同棲、百十日目。
幸せな気持ちは、長く続かないことを知っている。知っているけれど、この気持ちは今のあたしにとってモチベーションへの最大のアプローチとなっていた。
受験が成功すれば、先生と一緒に居れる可能性が増えるのだ。そりゃあもう、読んで字のごとく頑張るしか方法はない。
より一層、受験勉強に集中しだした生徒を不審に思った銀八も、なんだかんだと協力してくれているし、教科は関係ないけれど河上先生も空き時間に勉強を見てくれたりと、周りの環境が良かったのかもしれない。
期末テストが終わったと思えば、すぐに三年生最後の実力テストが始まるという怒涛のテスト期間を乗り越え、そして答案用紙が返却された今日、あたしは狂喜乱舞してしまった。
「そこー、うるさいぞー」
「あらやだ名前ったら。スカートの下に何も履いてないんだから気をつけないと」
「名前!! 落ち着け!! 見える!!」
「いくらなんでも、スキャンティーくらい名前は履いているだろうに」
「いいぞー、もっとやれー」
「銀ちゃんさっきと言ってること違うアル」
周りの声なんて聞かず、あたしは椅子に立って普段出さないような、神楽みたいな声を出してしまっていた。
全教科の得点が90点以上だなんて、小学校のテストから考えても無かった。そんなあたしが高得点を連発しているのだ。
これは騒がなければ損だと思う。
「……ふぅー」
「はい。名前が落ち着いたので今年最後のホームルームを始めますー」
気分が落ち着いたので椅子に座れば、頭をボリボリと掻きながら銀八が話し始める。そう、今日は今年最後のホームルームなのだ。
受験のためにひと足早く二学期が終わる三年生は、学業から開放されるのが早いのでとても嬉しい。
まぁ、年が明ければ受験戦争へと身を投じなければいけないので、戦場に赴く前に休暇を貰った兵士の気分なのかもしれないけれど。
「三年生の皆さん、今年一年お疲れ様でした。ってことで、一足先に受験して合格した奴も居ればセンター試験を受ける奴も居る。全員身を引き締めて年を越して下さい」
「先生! エリザベスがどこを受験したか教えてくれないのですがどうしたら良いですか!!?」
「プライバシーなのでお答えできませーん。……じゃあ、冬休みの宿題配るぞー」
前の席から回ってくる宿題という名の、受験対策プリント。各教科の教師がわかりやすく要点をまとめているらしいけれど、社会の服部先生は所々痔のコメントばかりで、あぁ、いつも通りなんだなぁと思った。
「つー事で、また来年。解散!」
いつも通りだけど、なんだか気合の入る掛け声だった。この掛け声が聞けるのは、あと何回なのだろうとか考えて感傷に浸るのはまだ早いと分かっているのだけれど、高校に入学したのがついこの間のような気がしてならない。
――先生との同居が始まって、そしてなんやかんやと関係が発展したのも。ついこの間のように感じる。
これが大人になるということなのか。なんて、らしくない。
妙や神楽達と一緒に帰るこの河川敷も、あと何回くらい一緒に帰れるのだろうとか考えていたら、前方を歩いていた二人がいきなり立ち止まり、こちらに振り返る。
「どうしたアルか?」
「いや、なんだか感慨深くなりまして」
「年が明けたら試験だものね。でもね、名前。大学受かったら、私達また一緒に通学できるのよ?」
「……あ、」
「また一緒にガッコ行こうネ!」
「その為に、勉強頑張らないと」
「うん…。うん、そうだね!」
そうだ。何人かは進路が違うけど、二人とは目指す大学が一緒だ。だから、これからも一緒に通学できるし、一緒に歩けるんだ。
そうとなったらより一層、センター試験に向けて取り組まなければならない。読んで字の如く死ぬ気で、挑まなければ。
それよりも、まずは、テストの結果を先生に見せよう。この頑張りのご褒美を貰っても、バチは当たらない。多分ね。
「どや!」
「本番でもこの点数が出たら文句はあるめーよ」
「ぐぅの音も出ません…」
「残りの約一ヶ月。やるだけのことはやってからにしろ」
「はーい」
褒めているのか、それとも貶されているのか。全くわからないけど、先生の口角が上がっていたので褒め言葉と激励だと受け取っておく。
確かに、センター試験の日は一月だ。気を抜けない時期なのは分かっているのだが、少しくらい、ほんの少しくらいは褒めてくれてもいいんじゃないでしょうかね!?
そうか、銀八から密告があったんだな? そうなんだな? あの天パめ、あたしの楽しみを奪いやがって!!
いつの間にか自分の矛先が担任に向かっているのは置いておいて、仕事帰りの先生は颯爽とお風呂場に向かっていく。その間に作っておいたおかずを温め直し、夕飯の準備。これもう主婦みたいだね、なんて、そんな事を思っていたのは去年だっただろうか。いやぁ、慣れというのは本当に恐ろしい。
ダイニングテーブルにお皿に盛ったおかずと缶ビールとグラス。そしてお茶碗に炊きたてのお米も盛って、お箸と取皿と一緒に並べ、先生の夕飯支度はこれで終了だ。
タイミング良く脱衣所から出てきた先生と廊下で遭遇し、夕飯の準備は出来ている旨を伝えて自分の部屋へと戻ろうとすれば、肩を掴まれた。
「えっと? なんでしょう…? 今から一応、受験勉強しようかと、思ってるのですが…?」
自分の行動をとりあえず話してみるが、濡れたままの先生の前髪越しに見える右目に見つめられたまま、あたしはどうすることも出来ない。
無言の時間。それは数秒だったのだけど、行動したのは、先生だった。
あたしの前髪を少し乱暴に掻き上げ、そして額に感じる温かさと柔らかさ。――一瞬の事で、ハテナマークは拭い去れない。
「精々、頑張れよ」
ヒラヒラと手を振りながらリビングへ向かう先生の背中を、呆然と見送るしか出来ず、遅れて返事をしてから自室へと入る。
先生の手の感触と、額に感じた感触を思い出してしまえば集中が出来ない。いや、集中しようとすればする程、思い出してしまって、意識してしまって。
「くっそ、あンのエロ教師…!!」
衝動に任せて椅子のクッションを殴るしか出来ない。
そしてその衝動が長く続く事を、あたしは分かっていなかった。
――人間とは、行動と感情を繋げて記憶するものである。とは、どの授業で習ったのだろうか。倫理だろうか、それとも国語の授業で出てきた小説だっただろうか。
ただ、あたしはその一文にとてつもなく共感し、そして痛感してしまった。
家で受験勉強をしようとする度に感触を思い出して集中出来ず、場所を変えて図書館や喫茶店で勉強に励もうとしても思い出してしまう。顔に熱が集まって、耳まで赤くなる。他人に見られるくらいなら家で、となるのだが場所も重大なようで。今までの生活の中で先生に触れられたりした場所が熱くなってきて、一切集中出来なくなるのだ。
これは、なんと言うか、本当に、
「中二男子かしら」
「ですよねー!」
頭を冷やすために外に出てコンビニに寄れば、肉まんに納豆をかけて食べるさっちゃんに遭遇。コイツなら相談できる! と思い、相談。そして、この返答だった。
自分でもなんとなく理解は出来ていたのだ。なんか、性教育の授業を受けて、性事情に興味津々で、エロ本やグラビア本に興味を持つような、そんな中学二年生男子のような感覚になってしまっているのではないかと。これ、自分で思っていて恥ずかしいな?
「名前って、今までまともな恋愛した事ないでしょう?」
「んー、ぶっちゃけますと、恋はしたことあると思うけど……ここまでは、無いです」
「だから、欲求が高まってんのよ。私が銀さんを求めるようにね」
「それとこれとは別だと思います、はい」
「いいえ、同じだわ。手を繋ぎたい。頭を撫でて欲しい。どこでも良いから触れていて欲しい。むしろ鞭で叩いて欲しい。快楽に溺れる私をずっと見ていて欲しい」
「いや待って!? そこまでは無いからね!? それはさっちゃんだけだから!!」
危ない。全年齢向けではなくなるところだった。少し気を抜くと、さっちゃんの爆弾発言が降り掛かるので気をつけないといけない。
とにかく、と最後の一口になった納豆まみれの肉まんを口に頬張ったさっちゃんは、もぐもぐと顎を動かしながらビシッと人差し指を立てた。
「今の名前は欲求が最大限に出てしまって発情期の雌猫なのよ」
「そういう表現止めていただけません?」
「いいえ。止めないわ。初めての本気の恋にキャッキャするのは分かるけれど、これを機に大人の階段を登りなさい。いつまでも純情な乙女で居られるはずがないのよっ? 自分の性欲を受け止めなさいな!」
ヒートアップしてきたさっちゃんの声が段々と大きくなっていく。こうなってしまっては、どうにもこうにもできない。いつも助けてくれているはずの妙も居ないし、ここは自分でなんとかするしか無くなってしまうわけで、とりあえず興奮し続けるさっちゃんを落ち着かせ、真面目に相談をすることにした。
「でもね、さっちゃん。あたしさ、その、そういう感覚、分からなくもないんだよ? 先生に、その、触りたいというか、触られたいというか、同じ空間に居たいなぁって思う、よ?」
「……アンタ、本当にあのエロ教師のこと好きなのね」
「うん。思っている以上に好きになってしまったみたいでして…」
「じゃあ、その気持ち、素直に話してみたら良いんじゃあないの?」
「素直に、と言われましても……言葉が見つかりませぬ…」
「たどたどしくても良いじゃない。名前が素直に話すのって、珍しがるでしょうし。ほら、決戦はクリスマス! って言うでしょ?」
「それ、金曜日じゃなかった?」
「そうだったかしら。まぁ、どっちでも良いじゃない。それよりも、ちゃんと自分の気持ちに正直に生きなきゃ、損するだけよ」
「……うん、ありがとさっちゃん。今日逢えて良かった。誰に相談すればいいかとか、わかんなくてさ」
妙や神楽は――特に神楽は相談できない。妙も勉強に集中していて、最近は連絡もしてないし、新八くんと姉弟でお互いの弱点教科をカバーしているようだ。
トシを含めた風紀委員の面々にも頼れない。だって男子だし。九ちゃんはあたしと同じようにこういう話題には疎そうだし、阿音百音姉妹には尚更相談できる空気ではないと思う。
という事は、こういう話題に一番詳しい人物と偶然にも出会えたのだから、今日は自分の運に感謝するしかない。
「じゃあ、帰るわね。そろそろ銀さんが学校を出る時間なの」
「そっち方面は相変わらずなんだね。変わらないなぁ、さっちゃんは」
「当たり前でしょう? 私のルーティーンワークなの。それじゃあね」
コンビニから歩いて高校へと向かっていく同級生の背中は、なんだか頼もしかった。いや、ストーカー行為を当たり前のように毎日のルーティーンだと言っている時点でおかしいのだが、それがあたしの日常なのでもう受け入れている。
手袋越しに持っていたホット缶が温くなっていている。早く帰って夕飯の支度しないと。
少しだけ気持ちが楽になって、少し暗んだ空から白い粒が降ってくる頃にはあたしの心は少しの幸せで満ちるくらい楽になっていた。
白い息は雪と同化して、地面に積もっていく。
(2020/08/07)