デッド・ラインを越えるまでに、
覚えていないことなんて無かった。正しくは記憶の奥深くに沈んでいたものが、再び浮き上がてきたというのかもしれない。
私のこの再び浮かんできたこの気持ちは泡となり消えること無く、未だに身体の何処かで燻っているのだ。いつ燃え上がるのかは自分にもわからない。それでも消えることがないのだろうと悟った。
暗がりの中でこの燻る感情を、少しでも楽にしようと手を伸ばす。いつの間にか知り得た知識を使えば使うほど燻りは何度か発火はするものの熱が治まる気配はない。
エアコンの風がほのかに涼しく、なんとか熱を消そうと送ってくれる風を受け止め、私は汗に濡れた上体を起こした。
肌に纏わりつく嫌悪感の塊を洗い流すため脱衣所へと向かえば、鏡に映る自分の顔があまりにも不細工で、更に嫌悪感が積み重なってしまう。外見に気遣う余裕なんて無くなっていたのだが、少しだけ自分を女性だと認めてみようとシャワーで行水しながら考えた。
頭から冷水を浴びつつ身体の熱を冷ましていけば、自然と思考回路も冷静に動いていくようで。恥じながらも、自らの行動は人間の道理だと考え直す。だが、かといって近い人間の姿を想像してしまうとは思ってもなかった。そんなつもりではないのに、そんなつもりで見てしまっていたのかとはぐらかしながらも自問を繰り返し、否定すること数分間。経緯を思い出してしまい、冷めたはずの感情が再熱しだしてしまった。
違う。違わない。違う。違わない。――そんな自問自答は意味のないもので、且つ意味があるもので。悟りを開ききってしまいそうだ。
「……水、」
掠れた声は、水音にかき消された。
古典的な誤魔化し方だと思う。そうしなければならない理由があるので、これは仕方がないことなのだと思考に蓋をする。そのまま思考の海に投げ入れれば、ゆっくりであろうとも沈んでいくだろう。二度と浮き上がらないように錘でも付けておくべきだっただろうか。いやでも私自身が自制を意識していたら、もう浮き上がることはないだろう。
風呂場から脱衣所。脱衣所から台所へ。いつものルーティンワークでコップ一杯の水を体内に入れ、覚醒した頭で仕事部屋へと向かう。気を紛らわすのなら、別のところへ気を持っていけば良いだけ。
パソコンを起動し、私は締め切りが迫っているわけでもない、むしろまだ次の締め切りが決まっているわけでもない仕事に取り組むのだった。
その甲斐あって、進捗はどうかの確認電話の際にもう出来ていることを告げれば、言葉の詰まった高杉さんの声が聞こえる。少しだけ、ほんの少しだけ上に立てた気分になり、心が跳ねた。
『まだ、締切日の話、してませんよね?』
「気分がノッていたので。続きの提出送りますけど」
『……わかりました。大丈夫そうなら、送って下さい。確認ですが、無理はしていないんですよね?』
声越しに聴こえるのはオフィス内の喧騒。敬語を崩さずに話す高杉さんはなんだか新鮮に感じた。
「無理はしてないけれど、読者さんからの反応は気になってる。かな、と」
『雑誌がまだ発売になっていないので難しいところですが、ペンネーム先生の名前もあることですし自ずと分かるかと思います。ただ、こちらでは評判良いですし、身内評価にはなりますが、前にも言った通り自信を持って良いですよ』
「そうですね。うん、待ちます。……あ、でも、ちょっと行き詰まりそうで、また、会ってもらっても、良い……ですかね?」
しまった、と思ったときにはもう遅い。私は何を言っているのだとすぐに訂正するが、高杉さんは乗り気で打ち合わせ日の調整に会話内容が発展していく。別に打ち合わせなのだ。そう、打ち合わせだ。高杉さんとはただの仕事仲間なのだから、会うことに何も問題は無い。大丈夫、おかしいことは何もない。
『でしたら、今の継続連載の締め切り後にしましょうか。それ次第ですが日程送ります』
「ありがとうございます。じゃあ、また」
『お疲れ様です。失礼します』
通話が切れた直後、スマホをベッドに投げた。そしてその場でしゃがみ込む。やはり錘を付けておくべきだったのだ。空気のように水中を漂いながら浮き上がるそれは、あの頃に忘れてしまいたかった感情だと。再確認してしまった。
耳元で聴こえる声がこそばゆい。仮の名前だったとしても、呼ばれることが嬉しいなんて、まだ年端のいかない子供の感情。大した経験があったら流せるのだろうが、私にそれは無理だと知った。それならば対策を立てなければならないと、頭を両手で掻きむしる。
大人の付き合いで、大人の対応。それなりの会話と、それなりの立場。分け隔てなく接して、特別ではないように話を続けれるように。
「……しんど、」
火照った意識はそのまま身体をベッドへと誘っていく。今日は何もしないでおこう。起きてからデータを送ろう。寝ているときくらいは全てから開放されていたい。
瞼はゆっくりと下りていった。
――朱く、赤い夕日。この世の終わりかと錯覚するように辺りを真っ赤に染め出した時、私の目も真っ赤に染まっている。
友人達から持て囃された私は、他校との交流会へ参加している際に後押しをされたこともあり、最後の思い出にと想い人へと気持ちを伝え玉砕した。断り文句は単純明快に、友人の内の一人と付き合っているからだと。知っていると思ったとも言われた。
持て囃してきた友人は全員その事実を知りながら、悪いドッキリを仕掛けるつもりだったらしい。自分は乗り気ではなかった、と言い訳を繰り替えす先程までの想い人には無理に笑顔を作って大丈夫だよと一言。先に帰っていく背中が見えなくなるまで笑顔を貼り付けたままで、姿が見えなくなってから素に戻る。
悪いイタズラにひっかかってしまっただけだと。これを高校生活の思い出にしてはいけないと。明日からはまた明るいキャラクターを演じれば、誰も気づかないだろうと。……だから。
「なんかあったのか?」
「え、いや。何も」
「あっそ」
「君だって、なんか泣きそうだけど」
「欠伸だ。欠伸」
いきなり現れた少年のおかげで、私の涙は引っ込んでった。他校の学生が自分の高校へ足を踏み入れていることに、何も疑問を抱かないこの少年は同い年なのか、それとも年下なのか。いや、そんな事はどうでも良かった。この泣きそうな少年が自分の代わりに泣いてくれているようで、少なからず私は感謝しているのだから。
この気持ちを伝えようと、スカートのポケットからハンカチを出して少年に渡す。
「君が見ているモノが、全てではないよ。ゆっくり大人になりな、少年」
「……歳変わんねェだろ」
「そこは気にしないで。じゃあね、元気だしなよ」
「おめーの方こそ」
「そだね。うん。明日からも元気に頑張りましょう。今日のことはお互い忘れて、嘘つきパレードだ」
「ハッ、意味解かんねェ」
「わからなくていいの。歳を重ねたら泣けなくなるんだからさ。ハンカチは捨てていいよ。それじゃあね。元気で生きろよー」
おかしい対応で態度だったけれど、その時は目の前の少年が笑ってくれたのが自分の中で一番嬉しかったのだ。自分も泣きたい気分だったのに、貼り付けた笑顔で道化師の真似事をしていたのに。少しだけ、ほんの少しだけ、彼と会えて私は気持ちが楽になっていた。
名前も知らない他校の生徒に元気づけられたし、彼に話した通り今日のことは忘れよう。
卒業までもう少しだし、大学では新しい人間関係を構築して楽しく過ごせばそれでいいから。――さようなら。
(2020/08/10)
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