

久しぶりの訪問にもマスターは気軽に話し掛けてきてくれる。
昨年、当時よりももうちょっと良いマンションに引っ越しした結果、この喫茶店に行けない環境が辛くて思い出しながら執筆した作品が世間的にヒットしたようで、有り難く映画化の企画が持ち上がった。
是非、映画のロケ地として使用させてほしいと先日私が直談判したのが良かったようで、マスターも了承してくれ、その御礼でまだ出向いたわけなのだが。客として来る機会が減ったとしても、マスターは心優しく私を迎えてくれた。
珍しくカウンター席に座った。マスターの所作も見れて会話も出来るから執筆の気分転換で訪れるにはもってこいである。
そんなに見られると照れますね、と照れ笑いを浮かべながら珈琲豆をミルで砕いていく姿は、流石イケおじという感じだ。相変わらず、こんな祖父が欲しかった、なんて願望を際立たせてくれるマスターだ。

「そういえば、編集者の彼、たまに利用してくれてますよ」
「あー、はい。お話はかねがね」
「まだ先生の担当をされてるんですか?」
「そうですね、はい。締切に関しては口酸っぱく言われてますよ。相変わらずね」
「それは、まぁ、光景が目に浮かびますね」
「これでも締め切り破ったことなんて無いんですけどね。ギリギリな時期が続くと流石に嗜められます……」
「彼もお仕事ですからね」

苦笑。談笑。だがしかし、楽しい時間もすぐ終わる。
映画化にあたっての脚本の監修もあるのでそこまで長い外出は出来ないのだ。
だったらパソコンを持ってきて……とも考えたのだけれど、軽いとはいえ片道一時間強の道中をノートパソコンを持ち歩いて移動するのは億劫だった。車があれば、と考えてしまうのは私がペーパードライバーだからなのかもしれない。
でも、電車移動で事足りているし基本的に外に出ないインドアなので、結局それほどの収入があっても購入に踏み切れないのだ。
――私がケチかどうかは別問題としておく。

「じゃあ、またお伺いします。そろそろ仕事しないと」
「はい。またのご来店お待ちしてますね」

たったコーヒー一杯。それでもマスターと話していた時間は至福のひとときだった。
簡単に会計を済ませて、レシートを受け取って、財布を鞄へ戻せばスマートフォンが震えた。ただのメッセージ受信通知かと思ったのだが、震え続けているのでこれは通話の通知なのだろう。
誰から、なんて言わずもがな。しかし通話に応答はしない。マスターとの最後の時間くらい、好きに過ごさせてほしいものだ。

「またのお越しをお待ちしております。ありがとうございました」
「こちらこそ、ありがとうございました。またよろしくお願いしますね」
「……あ。先生」

出切り口のドアを手押しする為にドアレバーに手を掛けかけて、呼び止められた。何か忘れ物でもしただろうかと振り返れば、マスターの変わらない優しい笑顔が視界に入る。

「改めておめでとうございます。お幸せに」

その言葉を全面に受けて、今度は私が照れ笑いをする番だった。
ドアレバーを下げて外に出る。屋外用のスタンド灰皿の近くに立っている人物が視界の隅に映る。
私の姿を見るなり吸いかけのタバコを灰皿に押し付け、処理をして向かって歩いてくる姿に、私は左手で手を振った。
太陽に照らされた左手は、輝いていた。

(2021/08/10)

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