同棲、九十八日目。
あたしの進路の為だけに一時帰国した両親は、二日後には慌ただしく日本を発って行った。バイト姿が見たかったなんて言われても、シフトの日じゃなかったのでそこはどうにも出来ないとはぐらかす。
親に職場を見られるなんて、絶対に嫌だから急遽休みにしてもらったのは内緒だ。
先生から12月にある三者面談の日取りを聞いた母さんは、その日の前日に一人で帰国する事を約束してくれる。父さんの娘オンリーラブコールを聞くことがないと考えれば、それだけでも肩の荷が下りた。
あたしも先生も学校と仕事があるので見送りは出来なかったが、また12月に、と書かれたメールが昼過ぎに届いたので、無事に日本を発てたようだった。
次は邪魔者である父さんも居ないし、母さんと女子会ついでに神威さんを紹介しよう。多分、母さん好みだと思う。あ、接客態度のみ話だけれど。外見は父さんよりもカッコイイので、浮気しないかだけ心配だなぁ。……いや、無いか。母さんはいつまで経っても父さんにゾッコンのようだし。
さて。それまでに片付けなきゃいけない問題を片付けよう。
机に鎮座する、分厚い本。いや、資料とでも言うべきだろうか。表紙には、銀魂大学にご入学を考えている皆さんへ、と印刷されていた。
先生からは文系学部を薦められたけれど、とりあえずどんな学部があるのかを調べてみようと思った。何も知らずに志望していたなんて、ほんと自分には笑える。
「う、わ。多っ」
流石はマンモス大学とでもいうのだろうか、学部もそれに連なる学科も数がある。これを今から読むのか……と絶望感に襲われ、表紙を開いて目次が出てきただけなのに、そっと本を閉じた。
――また今度読もっと!
机の上にある時計を確認。よぉし、もう寝る時間だ! 気持ちを切り替えて、部屋の電気を消したあたしは、すぐに布団へ潜り込んだのだった。
「お前、読んでねェだろ」
翌日の土曜日。昼シフトのバイトが終わって夕飯は何を作ろうかなぁ、なんて意気揚々と帰宅すれば。昨日開いてすぐに閉じた本が、ダイニングテーブルに置かれていた。
置いた犯人なんて誰か分かっているし、どうしてそういう事をしたのかも理解できてしまうから辛い。
あたしよりもひと足早く学校から帰ってきていたらしいご立腹の先生は、着の身着のままのスーツ姿で椅子に座っていた。
「な、なななな、なんで読んでないって分かるんですか…!?」
「こんだけ分厚いんだ。捲って読んだなら跡がつくだろうが」
「あー。……てへぺろコツーン」
「あ゛?」
父さん直伝の技は、やっぱり効果がなかった。
対面に座らされ、目の前で本を読むことを促される。こういうのを、運命っていうのね。
ページを捲れば、ズラズラと並べられた学部と学科の目次。細かい文字を見るだけで頭がクラクラしてくる。
「全部は見なくていい。気になる名前の学部か学科をマークつけてみろ」
蛍光ペンがテーブル上をコロコロと転がってくる。先生の胸ポケットに入っていたものだとすぐに理解出来た。
ピンク色なんて、似つかわしくないなぁ。そう思って受け取ると、先生から思ったことを当てられてしまい、精一杯取り繕った。
「気になる名前……気になる名前……気になる名前ぇ……」
「脳みそがオーバーヒートしそうになってるぞ」
「いや、文字が細かくて。頭が回ってくれないです」
「……そこまで馬鹿だったか」
「違いますー。なんか、こう、気になるってどういう事なのかなって…」
「そこからか」
溜め息を吐かれた。これは呆れられたなぁ、なんて他人事に感じてしまった。
でも、先生の言う気になる名前の学部とか学科って、どういう意味なのだろう、と。そう考えてしまったら、そこから思考が離れなくて、目を滑らせながら目次を見ることしか出来ないのだ。うん、仕方ないよね。もっと目次のデザインを変えたほうが良いよ。
「気になるっつーのは、この学部は何を学ぶんだっつー疑問だ。人によってはこの学部、学科で学んだことで将来就ける職業に疑問を持つ奴も居るだろォな」
「……先生が、先生っぽい事言ってる」
「これでも養護教諭免許の他に教員免許も持ってんだ。当たり前だろガキ」
いや、初耳。ソレは初耳ですよ先生。どんだけパーフェクトなんだ。というか、先生ってどんだけ頭が良いんだ。そういう資格って難しいんじゃなかったっけ? 国家試験? じゃなかったっけ?
先生って頭良いんですね、と言えば、当たり前だろ、とまた言われてしまった。
「目が滑るなら方向を変えて考えてみろ。おめー自身が疑問に思う項目を探せ」
「えー…そう言われても……」
再度、先生に言われたことを念頭に置いて、目次を見てみる。そんな疑問なんて、簡単に出てくるわけがないのになぁ。
なんか、最近の先生ってあたしの成績や進路に関して毒舌すぎないか? 厳しすぎると言うか、切羽詰まっている感じに受け止めてしまう。
まぁ、親戚の娘の面倒を見ているのだし、この場に両親が居ないからその代役を買って出ているのか、と無理に自分を納得させることにしよう。
「――あ、」
「なんだ」
何本目かの煙草に火を点けた先生がこちらを見てくるが、あたしは一箇所、気になる、を見つけてしまった。
「この、人文学部って、なんですか?」
「……その名前の通りだ」
先生の言葉が、少し歯切れの悪いものへと変わった。――そして、察してしまう。この学部は、多分、先生の先生が関係しているんだ、と。
「気になるなら、その詳細を見てみろ」
「はーい」
先生が動揺したのなら、それに気付かないフリをしよう。多分、先生自身の整理がついたら、いつか話してくれるだろう。
本をバラッと開いて、お目当てのページにたどり着く。一言で言えば、人間に関するあらゆる分野を勉強する学部、らしい。
こりゃ、ややこしい学部を気になる認定しちまったな!
「どうだ? 気になるは、続いてるか?」
先生にはなんだか悪い気がしたけど、あたしは人文学部のページを食い入るように読んで、そして、頷いた。
学科数も多いけれど、詳細を読んでみれば気になるが膨れ上がっていく。これが、先生の言う気になる、なのか。
「この学部で、勉強したいです」
そうすれば、先生の先生へ繋がる足掛かりにもなるかもしれない、とは言わなかった。
言ってはいけない気がする。ここの学部を受験したいと思うのは、あくまでも、あたしの我侭なのだから。
人文学部のページに折り込みを入れて、いつでも確認できるようにする。これで、目標が決まった。
しかしながら、先生が教員免許も持っていたなんてびっくりだなぁ、と思いながら夕飯の準備に取り掛かるために立ち上がる。
「先生って保健医の免許の他に、なんの教員免許持ってるんですか?」
「知ってどうすんだよ」
「いや、なんか気になっちゃって」
黙り込んで煙草の火を消す先生は、言おうかどうか悩んでいるようだ。珍しい姿が見れただけでもういいか、なんて思ってしまう。
なんでもポーカーフェイスで済ます先生の悩む姿なんて滅多に見れないし、からかっているつもりはなくただのふとした疑問だったのだけれど。ちょっと面白くも感じる。
いつもはからかわれてばっかりなので、これは一矢報いたのではないか?
「……、だ」
「え?」
「…小学校教員免許、だ」
「え、…え!? は、働いたことは…?」
「あるに決まってんだろ。実習もしてるぞ」
半ば苛立ちながら言う先生の表情は、どう見てもふてくされていた。
想像してみる。小学校に居る先生、小学生に対して挨拶している先生。――駄目だ、笑いが。
「てめーが聞いてきたんだろォが」
「い、いや、っ、ご、ごめ…ふっ、はは、…だめ、笑いがっ、あははははっ」
我慢できなかった。漏れ出す笑いが止まらない。
笑ってしまって本当に申し訳ないのだが、どうして小学校の先生の免許をとったのだろうか。追加される疑問をまた先生に問いかければ、クソッ、と悪態づいて煙草に火を点けた。
「……お前、本当に昔の事、覚えてねェんだな」
いきなりの話題転換。攻守交代、今度はあたしが先生に責められる番のようだ。
かと言って、昔の事なんて、本当に覚えていないのだから仕方がない。確か、河上先生にも同じような事を聞かれた気がする。
昔とは、具体的にいくつ頃の事を言っているのだろうか。親戚の集まりとかで一回くらい会ったことがあるのかもしれないが、あたしは物心ついた時からこの家に住んでいると記憶しているので、地元が東京都外の親戚の家に行くなんて……うーん、やっぱり覚えていないし記憶にない。
先生達の記憶に出てくる女の子は、果たして本当にあたしだったのだろうか。偶然地元が同じだった、あの女教師じゃないのか? なんて疑問が浮かんでは消える。
包丁を持ちながら考えるのはやめよう。手を切りそうだ。
「覚えてなきゃそれで構わねーよ」
先生は少しだけ寂しそうに、そう言った。
(2019/09/06)