同棲、百七日目。
初めまして。と軽い挨拶を交わした後、注文を受け取った神威さんは颯爽と厨房へ戻って行った。
その姿を見送った母さんが一言。かっこいいわね、と言った。
「かっこいい……まぁ、神威さん、普通にかっこいいよね」
「お母さんももう少し若かったらなぁ」
「父さん選ばなかった?」
「そうねぇ、その時にならないと分からないかも」
確かにそうか。母さんと父さんは、何かしらの出会いがあって結婚したのだから、そこに神威さんという存在が無ければどうなっていたかなんて分からないのも当たり前か。
名前ちゃんもでしょ? と今度は逆に問い掛けられ、変な声が出てしまった。
「もし、晋助くんよりも店長さんと先に知り合ってたら――どうだった?」
「んー……。想像できないかも。でも神威さんとは先生の事好きになる前に知り合ったし、んんん、多分、ちょっとは惹かれてた、かも?」
「あらー。それ晋助くんには言えないわねー」
「言っちゃ駄目だからね!? 意外と、その、」
「楽しそうだね? 俺も混ざって良い話かな?」
バラエティなどでよく見る、ご本人ご登場、だ。あたしと母さんの飲み物、そしてケーキやマカロンが乗せられた三段のオシャレなケーキスタンドを持って来た神威さんの笑顔は、営業用のスマイルに感じられる。
こちらは店長からのサービスです。という言葉に、店長って神威さんじゃん、と軽くツッコミを入れれば、バレた? と舌を軽く出す子供っぽい表情に、昼メインで来店する常連のマダム達はやられてるんだろうなぁ、なんて他人事のように思った。
「こんなに沢山、良いのかしら?」
「はい。いつも名前ちゃんには頑張ってもらってますので」
「あらあら、それは悪いわ。その頑張り分のお給料は戴いてるのだし、こちらで支払わせて下さいね」
母さんの言っていることは尤もなので、神威さんはうーんと首を傾げ、好意でやっていることだから…と悩み始めた。
実際、母さんに会うのを楽しみにしていたようだからどうもてなそうかと悩んでいたのは事実なわけだし、ケーキスタンドに乗っているケーキやマカロンはお店で売っていないものばかりだ。多分今日の為に新作の試作も兼ねて考えていたんだと思う。
どうやって助け舟を出そうか。なんて悩んでいたら、何かを思い付いたように神威さんがあたしに目配せをしてきた。
「名前ちゃん、ほら、今日アレ持って来てる?」
「アレ…? あっ、アレ! あります、あります!!」
一瞬ピンと来なかったが、すぐに思い出す。
神威さんの言うアレの存在は、あたしのスクールバッグの中にある、財布内に使わず終いで収納されていた。
それをすぐさま取り出せば、母さんはその小さなカードを不思議に見ていた。
「これ、俺から常連でもある名前ちゃんにプレゼントしたんですよ」
「そうなの?」
「うん。あんまり使ってなかったけどね」
「それなら……使わないと勿体無いわね?」
「そうですよね。では、お会計時にこちらを適用させて頂きますので」
これなら母さんも納得したようで、あたしは自慢げに80%無料と書かれたカードを財布に戻した。
この割引券を貰ったのはいつだったか。確か、去年の夏だったような気がする。
神威さんと阿伏兎さんが必死に考えて作ったケーキを、材料代のみで買わせてもらうのなんて申し訳なかったし、使った記憶と言えば神楽に奢った時とかだろうか。無尽蔵の胃袋をしているから、ゼロの桁が一つ多くなった時は流石に使わせてもらった。
今回は母さんの関係もあって80%どころかほぼ無料の会計にしそうだけど、そこは黙って好意として受け取っておこう。
「そういえば、お母さんは名前ちゃんの働いている姿を見たことは?」
「それが無いのよ。この子ったら、私やお父さんが帰国する時になるとシフトが休みだって言ってねぇ」
「確かにそうですね。休みを変えて欲しいって連絡が来ます」
「そうでしょう? ご迷惑を掛けてすみませんね」
「いえいえ、店としてはもう一人バイトの子が居るので大丈夫なのですが……」
嫌な流れを察知した。お皿に乗ったチョコレートケーキを食べ終え、そそくさとお手洗いに立とうとする。が、それは神威さんのたまぁに阿伏兎さんに見せる高圧的な笑顔で阻止されてしまう。
「今、もう一人の子はテスト期間なので休みなんですよ。受験生の名前ちゃんには悪いかと思ってるんだけど……」
「そんな、気にされなくて良いんですよ? 今日の面談でもこのままの成績だったら合格するってお話でしたし」
「だってさ? 名前ちゃん?」
「拒否権は――無いですよねー。そうですよねー」
フラグ回避ならず。
笑顔の母さんに見送られて、スタッフルームへと引き摺られていく。
神威さんから、少しだけでいいからよろしくね? と茶目っ気たっぷりに言われてしまえば仕方がない。母さんも見たがっていたし、親孝行も兼ねつつケーキセット分は働かせてもらおう。
――母さんのミーハーな声を、初めて聞いた気がした。
着替えてフロアに出ればすぐに写真を撮られ、より一層ニコニコした顔で働く姿を見られるのはなんともやりにくい。
神威さんから聞いたのかその光景を見る為だけに厨房から顔を出した阿伏兎さんにも茶化され、熱々ティーポットを顔面に投げ付けてやろうかという衝動は、あたしをこの状況に追い込んだ張本人の手によって制裁が下されたので抑えつけることに成功した。
おやつ時でもあり学校帰りの生徒が利用する夕方のピークが終わるまで働かされたのだが、その間の母さんはティーカップを口に運んだりと優雅さを醸し出していて、窓際のテーブル席が少しだけ空間が違って見えていたのは気のせいじゃないはず。
父さんはともかく、母さん自身は通訳の仕事をしていたらしいし礼儀がしっかりしている。そりゃあ、優雅に見えるはずだ。まだ四十代前半だもの。所作が綺麗な人は、いつまでも若く見えるのだと感じた。
やっと開放されたので制服に着替えてからテーブルに戻ってみれば、見せられたのはスマホのSNS画面。父さんとのメッセージ欄だった。
「なんで写真送ってるの…」
「だって、お父さんも見たがっていたんだもの。ほら、羨ましいですって。今度はお父さんに見せなきゃね?」
「やだよー。親が職場に見学に来るとか、恥ずかしすぎる」
「良いじゃないの。自分の子供が社会人になる前の親の特権なのよ」
「そんな特権要らねぇ」
親の存在があったら気になって仕事に集中出来ないじゃないか。むしろ、今の母さんだけでも気になってしまったから、父さんも居たら騒がしいに決まってる。
父さんの同伴は丁重にお断りして、あたしも飲みかけだったもう冷えてしまった紅茶を一飲み。冷えても美味しい紅茶を作れる神威さんは本当にすごいと再確認。
そろそろ出よっか。夕飯作らないと。――そう言えば、今日は母さんが作ってくれるらしい。久し振りに食べる母親の手料理というのは、こんなにも心が踊るものなのか。というくらいに子供らしい、やったー! という声を出してしまった。少し恥ずかしい。
会計をするためにレジへ向かえば、神威さんがニコニコとした笑顔でお礼を言ってくれた。
「お代は要りませんよ。折角の母娘水入らずの所、名前ちゃんを働かせてしまいましたし。その分で相殺されてます」
「あらあら、それはそれで申し訳ないわ」
「神威さん、あたしの給料から天引きで大丈夫です。母さん放置しちゃったし。母さんも、それで良いでしょ?」
「そう? 良いのかしら」
「はい、大丈夫ですよ。今度はご家族で、是非ご来店頂ければと。勿論、名前ちゃんがシフト休みの時に」
「ありがとうございます。ご馳走様でした。次は夫も連れてきますね」
「心より、お待ちしております」
神威さんに見送られてドアを潜る……前に、一礼していた神威さんに一言忘れていたので、あたしは振り返って耳打ちする。
「本当にお給料から引いていて下さいね? じゃないと、母さん気にしちゃうので」
「80%引き、でね?」
「それはあたしが気にしちゃうのですが…」
「良いんだよ。また次、来てくれるのを待ってるから。あと、シフト提出が今週までだから、忘れないでね」
「はーい! じゃあ、神威さん、阿伏兎さん、ご馳走様でしたー!」
「気をつけて帰ってねー」
先に喫茶店を出ていた母さんに待たせた謝罪を言えば、気にしないで、の一言。
家までの帰路は、喫茶店の話で持ちきりだった。やっぱり母さんの好みだったらしい神威さんの話がほとんどだったけれど、話の節々を受け取るに父さんと来る事は無さそうだ。
「だって、お父さんが嫉妬しちゃうでしょ? だから、またお店で女子会しましょうね」
確かに、そうかもしれない。母さん至上主義な父さんからすると、神威さんの事を敵視してしまう可能性はある。しかも、溺愛する娘のバイト先で店長をしているのだから、かなり関わってくるわけで。
「女の子っていうのは、一つや二つ秘密を持っておかないとね」
「そうなの?」
「そうよ。追うより追われなくちゃ。でもね、それもこう、手のひらの上でコロコロとさせるように、男性の手綱は女性が握らなきゃいけないのよ」
そう言う母さんは、父さんを惚れさせた魔性の女なのだと悟った。
(2019/11/09)