同棲、百十三日目。



断じて、追い詰められているわけではない。ではないのに、思考は止まらない。問題集にシャーペンを走らせる手も止まらず、そのまま次のページを捲る紙擦れの音が部屋に響く。
ヘッドフォンからはリスニング問題が流れ、流暢な英語をなんとか聞き取り、英文の意味を考えながら問いに対する解答を書き込んでいけば、スペル間違いに気付いてしまい溜め息が漏れた。
手元にあったはずの消しゴムを取り損ない、机から落ちていくのを見届けてまた溜め息。
一旦リスニング問題は終わったのでヘッドフォンを外し、消しゴムを拾おうとすると指先で弾いて扉の方へと逃げていってしまう。

「あー、もう……」

折角ノッてきたのに無理矢理止められ少し苛立ってしまったのは、受験生特有なのかもしれない。
椅子から降りて消しゴムを追いかけると、部屋の扉から音が聞こえた。コンコン、と二回のノック。この家に住んでいるのはあたしともう一人しかいないので、はーい、と消しゴムを拾うついでに扉を開けた。

「ほら、飯」
「なんて良いタイミング。先生はエスパーか何かですかね?」
「ふざける余裕があるなら没収すんぞ」
「ひどーい。ごめんなさーい」

お皿の上に整列した、綺麗な形のおにぎり達は先生の性格を表しているのかもしれない。
先生の家事スキルは意外と高い。あたしの勉強中は任せていても、洗濯物を干してくれたり食器を洗ってくれたりしてくれるので、一人暮らしをしていた男性は率先して家事をしてくれるのだなぁ、と思い込んでしまうくらいだ。
世の中には一人暮らしをしていても家事を彼女や奥さんに任せる男性も居るだろうけど、きっと先生は違うだろう。現に、絶妙なバランスの塩加減でおにぎりを握れるのだから、手伝う事くらいはしてくれるはずだ。

「進んでんのか?」
「んー、まぁ。一応。今期末テストやったら満点取れるくらいの自信はあります」
「慢心するなよ。銀八みたいになるぞ」
「大丈夫ですよー。いくら担任だからって、そこまで真似する馬鹿じゃないです」
「そうだな」

あたしがベッドに座っておにぎりを食べている間、先生は机の上に視線を向けていた。
問題集と、回答を記入しているルーズリーフ。ゆっくりと目線を動かしているので、採点をしてくれているのだろう。
しかも今取り組んでいるのは英語だ。日本人なのに他国の言語を学ばないといけない苦悩が離れてくれないものの、文法や意味の捉え方を理解していけば不思議と解けるようになってきた。
単語それぞれの意味を暗記しなきゃいけないので大変だけれど、ラストスパート中なので気を抜かずに何度も解いていたのだが、何か気になったのか先生の視線は机の上から離れない。
最後のひとつになったおにぎりを食べ終え、机の近くにあるウェットティッシュを取ろうと移動ついでに先生の視線を追ってみた。

「あ、ーーっ!!」

失態だ。机の上には勉強道具以外にも置いてあるのだが、ここ最近の一番のモチベーションにしていたポスト・イットを見られていたのだ。
先生の視線を遮ってそのポスト・イットを勢いよく剥がせば、鼻で笑われた。黙って見てるなんて性格悪い。

「覗きに値しますよ…!!」
「見えるとこに貼っとくのが悪ィだろ」
「だって、その、モチベーションでしたから!」
「……へぇ、そうかい」

多分、必死過ぎてあたしの顔は赤いのだろう。
からかいながら顔を近づけて来る先生を避けることは出来ずに、そのまま額にデコピンされた。

「実現するといいなァ。精々頑張れよ、名前ちゃん」
「……ぐ、ぐぬぬぬ……!!」

いつの間にか空になったお皿を持って部屋から去っていく先生の背中に飛び蹴りしたい気持ちを抑え込み、扉が閉まった瞬間にクッションを投げた。
ボスン、と弱い音を立てて床に落ちていくクッションには悪いが、あたしの闘志は燃えに燃えまくっている。
受験は戦争とはよく言ったものだ。他の受験生ーーライバルに負けないよう、試験の成績を良くしなければならない。
でもあたしにとって他の受験生なんてどうでもいいのだ。
あの変態保健医眼帯野郎に一泡吹かせるために、あたしはこの受験戦争を生き抜いてやる。そして、声高らかに勝利を宣言するのだ。

「合格発表の日を楽しみにしておけよ……!」

自分で思っていたよりも、あたしは負けず嫌いだった。


「熱心にお祈りしてるかと思ったら……」
「やっぱり名前はブレないアル」

謹賀新年。あけましておめでとう。
元旦くらいは受験勉強から開放されたいと、妙と神楽に誘われて初詣にやってきた。境内では何人かZ組の生徒を見たけれど、参拝前ということもあり軽い挨拶と会話で済ませ、いざ参拝。
あたし的にはそんな事なかったのだけど、二人からすれば眉間に皺を寄せて長々と祈っていたらしい。事情を聞かれたので少し端折りながら話せば、変わらない事を褒められた。と思う。多分。

「だってムカつくじゃん。売られた喧嘩は買うスタンスなんだよね」
「高杉先生限定でね。でも良いじゃない、応援してくれてるんでしょう?」
「応援と言うよりも挑発に聞こえるネ。相手がバカ兄貴でそんな事されたら乱闘待ったなしアル」
「あー、神威さんはありえそう…。というか、神楽と神威さんの仲なら絶対そうなるね」
「今家に帰ってきてやがるから我慢の限界も近付いてきてるネ…。パピーはともかく、マミーが喜んでるから我慢してるけど」
「お母さんには弱いものね、神楽ちゃん。でもお兄さんも弱いなんて意外だわ」
「確かに。神威さんって反抗期とか凄かったって自分で言ってたし、かなり意外」
「ウチはパピーもマミーに弱いアル。マミーはかかあ天下ヨ!!」

それは良い事なのか? と思ってしまったけど、神楽にとっては大好きなお母さんなんだろう。チーズハットグにかぶりつきながらにこやかに話す神楽の瓶底眼鏡越しに見える青い瞳は、キラキラと光っていた。

「この後は二人とも帰るでしょう? また始業式にね」
「また勉強漬けの日々が始まる…」
「もうすぐで終わるわよ。結果が良ければ、だけど」
「やめてくれヨー、姉御ォー」
「神楽は良いじゃん。お父さん先生なんだから教えてくれるでしょ?」
「パピーは私に甘いから意味が無いネ…。だったらバカ兄貴の方がマシアル」
「まさか神楽が神威さんのことを褒める日が来るなんて…!」
「今日はお赤飯かしら!」
「二人ともからかわないでヨ!!」

からかわれ慣れていない神楽からすれば、自分の立場は人をからかう方なので変な感じがしているのかもしれない。そのままからかわれる側へ移動してきたら良いのに。そしてあたしの苦悩を感じてくれ、マジで。

「勉強教えてもらうっていうなら、名前の方が教えてもらえてるデショ。だって彼氏が現役教師なんだからネ〜、プププ」

こいつ、すぐに対象をあたしに変えやがった…!
まぁあたしには先程話しした内容があるので言い返す手札はあるんだけどね!

「全っっ然! 教えてもらってないよ。むしろ、間違えてるって指摘してきて鼻で笑うからね!」
「想像できるわね。さっきもそうだけれど、挑発して名前のやる気を出していくタイプなのかも」
「教師の役割を放棄してるアル」
「所詮は保健医だからね」

行列に列んでやっと買えたベビーカステラを頬張りながら境内を出る。神楽は右手に唐揚げ串、左手にポテトフライを持って食べながら歩いてる。底の無い食欲は相変わらずみたいだし、妙の面倒見の良さも変わらない。この変わらない友人達とこれからも一緒に居れるように、明日から勉強頑張ろう。
とりあえず、打倒、変態保健医だ。

帰宅したら、自室の机に文字の追加されたポスト・イットが貼ってあった。

(2021/01/19)