同棲、百八日目。
――母さんとの母子水入らずの時間はまだ続く。と言っても、先生が帰宅するまでの少ない時間なのだが、今日の夕飯の買い物をして、二人で帰宅してからのまったりとした時間を過ごすのは悪くない。むしろいろんな話が聞けて楽しい。
父さんと一緒に渡米するまでは母さんと二人で居れる時間なんてほぼ無かったようにも感じるし、中学まではよく外で遊んでた記憶しかない。高校に入ってからも妙や神楽と知り合って楽しい日々を過ごしていたからか、家が嫌いなわけではなかったけど二人で話す、というのは良くも悪くも無かったなぁ、と思い返してみる。……うん、無いな。大体、父さんが居たな。
母さんが好き過ぎるのか、いつまで経っても母さんにべったりな父さんだからか、そこに違和感なんて感じなかったのだけれど、他の家庭だとどうなんだろうか。娘の相談事は母親に話す、なんて家族のあれこれ特集みたいにバラエティ番組で一般家庭? の話があったけれど、特に相談事なんてしたこと無かったし、まぁあたし自体が良くも悪くも手間のかからない子供だったのかもしれない。成績面以外は。
それでも、やっぱり、恋愛相談は同性の方が良いものだ。父さんに先生の話なんて出来ない。出来るはずがない。あたしが恥ずかしいと言うよりも、父さんの先生に対する対応と言うか。認めてくれているものの、今後態度が変わりそうで怖い。あたしや母さんには普通でも、同性として先生を敵視しそうな気がしてしまう。
まぁ、あたしの取り越し苦労かもしれないし、もしそうなったとしても先生なら父さんの気を害さない程度にあしらってくれる気はした。
「母さんってさ、」
「なぁに?」
「父さんと付き合ってる時って、相談事とか、誰かにしてた?」
「そうねぇ……友達が多かったかしら。でも結局、皆女の子だから、男の人の気持ちって分からないのよね。ただの女子会になってたのよ」
「うんうん。それは凄く解る」
「だから、直接お父さんに言ってたわね」
「直接言ってたの!?」
「そうよー」
思わず、ジャガイモをむいていたピーラーをシンクに落としそうになった。
圧力鍋で野菜を煮込む母さんの表情を見れば、微笑みを浮かべたままだ。当時のことを思い出しているようで、笑いながらお玉杓子をお鍋の中でくるくると回している。
「その時、父さんなんて言ってた?」
「目を丸くさせて驚いてたわね。私が直接言てくるなんて、思ってなかったみたい」
「娘のあたしもびっくりだよ」
「お母さんだって、言う時は言うのよ?」
「そして父さんは母さんに惚れ直したのか…」
「そうね、惚れ直したって言ってたわ。直接言ってくるのは信頼できるって」
信頼しているからこそなんでも話せるようにならなければならない、とはあたしも思う。
そう考えれば、あたしと先生の関係はどうだろう。なんでも話せるという関係になれているだろうか。多分だけれどそこまで到るにはあたしの年齢もあるし、先生との年齢差も関係してそうだ。所詮、傍から見れば子供と大人、教師と生徒。その関係性を進展させるには、やっぱりあたしが成人しないと難しいのかもしれない。いや、――成人したとして、大した変化は無い可能性もある事はどうしようもない気もする。
その事を母さんに話せば、今度は楽しそうにふふっと笑った。
「名前ちゃんが今から気にしてどうするの」
笑い混じりに言う母さんの表情は笑顔のままだけど、あたしの問い掛けに答える為、うーん、と頭を傾ける。
「今は甘えていいと思うの。大人になっていくとね、簡単に甘えられないのよ。だから、名前ちゃんは名前ちゃんが思っている事を、ちゃんと晋助くんに伝えなきゃ駄目よ? 今のうちに思っている事を吐き出して、見定めておきましょう」
「み、見定めるって…」
「男の人の本性を見るにはうってつけの方法だと思うわよ。相手があの晋助くんなら、尚の事ね」
「え、えー……そうなの……?」
そうよ、と微笑む母さんは、なんだか子供っぽく見えた。いや、どちらかと言えばおっとりしている雰囲気を醸し出しているし、子供っぽいと言うよりかは、天然と表現したほうが良いのだろうか。んんん、表現って難しい。
「名前ちゃんは気にし過ぎなのよね。母さんみたいに、バンバンぶつけちゃいなさい」
「お、おういえ……」
「晋助くんの事だから、きっと、受け止めてくれるわよ」
「かなぁ…」
「多分ね」
「うわぁ、もし違った時の言い逃れされてる感じがする」
「そう?」
ふふふ、と笑う母さんは楽しそうだ。
沸騰した圧力鍋に切ったじゃが芋を投入。ぐつぐつと音を立てる鍋をお玉杓子で回す姿は、さながら魔女みたいだ。手慣れているのは主婦歴が長いからだろう。
あたしも母さんみたいに料理が上手くなれたら良いのに。そう呟けば、また母さんは笑った。
「そうね。それも良い手ね」
「そうなのか…」
「昔から言うでしょ? 心臓を手に入れたいなら、胃袋を鷲掴みにしなさいって」
「そんな諺あったっけ!?」
「今考えたの」
「でしょうね!」
母さんの冗談はよくわからない。それを再確認した。
「という事で、言いたいことがあります」
「どういう事でだ」
楽しい――かどうかはわからないけど、母さんは楽しそうにしていた夕飯を食べ終わり、晩酌の準備をしつつ、母さんがお風呂へ向かったタイミングで、ソファーでくつろぐ先生に話を振ってみる。
案の定、怪訝な表情をされてしまったが、いつも通りなので気にしない。
缶ビールとグラスを持っていき、先生の隣に座れば、吸っていた煙草の火を灰皿に押し付けて消してくれた。
「藪から棒だな」
「ですかね?」
「おめーがそういう時はなんかあったんだろ」
「いや、何かあったというか……ちょっとですね、母さんと話してて。先生のこと」
「俺の事ねェ…」
「そうなのです」
片手で器用にプルタブを開けて、グラスにビールを注いだ先生と視線は合わない。でも、不思議と嫌ではなかった。
「で? 何が言いてェんだ?」
「えと、んー……あたしは、その、先生の隣に居ても良いのだろうか、とか。ちゃんと聞かなきゃいけないと、思いまして」
「あ?」
「いや、だからですね? 先生とは、一応、恋人同士? じゃないですか」
「そう思ってンなら疑問符にするな」
「だって、年齢差、的なものもありますし。たまに、本当にたまに、不安になるのですよ」
ビールを飲む先生の喉が鳴る。意識したことは無かったけど、男の人の喉仏って凄いな、と関係ない事を考えてしまった。
なんだろう、なんか、魅力的? と表現すれば良いのだろうか、扇情的、なのだろうか。やっぱり日本語は難しい。
「お遊びでガキを相手にするかよ」
「お遊びだから相手にするのでは?」
「ンな器用に見えるか?」
「少なくとも、銀八よりかは器用と思いますよ? だって、お遊びしてた人、多いじゃないですか」
そう言えば、先生は珍しく言い淀んだ。
これは、本当に珍しい。あの変態保健医という代名詞の高杉晋助先生が、バツが悪そうに顔を背けたのだから。
一矢報いたとか思っていないけど、なんだか勝ち誇れた気分になる。これは、畳み掛けても良いのかもしれない。
「先生は、あたしの事、ちゃんと好きでいてくれてます…?」
こんな質問をされるなんて、考えてなかったのだろうか。先生は顔を背けたままで、こちらを見てくれない。そんな表情をしているのか分からない。
あたしの目の前には先生の後頭部。暖房の風を受けてサラサラと流れる髪の毛は、羨ましいほどのキューティクルだ。
テレビから流れてくるニュースキャスターの人が淡々と、ニュースやら芸能人の報道を読み上げていく音声だけがリビングに響いている。この沈黙は少ししんどい。
いつもは茶化して、子供扱いしてくる。そうじゃなくて、ちゃんとした先生の気持ちを、言ってくれるだろうか。あたしが改めて聞いている意味を、汲んでくれているだろうか。
また、言われなくても理解しろみたいな形で言われるかもしれない。その場合は深く追求させてもらうのだけれど。
それよりも心配になるのが、先生が話してくれる前に母さんがリビングに戻ってくるかもしれない。そうなった場合は、母さんには空気を読んでもらってちょっと廊下で待っててもらいたい雰囲気を最大限に出そう。そしたら、多分、気付いてくれるはず。父さんは気付かなさそうだけれど、夕飯を作っている最中に話をしたのだから、きっと分かってくれるはず。大丈夫、母さんは天然だけど察しは良い方だと娘のあたしが思っているのだから、大丈夫だ。
大丈夫だとは思うけど、あたしも結構恥ずかしいのでなるはやでお答えいただけないですかね先生…!!
「……、」
「…………」
「………………あの、」
声を出してしまった。我慢できなかった。沈黙が耐えれなかった。思わず顔を伏せる。
もしかしたら最長記録で耐えたかもしれない。昔の事なんて思い出せないので、わからないのだけれど、まぁ耐えた方だと思っておこう。
顔を背けていた先生の手がゆっくりとグラスに伸び、またビールをごくりと飲んだ。その飲み込みと同時に、あたしも唾を飲み込んでしまう。
目線がテーブルに置いたグラスからテレビに移り、グラスに引っ付いていたはずの手がそのリモコンへと移動して、少し骨張った長い指が赤い電源ボタンを押した。
ニュースは終わり、いつの間にか始まっていたバラエティ番組に出演しているお笑い芸人のギャグが途中で消されてしまう。なんだか申し訳なく思った。
先生は何も言わないまま、煙草を一本口に咥えて、火を点け、吸って、白い息を吐く。その姿も、扇情的、だった。
ふわっと、頭上から煙草のにおいと手の平の暖かさを感じる。視線を上げれば、すぐに先生の顔が、あった。
「好きだ」
先生の眼に、引き込まれそうになって、体中が熱くなって、わけがわかんなくなって、もう、ぶわわわわわって、なった。
「…おっ、やす、みなさ、いっっ!」
反射的にソファーから立ち上がった。
先生の顔が見れなくて。このまま座っていたら、自分がおかしくなっちゃうみたいで。何も考えられなくて。
急いで自分の部屋に向かって。廊下ですれ違った母さんが何を言ったのかもわかんなくて。
ベッドに勢い良く寝転がって。枕に顔を埋めて。
「あああああああぁぁぁぁ……」
声が聞こえないように、変な声が出た。
あれは、反則、だ。
(2020/02/08)