デッド・ラインを越えるまでに、


翌日、寝耳に水とはこの事だ、と。私は何度も確認を繰り返し、そして絶望した。

「待って下さい。前担当の方からも、私は何も聞いていないです」
「はい。分かっています。こちらも昨日報告を受けたので。急で申し訳ないですが、いつも締め切りを守って下さってる先生にしか、こちらとしても頼めない状況でして」
「でもですね、高杉さん。私そういう作風はどうしても苦手で……」
「そこをなんとか。お願いできませんか」

目の下の隈は前に会った時には無かったはず。伸び切った前髪は左目を隠し、それでもスーツ姿はしっかりとしているというアンバランスな状態の高杉さんは、疲れ切った表情で私に頭を下げてきた。
担当替えの挨拶の時は、少しだけぶっきらぼうな挨拶をされてそれ以降直接会うことがなかったのだが、まさかここまで大変な状況になっているとは思っていなかった。
昨日の電話で引き継ぎが上手く出来ていないと話をしていたのを思い出す。その要件が私に回ってきたというだけ。しかし、要件が要件だけに、受けるのを憚られる。

「ペンネーム先生に、大人の恋愛を題材とした作品を書いていただきたい。それが、弊社の総意です」
「いやいや、本当に、待って下さい……私、恋愛作品なんて……えぇ……」

どうしても戸惑いが隠せなくなる。
私の作風は学生をファン層としたどちらかと言えばミステリ作品であり、恋愛はほんの少ししか入らず作品を膨らますだけのスパイス要素としか扱ったことがない。それさえも学生時代の恋愛経験を誇張しながら描写しているだけで、大人の恋愛なんて、そんな、周りに取材したとしても書けるかどうかわからない。
元はと言えば、20を過ぎてからの恋愛経験なんて皆無なのだから、大人の恋愛なんて昔の少女漫画と同等、もしくはそれ以下の知識しか無いのだ。

「我々も協力しますので」
「そう言われましても、私、恋愛経験というものがほぼ皆無ですので……いくら読者さんからの要望や会社からの要望があっても難しいと言うか、なんと言うか……」
「大丈夫です。今日は参考資料をお持ちしましたので」

そういう問題ではない。違うんだ、高杉さん。第一、私は望まれているものではなく、自分が書きたいものを書きたい性分なのだ。だから、どうしても乗り気のしない題材は書く気が削がれてしまう。
テーブルの上に置かれていく様々な作者達の本、本、本。分厚いものからライトノベルまで、会社が取り扱っている作品たちが並べられていく。
断りたい。どうしても断りたいのだが、一冊だけ、気になるタイトルのものがあった。私が学生時代に読み、文字書きを仕事にしたいと決めた作者の作品だ。その作者の作品は私同様ミステリ作品が多く、恋愛を題材にした作品なんて無いはずで、まず私は最近出版されたものまで全ての作品を購入している。だから、この手に取った作品はこの世に出回っているはずが無いのだ。
作者名を何度も見直す。表紙を開いて作者プロフィールも確認する。やっぱり、私の尊敬する先生で間違いはない。

「明日、またお話をお伺いします。今日は良ければ数冊ほど持ち帰ってもらって、再考いただければと思います」
「……わかりました」

欲には勝てなかった。
尊敬する先生の、見たことの無い作品があるなら、それを読みたくなるのがファンの性だ。これは読書好きとしたら仕方がない。仕方がないのだ。
その他に二冊ほど高杉さんのオススメを借りることにし、既存作品の締切日と展開を確認。そして打ち合わせは終了することとなった。

「本日はありがとうございました」
「こちらこそ、ありがとうございます。数冊お読み頂いて、一考お願いします」
「……はい。あまり気乗りはしてないですけど」
「それでは、また明日。宜しくお願いします」

外見とはそぐわない好青年のように、高杉さんは夕焼け空の中、駅に向かって歩いていった。
私の手元には借りた本の入った紙袋。少し重いが、持ち帰れないことはない。それよりも気持ちの方が重みを感じてしまう現状をなんとかしようと、溜め息を吐きながら自宅へと足先を向けた。
自宅へ帰宅しても溜め息は止むこと無く、重い気持ちのままリビングのソファーに腰掛ける。テーブルの上に借りてきた三冊を袋から取り出すなり表紙を向けて並べ、あまり使用しない台所へと移動。冷蔵庫から麦茶を取り出し、コップに注いで一口含んだ。読む気が一切起きずに一度冷静になろうと思った。
私の好きな作者の私の知らない作品。あとは名前も聞いたことの無い作者の作品二作。
どうしたもんかと、もう一度溜め息が漏れた。
知らない作品を読むことに抵抗があるわけではないのだ。ただ、恋愛を題材としているというのが枷になってしまっている。
恋愛――と言って思い付くのは学生時代、好きな人を友人に取られてしまった事が自分の記憶を占めている。中学、高校、大学……とそのどれもで好きな人を奪われているのだから、これはもう辛い記憶なのだ。だからこそ、恋愛を題材とした作品を読むことに抵抗があり、またそういった作品を自分が書くことも抵抗がある。
歴代の担当にもその話を笑い話としてしていたし、それはきっと高杉さんにも伝わっているはず。それなのに、なぜ――?
もう一度ソファーに座り、タバコを吸う。気を落ち着けるため、そしてテンションを上げるために。これだから喫煙を止められないのだ。仕方がない。
一本をフィルター寸前まで吸い終わり、いざ、と意気込んで、一番気になっている先生の作品を手に取った。

「……え――これ、恋愛……?」

内容は、少し触れただけでわかるように、ただの恋愛作品では無かった。愛憎が深く絡みついて離れない、――官能小説と称されるものだった。
自分の頭を整理しようと一度本を閉じ、他の二冊も確認する。先に読んだ一冊とは濃厚さが違うものの、官能に近からず遠からず。成人を通り過ぎた年代が織りなす恋愛模様が繰り広げられていた。
編集部は正気なのか? と、疑いが増していく。思わずスマホを手に取り電話を掛けたのは、前担当の坂本さんにだった。

「お忙しいところすみません。ペンネームです」
『おぉ、お久しゅう。ペンネーム先生の作品、変わらず売れ行きは好調じゃき。そういえば、高杉は上手くやっとりますかね?』
「いえ、今回は高杉さんの事ではなく、今回新しくお話があった仕事についてなのですが。坂本さん、私こういうの苦手だと知っていましたよね? どうして私に回ってきたんですか?」
『そう捲し立てんでも。いやぁね? 編集長がペンネーム先生に新しいジャンルに挑戦して欲しい言うたき、お願いしてみようってなったんです。高杉から聞いてませんか?』
「軽く聞きました。それでも、参考資料に、か、官能小説を渡してくるのは、どうかと思いますが」
『あっはっはっ! アイツそこまでしましたか。こりゃあ先生に対する期待が大きいんでしょうな』
「いや、笑い事ではなくですね、」
『ペンネーム先生、わしらは先生に期待しとるんですわ。先生ならもっと大きなものが書けると信じとるんです。一度抵抗を無くして、読んでみてくりゃあしませんかね?』
「そう言われましても……」

読んでみてから断るなら断るでいい。
その坂本さんの言葉に、本当ですね? と何度も念入りに確認して、通話を切った。
本日イチ大きな溜め息は、私の全ての思いが籠もっていたのかもしれない。気が乗らないまま、もう一度表紙を開く。眉間に皺が寄るのを何度も解きながら、私は文字列を読み進めていった。
三冊全てを読み終わるのにそう時間はかからなかったものの、伏線の回収を含め、行間の意味、言葉の意味を知るために、何度も表紙を開いては読み進めて裏表紙を閉じる事を続けていれば、既に日付が変わろうとしていた。
キリの良いところで取りやめ、自身の仕事部屋へと移動。愛用のノートパソコンの電源をひっそりと灯した。

(2020/08/05)

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