デッド・ラインを越えるまでに、


 

気が付けば太陽が昇っていた。最後に覚えている記憶は白んできた窓外の景色。私が意識を飛ばす前は朝日だったのに、今は鬱陶しいくらいの昼日となっている。
この時期にもう扇風機だけで寝るのは死を受け入れることと同じかもしれない。寝室から出るなり汗ばんだ身体をどうにかしたい一心で、風呂場へと向かう。汗の滲む肌を触ると自分が思っている以上にベタついており、気持ち悪い差が増した。服を脱ぎ、下着を脱ぎ、同じように汗ばむ下半身に嫌悪感を抱きながらも浴室で温めの温度に設定したシャワーからでるお湯を、全身で受け続けていると昨夜の記憶が流されていくようだった。
このまま保存して担当に送りつけた記憶までも消えてしまえばいいのに。
昨夜、私は突如降臨された脳内の欲求を書ききることに必死だった。それほど衝撃を受けたのかもしれない。自らが存在は知っていても触れようとはしなかった世界に、この歳で触れてしまい、激しい衝動を抑えることが出来なかった。
文字が自然と繋がり、綴られていく、私の意図と関係なく動く世界、登場人物、感情。プロットを考えていたわけでもないのに脳みそが常にアップデートされ、指がキーボード上を飛び跳ねる度に欲は蓄積され、文章として昇華される。
気が付けば文庫本一冊程の文字数。一夜にして書き上げてしまった事への疲労感。そして――、

「う、ぇ……!!」

誤字脱字チェックも兼ねて読み進めると、自分が仕上げた世界だと信じられないくらい欲に塗れ、そして憎悪と快楽、それに振り回される人間関係模様が描かれた作品に、吐き気を催した。
シンプル・イズ・ザ・ベスト。そう、簡単に言えば、気持ち悪い。自分が書いたことにも嫌悪を抱くし、こんなものを読む人間の気が知れない。書ききってしまった私が言うのも何だが、これは売れる本ではない。
トイレで便器に頭を突っ込み、ひとしきり吐き終えてから、台所にてコップ一杯の水道水を飲んだ。逆流してきた胃液に負けた食道が冷え、少しだけ熱を冷ましてくれる。
その後はとりあえず作品を保存し、自分には書けない旨の内容と作品を担当である高杉さんにメールで送り、白んできた外の明るさに苛立ちを覚えながらも私は寝室のマットレスベッドに突っ伏したのだ。
……思い出さないで良いこともあるので、これ以上の回顧は止めておこう。
頭の上からシャワーから出る水圧を感じ、気持ち悪い身体を浄化するように念入りに浴びて、色々な欲を排水溝へと流した。
一人暮らしは何の気遣いも要らないわけで。風呂上がりにパンツのみでリビングに行こうが何しようが文句は言われない。そんな生活が長く続いているのはもう仕方がないと受け入れ、冷蔵庫からペットボトルに入った水を取り出せば、テーブルの上に置いてあるスマホがカチカチとライトを照らして自己主張をしているのに気付いた。そういえばスマホはリビングに置きっぱなしだったことに気付き、どうせネットショップからのおすすめ商品宣伝メールか何かだろうとボトルの水を飲みながらスマホを確認すれば、それはメッセージアプリの通知だった。
送信者は言わずもがなだ。高杉さんと記載されている項目をタップし、メッセージを開く。本日の待ち合わせに関して昼は難しいようで、夜の時間帯にして欲しいという連絡内容。私は構わないのだが、高杉さんからすれば業務時間外なはず。出版社は締め切り前などに関してブラックが多いとは言え、無理をさせることは出来ない。
夜でもそちら側は構わないのかどうかを訊ねるとすぐに既読のマーク。そして返事は大丈夫ですという簡素なものだった。なるべく無理がないようにと昨日一昨日の様子も知っているので、会社近くにこちらが向かう旨を伝え、二十時に待ち合わせをすることとなった。
お心遣い痛み入ります。なんて丁寧に返事をくれるものだから、私自身も恐縮してしまう。高杉さんとは数回しか会っていないし、基本的には文面での連絡、急ぎの時は電話という風に分けているのだが……、こう、あの人の敬語には慣れないでいる。坂本さんは出身地の関係もあってか訛っているし、彼の性格もあって抵抗無く受け入れていたのだが、高杉さんはなにか違うのだ。
自分自身に仮面を付けているという表現が正しいのだろうか。貼り付けられているものと距離が感じられる。いや、担当と作家の関係なんて十人十色なのだから気にしているわけではないのだが、違和感が拭いきれない。まぁ、彼の性格なのでそこに突っかかるわけもないのだけれど。
早めに外へ出て、ネタ探しの旅も良いかもしれない。濡れたままの髪の毛をドライヤーで乾かし、適当に選んだ服はいつも通りのTシャツとジーパンだった。まぁ別に、担当と会うだけだしお洒落も何もないだろう。ただ電車に乗るわけだし、少しだけでも化粧はしておこう。
しかし、久しぶりの外出と言っても化粧の仕方を忘れてしまうアラサーはどうなのだろうか。キラキラした独女になりたかった。と、自分の性格とは相反することを望んでも意味が無い。――あ、アイライナーもうカッスカスだ。
テーブルの上に広げられた少ない化粧用品の補充も、ついでにしようと心に決めた。


待ち合わせに遅刻するのは無性に嫌だったので、予定時間の三十分も早く指定された駅に到着してしまう。高杉さんはまだ仕事が終わっていないのかもしれない。適当に時間を潰しておきます、と簡単な連絡をして、ブラブラと当てもなく駅前を歩く。新しいケーキ屋さんが開店していたのでウィンドウ越しにラインナップを見つめてみたり、今から飲みに行くらしいスーツ姿で纏まって歩くサラリーマンを眺めたり、私と同じように待ち合わせをしているらしい男性達の会話を盗み聞いたり。
こういった繁華街に近い場所でネタを寄せ集めるのは新鮮だ。普段はネットで集めることが多いので、意外と良い暇潰しになって楽しい。今度もし履歴書を書くことがあれば、趣味の欄に人間観察と記入してみようか。書くことはないだろうけれど。
駅前をぐるりと一周。元の待ち合わせ場所である改札近くへと戻ってスマホを見るが、高杉さんからの連絡はまだ無かった。既読はついているようなので、すぐ近くまで来ているのかもしれない。ドラッグストアで買った化粧品の入っているトートバッグにスマホを入れ、左手に付けた腕時計で時間の確認。予定の時間まであと数分だった。

「お姉さん、待ち合わせ?」
「そうですね。待ち合わせです。相手は男性なので、他の方に声を掛けた方が懸命かと思いますよ」
「超あっさりしてんじゃん。もうちょっと構ってよ」
「メリットがないので遠慮いたします」

この歳になるとナンパへの対応も冷静に対応できるのだと、身をもって実感するというのはなんても滑稽な話だ。しかし、それでもしつこいようならどうすれば良いだろうか。無視を決め込んで別の場所に移動してもついて来るのだから、このナンパ男はとても暇人なのだろう。私なんかよりも他に女性は居るだろうに。
溜め息が一つ溢れる。これ以上執着されるようなら、とバッグからスマホを取り出そうとして、改札から高杉さんが出てくるのが見えた。彼も私に気付いたようで、着崩したスーツ姿は珍しい気がするなぁと他人事のように考えてしまう。この時点でナンパ男の事は忘れてしまった。忘れたというよりかは、こちらに近付いてくる高杉さんが待ち合わせ相手だと分かるなり立ち去った、というのが正しいかもしれない。こういう時に男性を利用するのは本当に良い手だと再確信。

「お待たせしてすみません。大丈夫でしたか?」
「はい。慣れてますので。むしろ早く着いてしまった私も悪いですし」
「いえ、こちらこそ。実は坂本も来る予定だったのですが、トラブルが出まして、後ほど合流します」
「そうなんですね。坂本さんもお忙しい様で」
「いや、アイツの場合は手を抜き過ぎて付けが回って来ているだけなので」
「……意外です。仲が良いんですね」
「あぁ、そうですね。まぁそれなりに。とりあえず、行きましょうか」
「はい。道案内、よろしくお願いします」

やはり敬語に少しの違和感を感じながらも、坂本さんと高杉さんの意外な関係性を知れたのでそれはそれで良しとしておこう。
ネクタイを緩めながら横ではなくほんの少し先を歩く高杉さんの背中を追い、道中あまり会話が無いのは打ち合わせが始まってから話すことが多いのだろうと勝手に察してしまった。まぁただ単に、蒸し暑い夜道を歩いているので話す気力がないだけかもしれない。私もあまり会話をしたいとは思えない。
日本の夏というのはどうしてこうも湿気が強いのだろうか。大学生の時に友人達とハワイへ卒業旅行に行ったことを思い出す。日本のようなじめじめ感は無く、時折降るスコールがネックではあるのだが、それが止んでも湿気はほとんど無かった。そんな夏を私は所望しているが、やはり無理なようだ。
こちらの店でも大丈夫ですか? と、立ち止まった高杉さんが目線を私から看板へと移動させる。見たことのない店名だったので、思わず疑問符が頭の中に浮かんだ。

「知り合いがやっているバーでして、打ち合わせで何回か使ってるので理解はしてくれてます」
「そうなんですね。心置き無くお話が出来るなら、私は大丈夫ですよ」
「ありがとうございます。では、入りましょう」

地下へと続く階段を降り、少しだけ、幼少の頃の高揚感が押し寄せてきては理性で引っ込ませた。
店内に入れば、黒を基調としたシックな壁紙とオレンジ色の目の傷まない優しいライトを使用している内装をしている。八人ほどが座れるバーカウンターと、奥に四人掛け程のテーブル席があるくらいの少しだけこじんまりとしたバーなのだろうか。優先で流れる音楽はクラシックのようで、その方面の知識は疎いのだが、居心地の良さそうな場所だと感じた。

「いらっしゃいま……なんだ、高杉か。何の用だ」
「電話しただろォが。テーブル席使うぞ」
「フン。勝手にしろ」

本当に知り合いなのだろうか? という疑問しか浮かばない店主との会話、そして店主の風貌と声の低さがミスマッチで抵抗がある。いや、そういった癖の方に抵抗はないのだが、高杉さんの対応も素が出ていたし諸々衝撃的な事ばかりでトラックに正面衝突されたような、つまりは、そうだ。頭がクラクラとする。

「いらっしゃいませー。ヅラ子です。何飲まれます?」
「えっ……と、じゃあ、烏龍茶を」
「かしこまりましたー」
「俺も」
「貴様には水道水しかやらん」

本当に知り合いなのだろうか。いや、知り合いでないとこんな辛辣な会話も出来ないだろうし、知り合いなのだろうけど私は知らない世界の扉を開け続けているような気がしてしまい、自分の意識を保つことを精一杯に、渡された仄かに温かいおしぼりで手を拭く事に集中した。

(2020/08/06)

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