デッド・ラインを越えるまでに、
一応、私は大人だ。成人女性だ。年齢もまぁまぁいってしまったわけだし、そろそろ厄年の心配もしなければいけない年齢だ。そんな私がこんなにも欲情に駆り立てられるなんて、女は三十以降に性欲が強くなる、という話は本当だったのではないかと勘違いしてしまう程に、私の頭の中はそれこそ小説内で生きる主人公たちのように情慾に塗れていた。
人間の想像力というものは流石なもんで、自分の手でも彼の手と思い込み、近くに居るはずがないのに耳に囁かれているような声が聴こえてくる。右脳が発達し過ぎているのか、それとも幻聴や幻覚を伴っているから精神障害の一部なのか。
一度現実に引き戻されれば、早い呼吸の中に見え隠れする虚無感。それに抱かれながら後処理をする敗北感。どこにもぶつけれない感情も、お湯と一緒に排水溝へと流れていってしまえばいいのになんてバカバカしい考えを浮かべては消し、十代のような甘酸っぱい感情も二十代前半のようなカフェ・オ・レみたいなほろ苦い感情も忘れてしまった心を叱咤して、自身の全てを整理する。
感情も、思考も、言動も、全て。整理して引き出しの中へと収納していけば、全てが楽になるのだ。
楽なスウェット姿に着替えると、自ずと頭が冴えてきてしまった。コップ一杯の水を一気に飲み干す。徹夜で仕事をして夜明け前に脱稿したはずなのに、眠気は一切無い。まぁ、目を醒めることをしたのだから当たり前なのだが、それはそれ、だ。
今日はゆっくりとマスターのお店でモーニングと洒落こもうか。ここ半年程は短編の締め切りや文庫にする為の再校が続いて家から出れなかったし、久し振りの休息を楽しみたい。スケジュールはまだ出ていないけれど、最近の修羅場を乗り切ったのだから暫くはゆっくり出来るだろう。
喫茶店が開くまであと数時間。気持ちがリラックス出来たのか、急に襲ってくる眠気。抗うこともせずに、私はベッドへと腰を下ろす。
そのまま上半身を沈め、スマホで喫茶店の開店時間にアラームを設定して微睡みの中へと飛び込むのだった。
まとまった睡眠時間の確保が出来ていなかったわけなので、そりゃそうだ、とスマホ画面を見て納得してしまった。
時刻は十時前。モーニングが終了するのは十時。急いで準備をすればなんとか間に合うかもしれない、とベッドから飛び起き、どうしていつもなら起きるはずのアラームで起きれなかったのだと意味の無い自問自答を繰り返しながらジーパンとTシャツというなんともラフな服装に身を包んだ。
ネタを思い付いたら書き留めておきたい性分なので、薄型のノートパソコンとメモ帳、ペンは忘れずに鞄に入れ、財布とスマホはお尻のポケットへ。適当な薄手のカーディガンを羽織り、そのポケットに家の鍵を入れた。
走っても大丈夫そうなスニーカーを履いて、いざ、外へ。
マンションから外へと飛び出たら広々とした青空が私を迎え入れ、全身で日光浴を楽しみつつ、なるべく信号に引っかからないようにと喫茶店へ向かえば、モーニングの終わる一分前。
少し必死な表情をしていたのかもしれない私を見るなり、マスターは笑いを堪えながらいらっしゃいと言ってくれた。
「久し振りだね。お仕事忙しかった?」
「まぁ、ちょっとだけ。モーニング、間に合います?」
「ギリギリセーフだよ。空いてる席に座ってね」
「はーい」
人と会話するのは、ネットショップで購入した生活用品を届けてくれる宅配のお兄さん振りかもしれない会話に少しドギマギとしながら、いつもの席へ、と視線を向ける。
カウンターからは見えるが出入り口からは死角となっているお気に入りの席へと足を進めると、近付いたら見えてくる椅子に鞄が置いてあり、既に先約が居たらしい。こればかりは運なので仕方ないのだが、気になって足が進んでしまう。他のテーブル席も空いているのに、どんな物好きがこのテーブル席に座っているんだ。
――と、一歩一歩動かした足を後悔してしまった。
「え……っと、おはようございます……?」
「……おはよう、ございます」
私のお気に入り席には、暫く会っていない、強いて言うなら連絡は全てメールや文面となっていた、高杉さんの姿があった。
咄嗟に挨拶をしたものの、体が固まってしまう。テーブルにはこの喫茶店のモーニングメニューが少し減った状態で置かれており、高杉さんはそれを片手間に食べながらパソコンで仕事をしているようだ。ホットの飲み物から湯気は無く、冷えるまでの時間ここに座っていたのかもしれない。
視線が交わったままの沈黙が辛くて、言葉を紡いでみようと口を開く。
「こっ、ここの席、誰も座らなくて、死角なので、よく座ってましてっ……!」
「あぁ、はい。毎回このテーブルで打ち合わせしてるので、存じてます」
「そっ、そうですよねっ。あ、ははは、すみません。お邪魔して。じゃあ、私は別のテーブルに行きますので」
「四人掛けですし、折角なので。どうぞ。鞄、退かしますね」
まさかの展開が相次いでいて戸惑いが隠せない。これはもう少し寝ているべきだったかもしれない。むしろ、どうしてモーニングに固執してしまったのだと、数分前の自分に問い掛けようにもそれは今の自分なので答えは出てくれずに堂々巡り。
失礼します、と対面は流石にどうかと思ったので斜めで座れば、私を一瞥した高杉さんは一言、普段はそういう服装なのか、と言ってきた。
――……境界線が、ブレそう、だ。
折角引いた線を飛び越えてしまいそうになって、深呼吸を繰り返し、それでも視線を反らせず、私は高杉さんに釘付けになってしまった。
マスターが居るからか、それとも彼自身も私と遭遇するなんて思ってもなかったのか、定かではないけれど。打ち合わせ中よりも、むしろその以前からの記憶と比べてみても、敬語よりも丁寧過ぎるほどに話すので、それに釣られて私の口調もお硬いものへとなっていく。
私のモーニングが運ばれて来るのと入れ替えに、高杉さんの空になったモーニングプレートが下げられる。鼻腔をくすぐる卵焼きやソーセージ、そして食パンの香ばしい薫りはコーヒーとよく合うものだ。
一応、自分一人ではないので食事の挨拶もそこそこに、なんて事はせず、しっかりと食材になった命達に感謝をしてからなるべくがっつくことはせず、ゆっくりと口に運んでいった。――嗚呼、幸せだ。
私の斜め前では薄型ノートパソコンとにらみ合う高杉さんが居るわけなのだが、一々気にしていたら仕事の邪魔になるかもしれないのでなるべく視界に入れずに黙々と食を進め事にした。
「……ご馳走様でした」
時間にして数十分くらいだろうか。シャキシャキとしたサラダも平らげ、お腹も心も幸せになった私が手を合わせて至福のひとときに浸って瞼を閉じ、そして開けると、こちらを見ていたらしい高杉さんと目が合った。見られてしまった恥ずかしさもあるのだが、何故、という疑問が強く目を見開いてしまう。
高杉さんは私の何にツボったのか理解出来ないが、顔を横に反らして笑いを堪えるように、且つ普段人間がしないような妖艶さを放ちながら喉で笑った。
「あ、の……? 何か……?」
「……いや、とても幸せそうに食べられてたので」
原稿明けで何も食べていなかったのかと思いました。――と、続けて言われた。
勘なのかもしれないのだけれど、高杉さんがこういう言い方をする時は、人をからかっている時なのだと察した。
「締め切りギリギリだったらたまにありますけど、基本的には無いですよ。この喫茶店のモーニングが美味しいので。仕方ないんです」
少しムキになった態度だったかもしれない。けれど、そっちがその気なら、という女心である。うん、これも仕方がないものだと割りきろう。
「ペンネーム先生のそういう所、気に入ってますよ」
こうやって境界線を簡単に越えてくるのだから。だから年下は怖いんだ。
(2021/02/10)
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